fc2ブログ

カブキ考③‥続:何故人々はヤクザ者に憧れたのか?

しかし、歌舞伎に対する人々の欠乏は、善悪の明快な物語よりも、もっと複雑で両義的なものを求めていきます。例えば、弁天小僧。博打の金欲しさに泥棒に身をやつしながら、劇的な父子の再会を経て最後は悲劇の切腹を遂げる。ここでは現世における悪であっても、善なるものが内在されているのだという「人に皆内在する良心」が作品のテーマです。男女ものでも離縁を告白して殺される女も実は、相手のことを思っての離縁だったのだというパターン(愛想づかし)が江戸大衆の注目を集めます。

ヤクザもの、白浪もの(泥棒もの)、愛想づかしもの‥。そのいずれもが「社会的悪事でも内面は本源的=人間的」という悲劇物語です。私権の現実を対象化したとたん、とても当事者として私権の現実を生き続ける事は困難であって、如何に知略をこらし私権課題と向き合っても虚しい=本源回路が充足しない。こんなことならさっさとこの私権の現実からドロップアウトしてしまいたい。その方が人間的なのではないか‥そんな人々の現実逃避欠乏を代償充足させるために生み出されたのがカブキという芸能なのです。

何故、人々はヤクザ者に憧れ、泥棒を英雄視したのか。それは私権時代において、私権課題を前にした人々が常にドロップアウト=現実逃避欠乏に苛まれた傍観者であったことの裏返しなのです。「社会的悪事でも内面は本源的=人間的」という芸能が提示する幻想観念はヒューマニズムの倒錯性の結晶であり、本質だといっていいでしょう。「現実において人間らしくあれないけど内面だけの人間性」を美化すること。それが私権時代の芸能の役割だったのです。

>「全てこの世は舞台、人は男も女もみな役者」(「お気に召すまま」シェークスピア)という言葉があるように、彼らが、結局、現実に対して、傍観者でしかなかったからです。 彼らは、人々の目を眩ます技術にこそ長けてきたのであって、だからこそ、市場社会の中で職業として成立することが可能になったのです。35152

近代以降、ゴダールをはじめとする前衛的な芸能作家は革命に急接近していくが、芸能の本質が現実逃避にあることを徹底総括して作品化に向き合った例を私は知りません。かつてはそんなごく僅かな可能性にかけて芸能の探索に余念がなかった。きっと優れた時代性を持った作家がなにか、現実のなぞを解き明かし変革可能性を提示してくれているに違いないと‥。しかし、傍観者/当事者論を手にした今、それは不毛な探訪であったと総括できる。

傍観者/当事者論は私の中に吹き溜まった芸能回路を解体してくれます。それは、芸能の観客=傍観者でありつづけることよりも、むしろ楽しく、可能性のあるプロセスです。芸能回路によって蓋をされていた本源回路の実現可能性への欠乏=当事者欠乏を解き放ち、当事者としてこの認識形成サイトに参加していくこと=皆の役に立つことははるかに現実的で楽しい。



山澤貴志
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)