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マスコミによる擬似共認を越え、本来の共認へ。


>そもそも人々が求める共認というものが、いきなりマス的では無いとも考えておりますが如何でしょうか。<(斎藤さん)

人々が求める(はずの)共認は、五感を駆使し、対面で交感するものだと思います。ただ、日常にそのような共認の場を失った現代人(とくに都会人)は、マスコミに代替共認(充足)を求めざるを得なくなったのではないでしょうか。そのような需要がマスコミの盛衰を左右しているのだと思います。

マスコミによる一方的な発信内容でも共感できる部分があれば共認は成立したような感覚があります。それは一方向で完結してしまうので、その共認の感覚は飽くまで“擬似”ですが、疑似体験でも充足を伴います。それは差し迫った課題がないため飽くまで解脱止まりであり、集団課題を捨象した個人や家庭にとっては都合のいいものです。

都市部の拡大(本源性を残す農村の衰退)とともにバラバラの個人や核家族が増え、これにともなってテレビが普及し視聴時間が拡大していったのも、そのような共認の代替充足が求められた結果ではないかと思います。

そのような状況を背景として見ると、マスコミ(とくにテレビ)の歴史とは、より本来の共認に近づこう(それを求める人々の欲求に応えよう)としてきた流れとしてみることができるのではないでしょうか。

例えば、娯楽性の薄いニュース番組について見てみても、当初は静止した画面にアナウンサーの声だけが流れるスタイルでした。それがアナウンサーやキャスターと呼ばれる人がテレビカメラの前でしゃべるのが一般的になります。現在では、そのかたわらに相づち(合いの手?)を打つ女性や学識~タレントなどのコメンテーターがいたり、そのやりとりを見せるものが人気となっています。昨今では、キャスターが視聴者の思いを代弁すべく自分の意見(と思われるもの)を画面に向かってぶつけたりします。

そのような“演出”は、いかに本来の共認にせまれるか、あるいは、共認できたと“思わせる”ことができるか、という努力であるように感じます。

そういう流れを背景としてみた場合、ここにきてテレビを視聴する世帯が減少する(総世帯視聴率の低下)という兆候は、新しい流れ、すなわち、より本来の共認に近いものを求める動きと捉えることができるのではないでしょうか。



熊谷順治
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