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マス・コミュニケーションと共認

>マスコミにとって深刻なのは、誰もマスコミを信用しなくなっているということでしょう。(熊谷さん)

マスコミに関する貴方との議論で私は、どちらかというとマスコミの問題と言うよりは現代社会がどの様な社会なのかということの方に関心が移りつつあります。そういう意味で貴方が指摘される「誰もマスコミを信用しない」ということは多くの示唆を含んでいるものと思います。(おそらく「マスコミ」という新聞やテレビなどのメディアの機能的限界というような議論は、それだけではさほどの広がりを持ち得ませんが、こと「億を数えるような人々が共通的に必要とする社会的な事実の伝達=マス・コミュニケーション」というものを想起した場合、そもそもそういったものを人々は本当に必要としているのか、そういうものが登場する社会とは如何なる社会なのか、人々の求める共認とマス的なるものはどの様に関係しているのかというような様々な疑念を生じさせます)。

人々にとって「マス的な共通性」と言った場合にまず想起されることは、政治・経済などの、国家や市場というマス的なものに起因する「人々が共通して帰属する社会的な集まり」における事柄と言うことになるでしょう。しかし現代におけるそういう事柄は人々それぞれの利益若しくは生活に少なからず影響を与えるという規制的な事柄がほとんどであり、そう考えると必ずしも人々が望むべき欠乏の対象というより、強制的に必要化されていることだと言えるように思います。そうした情報群がマス的であるのは、現在の社会そのものがマス的であることに他なりませんが、こうしたマス的な社会も、そうした社会に規制される人々とは全く別に、そうした社会でもっと大きな利益を得ることの出来る一部の人々によって形成されたと概観的にはいえるでしょう(人々は現代社会を共認していると果たして言えるのでしょうか。私はむしろ容認しているという程度に理解した方が良いように思います)。

マスコミが登場して以来、人々がマス・コミュニケーションを通じて得た共認とは何でしょうか。恐らく愛や自己実現やゆとりなどの現代的な個人主義的観念ということになるでしょう。しかしこうした事柄も人々が求める以前に、一方的かつ繰返し吹き込まれたのであり、人々は要するに無自覚的かつ強制的にその様な価値観念に洗脳されただけと言うことが出来るでしょう(人々がこうしたことを共認していると感じるのは,広く画一的に行き渡っている事による錯覚では無かろうかとさえ思います)。

この様にマス的なるものとして社会や観念を見渡したところで、マス的に共有されているものと人々が求める共認とは無関係で、であるならば、そもそも人々とマス・コミュニケーションというものが、結局当初からある断絶を孕んで決別しているものと言うことが出来るのではないでしょうか。熊谷さんが指摘される「誰もマスコミを信用しない」ということは、メディアであるマスコミの機能的な限界と言うことに加えて、マス・コミュニケーションと共認というものが、本質的には容易に結びつかないことがいよいよ露呈したことで生じるものと理解しております。

そして、そもそも人々が求める共認というものが、いきなりマス的では無いとも考えておりますが如何でしょうか。



斎藤裕一
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