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マスコミの「迷惑行為」が社会でこんなに叩かれる理由

現代ビジネス 2019.6.2の記事より

◆ツイッターやフェイスブックなどのSNSの名物の一つがマスメディア批判である。

直近の例では、滋賀県の保育園の園児や保育士16名が巻き込まれ、うち園児2名が亡くなった交通事故にさいしての記者会見が批判を集めている。さらに、同事故の遺族による声明文を、取材の自粛を求める部分を削除して伝えた報道に対しても厳しい批判の声が上がっている。この件に限らず、近年では大きな事件や事故、災害があるたびにメディアスクラムや報道被害が告発されるようになっている。

ただし、このような告発は、取材記者のふるまいが以前よりも「悪化した」から生じるようになったというわけではない。それどころか、取材記者のふるまいは以前と比べればむしろ改善されている可能性のほうが高い。

(中略)

冒頭で紹介したマスメディア批判と並んで、SNSの定番といえるのが「迷惑」にたいする批判である。電車や飛行機のなかで迷惑なふるまいをする乗客に乗務員が毅然とした態度をとったことに他の乗客が拍手喝采、といった書き込みを読んだことがある人も多いだろう。現代における不寛容を考えるうえでキーワードになるのが、まさにこの「迷惑」である。

先に見たように、他人に干渉しないことが守るべき社会規範となった社会では、とりわけ不愉快なかたちで他人に干渉すること、すなわち「迷惑」が重大なマナー違反になる。迷惑とはまさしく、尊重されるべき個々の生き方を妨害する行為にほかならないからである。

ここで個人的な経験を語らせてもらうなら、子育てにおいてとにかく気を遣ったのが、他人に迷惑をかけないようにするということであった。

マンションの階下の住人にうるさくならないよう家の中では静かに歩かせる、電車の座席に座らせたときには子どもの靴が隣の人に触れないようにする、飲食店で泣き出したならすぐに抱っこして店から連れ出す等々、とにかく人様に迷惑をかけないことが外出時の至上命令であったとすら思う。

このように他人に迷惑をかけないよう気を遣っている人間にとって、とりわけ不愉快なのが、そういうことをまったく気にせず生きているように見える人びとである。マンションなのに子どもをドスドス歩かせる、電車のなかで子どもを傍若無人にふるまわせる、飲食店で子どもが騒いでも注意しない等々を目にすると、自分が気をつけているぶんだけ余計に腹が立つ。ルールを一生懸命に守ろうとするほど、そのルールを破っていても平気にみえる人に対して不愉快になるのだ。

不愉快になるなら見なければよい、というのは正論である。ところが、世の中は必ずしもそのようには回らない。不愉快だからこそ余計に見たくなる、というねじれた心理が存在するからだ。

(中略)

「他人には干渉しない」という態度の広がりによって、私たちが暮らす社会はたしかに一面では寛容になってきた。もちろん、少し前に話題になった不登校を公言する小学生ユーチューバーの一件でも明らかなように、つねに多様な生き方が人びとから肯定されるわけではない。それでも、「人はいかに生きるべきか」について、以前と比べれば個々人の選択が尊重されるようになってきたことは確かである。

だが、「他人に干渉しない」ことが規範になったとき、他人に不愉快なかたちで干渉すること、つまり迷惑をかけることは規範からの重大な逸脱になる。そして、迷惑行為の定義が曖昧なことに加え、全体でみれば日本人のマナーが向上したことが、さまざまなところに「迷惑」が見いだされ、糾弾されるという状況を生んでいる。いわば、不寛容な寛容社会とでも呼ぶべき社会が生まれているのである。

こうした社会において、とりわけ迷惑な存在だとみなされがちなのがマスメディアである。

事件や事故で傷ついている人に無神経な質問をぶつけたり、混乱する災害の現場にやってきては傍若無人なふるまいをする。退避勧告がでている紛争地帯に勝手に入った挙げ句、拉致されて外務省の職員に手間をかけさせることすらある。しかも、それらの行為を社会正義によって正当化しようとする。これほどまでに迷惑な存在がほかにあるだろうか。

もっとも、先に述べたように、おそらく全体としてみれば取材のマナーは向上しているだろうし、実際に会って話をした記者の方々には好感を抱くことが多い。単なるイメージや思い込みだけで批判されている部分も多々あるはずだ。マスメディア批判それ自体が一種のプロパガンダとして活用されている状況も、さまざまなところにみられる。

また、ネットで流れるニュースの大部分が元をたどればマスメディアから発せられていることからしても、現代においてなお情報流通においてマスメディアは必要不可欠な存在である。筆者はまた、ジャーナリストがリスクを負って紛争地域に入り、取材を行うことの意義を認める立場をとっている。

それでも、良くも悪くもわれわれは不寛容な寛容社会に生きており、取材活動という「業」を抱え込んでいる以上、記者がどうふるまおうともマスメディア批判はおそらくなくならない。

迷惑だとみなされないよう可能な限り行儀よくふるまうのか、それとも多少の批判はスルーすると決め込むのか。それは、マスメディアの記者のみならず、ネットで何かを発信するすべての人間にとっての選択でもある。



匿名希望
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