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剽窃論第三章 知的財産の人類的意味その2

武田邦彦のブログリンクより転載します。
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2.学問における他人と自分・・・学者のプライド



「利権」だの「ごまかし」だのとつまらない話が続いたが、実は剽窃論の中心はもっと崇高なものである。私も学者の一人だが、私たちは人類に「知の財産」を提供することを業としている。コメやサカナを捕る仕事、自動車や家電製品のように物品を提供する仕事、家事や育児、床屋、デイサービスなどのサービスを提供する仕事などがこの世にあるが、その一つが「知的財産の提供業」がある。



知的財産の提供業としては、学者、作家、画家、音楽家、戯曲家、番組制作業などがあり、放送業、出版業は知的財産の拡散業で通常は収益を目的としている場合が多い。学者以外も同じだが、学者としての仕事は原則として「非営利」であり、仕事の動機は「興味、探求心」などであり、人間の性質に含まれるこの種のものを原動力にして仕事をする。



多くの人が「趣味の生活」や「自分のやりたいことをする」という人生を望んでいるのだが、なかなかこの世はそうはいかない。ほとんどの人は「手間賃」(他人を車で運ぶタクシーの運転手さん、卸から品物を買って小分けして売る小売商、全自動ができないんで組み立てる自動車工などで立派な職業)で生活している。知恵をもとにして仕事をする弁護士さん、会計士さん、お医者さんなども「自分の好きなことをする」のではなく、「知恵を使った手間賃」というところがある。



それに対して学者というのは実に自由な職業で、「自分で何を研究するかを決め」、「自分で自由に研究し」、「嫌いなったらいつでも止められる」というのだから、世にも珍しい仕事だ。でも大学教授のほとんどはそうだし、理研などの研究機関も若干の縛りはあっても、やはり自由が多い。



しかも、研究費は自分のお金ではない。お金も出さない、自由奔放に研究ができる、それに学会発表に行くのに国内はもとより海外まで行ける、さらに結構、他人は「先生」と言って尊重してくれる・・・だから、私は自分の仕事の成果が「公知」になることがプライドだった。誰でも私の研究結果、文章、式、なんでもどういう形でも利用してください、なにも求めませんということだ。それは当たり前で、お金から場所からテーマからやり方まで自由に与えてくれるのに、それで何かの権利を主張する方がおかしい。



だから私は「学問の結果は共有物」との認識が強く、「誰」とか「何時」というものを問題にしなかった。当時(私が完全に現役の時)、「属人的、経時的なことはすべて排除する」と言っていた。たとえば「トインビーが1960年代に著した歴史の研究で、民族が目覚めるときは」と書くところ、「歴史学によると民族が目覚めるときは」と書き、もちろん文献も引用しなかった。



学生があるデータを整理して持ってきたら、「君、このデータも入れて整理したらよい」と言って他の学生のデータを示した。学生が「それは**君のデータだから」というと、「科学に「誰」ということはないよ。データに所有権はないし、仁義もないから」と教えた。



ところが、「学問には人も時も関係がない」という私の考えは多くの人は受け入れてくれなかった。だから、現実には、他人の業績(私に言わせれば人類共通の成果)を引用したり、学生に「とはいっても、整理するときだけ人のことを忘れて、レポートの末尾に彼の名前を入れておいた方が良いだろうね」と言った。妥協していたが、本当は不本意だった。



学問は真実を追求するものであり、それは人間にとって困難なことだ。だから、できるだけ「事実や因果」と関係のないものを考えないようにして、純粋にデータと向き合わないと真実がわからないと思っていた。学生にも、「自分のデータ、他人のデータと区別していたら事実は分からないよ。全部、自然のものなのだから」と教えていた。



そんな私にとってみると、もともと剽窃などということの意味も理解が難しい。著作権や特許権は社会が権利として認めているのだから、それに従うが、権利もないものを自由に使ってはいけないと言われると、その理由を聞きたくなる。聞いてみると、「その人に悪い」とか、「自分の業績を膨らまそうと思っているのか」といった、およそ学問に関係のない理由を言われる。まったく納得できない。



学問に身を投じたのだから、すでに禊は済んでいて、「学問の前に個は捨てる」ことはできている。「個」がないのだから、「他人」も「自分」もなく、「遠慮」も「業績」もない。自分がこの研究を考えるのに使うべきだと思うものは自分であるとか他人であるという意識はない。また自分が使っている言語、思想、概念、理論式、解析方法、データなどおそらくは99%は、言ってみれば他人のものであって、自分が独自にやることは自分の著作物であっても1000分の1を上回ることはあるまい。だから学問には自分はもともと無い。



自分が「個」から離れて「真実」と向き合うとき、はじめて私は「学問にたずさわる喜びと感激」を味わうことができる。人から評価されるかとか、そんなことは一切、私の心にはない。それでも不満には感じない。お金も場所も地位も提供してもらい、自分勝手に研究したのだから、もう求めるものはないからだ。



剽窃論の中心がここにあると思う。だから私は「剽窃」という言葉自体が学問への冒涜と感じられるのだ。
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以上です。


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