fc2ブログ

口承文化と演劇の違い

以前、統合板の方で、傍観者を作り出す演劇というシステムについての議論がありました。

ローマの叙事詩のような演劇も、アイヌやアメリカ先住民に代表される口承文化も、同じようにコトバあるいは身振り手振りを交えた演技や踊りによって、ある事象の追体験をするという点では同じですが、根本的にその目的が異なると思います。

前者は、私権統合の一様式としての英雄譚であり、現実の世界の苛烈さとかけ離れた勇者の活躍の物語が、いつ奴隷身分となるかも分からない市民の代償充足の刷毛口として、人々を熱狂させました。

現実に対して、とことん傍観者に堕することこそがより強力な代償充足であり、それは私権時代を通じて必要に応じて市場化され、ますます強化されることになったのです。

当然、不全の源である私権が衰退した現在、場はまさに転換し、現実への関わりへの欠乏-当事者としての-が、演劇システムそのものの衰退へと繋がっていきます。

一方、口承文化といわれるものは、

>先祖や年配者の体験を共有することで、危機状況や
>不測の場面に出会った際の対処法を共有する、とい
>う効用があったのではないかと思われます。
(42827 「口承は、実現回路を形成するまつりの場の様式」北村浩司さん)

>伝承したい中身とは認識そのものであり、常に語る
>ことで実現回路が強化される~そんな印象を強く持ちます。
(42965 「認識ライブは口承文化の復興」田野健さん)

という意見の通り、如何に生きるか、それを如何にリアルに伝えてゆくかという、極めて現実的な作法のひとつであったのではないでしょうか。

むしろ、口承文化をかたくなに堅持しているということは、文字化した場合の価値の固定化・逆の場合は現実からの乖離に陥らないための民族の選択であったことの表れだと思います。

概念の言語化・文字化に代表される、「抽象化」という行為は、常に人としてのより高度な観念機能の産物とされていますが、作為的に概念を歪曲させて錯誤させる目的でこれを用いた場合、これほどたちの悪いものはない、と思います。



渡辺卓郎
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)