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キライなことば――「平和」という生簀

リンク より引用

「平和」は、明治新政府がラテン語のPax(英語のPeace)の対訳に適当な日本語として採用した、古くからある漢語「和平(平らげて和やかにする)」を倒置し「平らげられて和やかな状態」という意味を持たせた造語である。世界史でPax Romanaを「ローマの平和」と習うが、ちゃんと書けば「ローマ帝政の支配にもとづく平和」であり、冷戦期のPax Americanaなどは「アメリカの覇権(脅威)による平和」だ。
ならば「平和」には必ず支配者が要るということになる。これで「平和」が急に嫌なことばに見えてくるのは筆者だけではないはずだ。
耳障りな「支配」ということばを「統治」「制御」「執政」「管理」などと言い換えたところで何も変わりはしない。平和を保つには支配者が必要である。しかし支配される側の人間は支配者を選べないのである。歪みの根はこれなり。

「平和」にあたる語句を日本の祖先が話した「やまとことば」のなかに見出す。
同意とは言い難いが「やす」がそれを包括するだろう。休む、癒す、治す、などの動詞の原型が「やす」である。
漢字をあてると、安、泰、康、保、易、寧、靖、恭、などがある。それぞれ少しずつ違いをもつが大意はおなじくして「争いや病や波風のないさま」である。
「やす」は、天と人と地の間で保たれる均衡とでもいうべき崇高な言葉で、戦火で焼き尽くし軍靴で平らげた「平和」とはそもそも格が違う。

話を平和ボケに戻す。まず「平和」にたいする幻想を捨てなければならない。戦争よりはマシだがそれ程きれいなものではない。平和を誰がどう設計したか見極めないうちは真に良い国は築けないのだ。
そとの海で生きる術など知る必要もない、飼い主のくれる餌をほおばり、外敵の存在もしらない、まな板の上でさばかれていてもまだ気がつかない、生簀の魚のような生きざまを平和ボケという。

魚ならず人であれば若いうちにもっと外を見て歩くべきだ。テレビを消して、新聞や雑誌も捨ててはどうか。遊びのための小遣いを旅にあててはどうか。そしてその目で確かめて欲しい。


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