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思い出として語られることを通して

 私は小、中学校の頃、アニメ、ドラマやバラエティー番組など本当によくテレビを見ていた。テレビを見ることで友達との会話に入ることができたし、何か不思議な連帯感さえ感じていた気もする。しかし大学に入ってからテレビ番組を見ることは次第に少なくなり、いつしかテレビは映画を見るための道具にしかならなくなっていた。テレビを見ることより外へ出かけ、友達と遊び、いろいろなものを見て回ることのほうが有益に思えたし、実際そのほうが楽しかった。いつの間にか私はテレビそのものに存在価値を見出せなくなってしまっていたのである。なぜそう思うようになったのだろうか。
 
 最近、同級生と同窓会をする機会が増えたことで、私は自分の過ごしてきた今までの人生をふり返ってみるということが多くなった。その中でふとしとことから気付いたことがあった。私と多くの同級生との間で交わされる会話の内容の多くは、彼らと私が共に過ごした実体験に基づく思い出ばかりなのである。小、中学校の頃は学校での友達との話題の多くが昨日のテレビ番組のことばかりであったにもかかわらず、それらのことは全く会話に出てこないのである。そういえばあれほど毎日見て面白いと思っていたテレビの内容が驚くほど思い出せない。それにテレビを見ていたことが楽しかったと思えるほど思い出になっていないのである。逆に、つい先日あったことのように鮮明に思い出されるのは、自分が当事者として実際に経験したこと、発見したことであり自分が手応えをもってじかに現実にふれたことなのである。結局、私と同級生との間に残ったものは、毎日話していたテレビの内容などではなく私と彼らという現実に生きた当事者同士の実体験であり、それに基づく関係や認識だけだったのである。
 
 大学に入ってからは、テレビがもたらす短絡的な面白さが、実際には私たちの体の中に本当には染み渡ってはいかず、楽しい思い出として残ってはいかないことに無意識のうちに気付き始めていたのかもしれない。テレビから流される知識や・意見・情報・答えが現実を生きる私たちの社会の中では、どこか現実離れした虚構の世界にしか映らず、本当に役に立つことは少ないことにも気付き始めていた。だからこそ、いつの間にかテレビ離れをしてしまったのであり、テレビそのものに存在価値を見出せなくなったのである。
 
 テレビは自己完結的であり私たちに情報を与えるだけ与え、実際には何もしてくれないのである。あくまで実際に考え行動し、認識をつくり出すのは現実を生きる私たちなのである。テレビを本当に面白いと思っているのかどうかは、自分の胸に手を当て、テレビが与えてくれたものが心の中にどれほど残っているのかを考えれば自ずと答えは出るのではないだろうか。




伊賀本寿徳
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