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パンデミックと情報化によって、人間の自己家畜化待ったなし


リンクより引用
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人間は、火をおこし、田畑を耕し、街を築き、環境を変えることでみずからを家畜化してきた。

「家畜化」という表現に疑問が沸く人もいるだろうが、まず、現代人の人口密度を考えてみて欲しい。

首都圏などで顕著だが、野生動物では絶対不可能な密度で人間同士が集まり、働き、餌を食ったり生殖したりして社会を築いている。それなら、未来の人間が自己家畜化にますます拍車をかけたとしても驚くほどではあるまい。

とはいえ、人間の自己家畜化の度合いが跳ね上がる時期には戸惑いが、悲喜こもごもの反応が起こる。

2020年代のパンデミックをとおして、日本人の自己家畜化の程度は急激に進んだ。
このパンデミックは、私たちに度重なる予防接種を強いて、今以上の清潔を、防疫を、ソーシャルディスタンスを強いた。

つまり防疫の必要性によって日本社会と日本人の自己家畜化の圧力が急に高まったわけである。

~中略

■病院や学校で私たちはもう管理されている
そうなってしまったら、建前の上では自由でも、人間の実態はご主人様のためにいつも最大限の生産性や効率性をキープしなければならない、そんな家畜めいたものになりやしないだろうか。

この場合、ご主人様に相当するのは人間自身か、人間を使う法人格か、人間を管理する公の機関、ということになる。いや、資本主義のシステム全体がご主人様だとみなすべきだろうか。

どの場合も、世間で広く想像される人間と家畜の関係そのものにはあたらないかもしれない。だとしても、管理の手技は家畜を効率的かつ健康に飼育し、その家畜からのアウトプットを最大化し、その家畜についてまわるリスクを最小化する時の手法と基本的には変わらない。

たとえば健康でよく乳の出るホルスタインを管理してアウトプットを最大化するのと同じ方法論で、社員がリモートワークで最も健康かつ効率的にアウトプットを最大化するよう管理するわけだ。

こう書くと、ひどく人倫にもとる気持ちになる人もいるかもしれない。が、そういう人は、現代人の生のありようについてちょっと振り返ってみてもらいたい。

人間をわざわざ厩舎に押し込めたり、金魚の品種改良のようなことをしたりしなくても、案外すでに、人間の生は家畜化していなかっただろうか?

現代人は、生まれる前からその生のありようを管理される。
たとえば妊娠中は葉酸などの摂取を、出産後も予防接種の接種をといった具合に手をかけられる。

社会人になってからも職場の健診や人間ドックをとおして健康状態をモニタリングされ、好ましい状態へと絶えず管理と介入を受けている。

そうした管理と介入の技術は、病院という空間で用いられるぶんには人倫に沿っていると感じられるが、技術的には、家畜をメンテナンスする時のそれと基本的には変わらない。
違っているのは、その技術の標的が人間だから、家畜と違って殺処分という選択肢が存在しないこと、、その点だけである。

そうした技術が用いられるのはもちろん病院だけでもない。学校もまた、内申点、進学先、学級の選択といったかたちで生徒を品定めしてアセスメントを行い、出荷する。

のみならず、学校は集団としての児童生徒を羊飼いのようにコントロールし、集団として取り扱われるための規律訓練の場としても機能している。

■今に始まったことではない。だが、その行き着く先は
冒頭で触れたように、人間の自己家畜化は太古の昔にまで遡れる。

たとえば火を用いるようになった人類は、まず環境全体を”飼い馴らし”、と同時に自分自身をも飼いならしている。

人間の自己家畜化について多くのページを費やしている『反穀物の人類史』は、まず火と人間の自己家畜化について、以下のようなまとめかたをしている。

~中略

人間の自己家畜化のプロセスについては、著者によって強調するポイントがさまざまで、たとえばこの『反穀物の人類史』では、農民が強力な中央集権国家によって管理されるような歴史のステロタイプに異論を唱えている(し、そこが同書の面白いところでもある)。

とはいえ、人間の自己家畜化について触れたいずれの書籍も、人間が太古の昔からテクノロジーに深く依存し、テクノロジーなしには生活が成り立たない営みを続けてきたとする点は共通している。

だったら人間のさらなる自己家畜化、別に構わないじゃないか? と思う人もいるだろう。

ある程度、私もそうだと思う。

けれども人間の自己家畜化が今よりずっと進んだたら、人間に存するとされる自由はもはや問題ではなくなってしまうかもしれない。

自由がなくなること、それ自体が問題であるだけでなく、自由なんてなくても良いと考える人が増えること、健康や生産性や効率性のために自由を切り売りすることに躊躇しない人が増えることが、この場合、問題になる。

これまた人間の自己家畜化に触れている『ホモ・デウス』では、ビッグデータやAIが発展し尽くした未来に、人間が超人間となるか、さもなくばデータに飼いならされる未来を描いている。

~中略

ハラリが記す複数の未来のうち、どれが一番あり得そうなのかは私にはわからない。

だが、どの未来が到来したとしても、人間だけが特別な自由と自己決定権を有しているかのような人間観は、もう成立困難になってしまうよう私にはみえる、その、人間観を成立困難にしていくプロセスの大きな一歩が、豊田さんのおっしゃる生活基盤の情報化であるように思われるのだ。

~中略

遠い未来、人間は今よりずっと卑屈で従順な生物に成り下がっているかもしれないけれども、それでも私はそれらを人間と呼ぶだろうし、そうやって未来の人間がホルスタインやイベリコ豚のように生かされ、働かされているさまを見てもなお、無意味とは呼びたがらないだろう。

そもそも、そういう線引きで人間の生の有意味と無意味を峻別するとしたら、現代人の生のかなりの部分が、もう既に、無意味の側と判定されてしまうのではないだろうか。

人間の自己家畜化の進行は、もちろん問題ではあるし、それを問題視するのが本テキストの主題だったはずである。

けれども開き直りたくなる一面として、「家畜ですが、何か」という視点が存在することを、私は、まるで蛇の絵に足を付け足すように、書き加えずにはいられなかった。

(匿名希望)
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