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司馬遼太郎が神に祭り上げた、テロリスト吉田松陰 1


明治維新というテロは、テロリストである吉田松陰を、井伊直弼が、神に祭り上げ、その後、昭和になって司馬遼太郎が、ウソ八百の創作歴史小説で歴史を捏造し、美化された。

闇の正体は 偽ユダヤ (グローバリズム)リンク
より引用
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幕末の思想家と言えば、まずあげられるのが吉田松陰です。維新の志士を多数輩出した松下村塾の主宰者にして、維新の精神的支柱となった偉大な思想家、教育者であり、正義を貫き「安政の大獄」の犠牲となった悲劇の主人公。実態は全く違っていたようです。

■吉田松陰、その人を見る
「・・・政府はこうして早くも欧米の圧力からの民族独立という課題を、隣邦朝鮮・中国への侵略とむすびつけた。欧米には『信義』をたてるという名で従属しながら、朝鮮・中国の侵略をめざすというのは、幕末に長州藩士の指導者吉田松陰が説いたことである。

「松陰の思想の基本がどこにあったか?」松陰は幼少時から、神国思想・尊皇思想を父からたたきこまれていた・・・一般の多くの有識者にとって、神国思想は一般的であった。それが 松陰の中ではより以上に抽出・濃縮されてほとんどその思考によって「がんじがらめに」なっていたのである。その彼が、外国を知り、その脅威を肌で感じたその刹那に 皇国の危機を感じたのである。その危機意識が 松陰に『対外的膨張主義』を考え出させるに至る。

 松陰が理想とする皇国は、天皇統治のもと対外膨張をすることで光輝を得る。ここには、軍事力による侵略主義の性格がある。この露骨な軍事力による海外雄飛は、ペリーの軍事的圧迫による開国要求と同じである。(高橋文博著 「吉田松陰」より引用)

これは、読めばわかるように 明治以降の政府の方針そのものではないか?松陰の父親から受けた教育のせいもあるが その思考は上に述べたように アメリカやイギリスなどの欧米諸国と同様 植民地政策を取りながら欧米の干渉を排除するのが、その方針だったのは明らかである。これが、明治政府の基本方針となった。明治政府のその方向性が誤っていたとしたら それは松陰の思考のゆがみによるものであろう。

次に、松陰の平等思想について述べてみよう。よく、松陰は「平等の思想を持っていた」という点で有名である。しかし、その平等な思想の中身を考えてみよう。

松下村塾において門弟の身分の上下を問わなかった点において確かに松陰は他の多くの武士とは違っていたであろう。しかし、その発想・武士としての考え方は 他の武士達と変わらない。

彼もまた幕府を廃し世の中を天皇を中心とした国に作り変えようとする場合に頼んだのはやはり武士であった。平等であろうとしながらも武士階級とその他の『農工商』の違いを念頭においており決して彼らと手を繋ごうという気持ちは無かった。(但し、これは松陰のみでなく他の多くの武士もそうであったが。)武士である自分達の特権階級にしがみついてしまい、そこから抜けられなかった。

 松陰は 民衆を利用できるなら利用しても良いと考えているようである。しかし、民衆と手を取って戦おうとするような気持ちは見られない。あくまで 民衆とは違う自分達の武士としての立場から抜け出られないでいる。ここら辺が 松陰の限界と言えるかもしれない。そして、この師に教えられた 伊藤博文や山形有朋らが この限界を感じる事も知ることもできず ただ弾圧するしかなかったのも 当然だったろう。

■吉田松陰というウソ
私どもの世代が受け、現在も脈々と続いている「官軍教育」の中で、「吉田松陰」という存在はその代表的な偽りである。今も信じられている吉田松陰像とは、大ウソであると断じていい。一言で言えば、松陰とは単なる、乱暴者の多い長州人の過激派若造の一人に過ぎない。今で言えば、センスの悪い地方都市の悪ガキといったところで、何度注意しても暴走族を止めないのでしょっ引かれただけの男である。

長州藩自体がこの男にはほとほと手を焼き、遂には士分を剥奪している。つまり、武士の資格がないとみられたはみ出し者であった。

実は、松下村塾とは、陽明学者ともみられる玉木文之進の私塾である。安政2(1855)年、またも実家預かりの身となったままで叔父であり師でもある玉木文之進の「松下村塾」の看板を掲げ、久坂玄瑞や前原一誠たちと交わる。これは、僅か3年で閉じられるが、世に言う吉田松陰=松下村塾という維新のシンボルとも言える言葉は、この時期のことを指している。

木戸は明らかに門下生でも塾生でもなく、高杉も“門下生”と言うより“ダチ”と言った方が近い。そもそも、松陰の松下村塾とは、師が何かを講義して教育するという場ではなく、同志が集まって談論風発、「尊王攘夷」論で大いに盛り上がるという場であったようだ。

安政5(1858)年、日米修好通商条約が締結されると、松陰は老中;間部詮勝の暗殺を計画、藩は再び松陰を捕縛、投獄した。 安政6(1859)年、幕府は松陰の江戸への送致を命令、松陰は伝馬町の獄舎にて斬首刑。満29歳(享年30歳)であった。

松陰は、大老;井伊直弼の暗殺も主張していた。また、幕府転覆を堂々と主張し、藩に対して大砲を始めとする武器の支給を願い出たりしている。とにかく、暗殺、暗殺と喚く。長州藩が、杉家の杉梅太郎(松陰の兄に当たる)に警告を出している。

『妄動してやまざれば投獄あるのみ』

こういう松陰を「師」であると崇めだしたのは、維新が成立してしばらく経ってからのことである。 拾い上げたのは、日本軍閥の祖、長州閥の元凶、山縣有朋である。気がつけば松陰は「神様」になっていたのである。松陰の外交思想というものは余り語られないが、実に稚拙なものであった。北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有するべきだというのである。これを実行するのが、彼の言う「大和魂」なのである。一体、松陰はどういう国学を勉強したのか。

☆ これって そのまんま 明治以降の 田布施の 頭の弱い やりかたですよねぇ ~ 。



本田真吾 
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