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スマホやテレビの害は目だけではない①

心に青雲リンクより転載します。
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 13日に書いた「もの忘れ」についての原稿は、実は認識面からの論考であるが、本当はもうちょっと実体面からも考えねばならないとは思っていた。 
 それを書いてみるが、医師の方などが研究してほしい問題である。

 われわれが、電車のなかに傘を置き忘れるというような、うっかり忘れをなぜ起こすのかというと、あのわれわれの生活にすっかり根付いてしまったテレビというシロモノに一つの要因があるのではないかと考えるのである。

 テレビだけではない。昨今では、パソコン、スマホ、携帯電話、電子辞書、ゲーム機などが周囲にあふれかえっているけれど、それらに共通することである。諸兄姉はなんだと思いますか?
 電磁波の悪影響を指摘する声は多く、ネットで探してもたくさんあるので、ここでは触れない。

 答えは言うなれば「視野狭窄」ということである。
 もちろん病気の視野狭窄ではないけれど、イメージとしてそう捉えていただければ…。

 人間はあるモノを注視する場合、そのモノの周囲も見えている。目に前のネコを見たとすれば、ネコがいるソファも見えているし、床や壁も見えている、というようになっている。それが人間にとっての見るということだ。

 ところがテレビ、パソコン、スマホ、携帯電話、電子辞書、ゲーム機などの画面の場合は、その中しか見ない。周囲がまったく見えていないわけではないけれど、人間本来の見え方に比べると、著しく視野を狭めて見ているのである。

 クルマの運転を考えてもらえばよいか。
 運転しながら前方のクルマ1点を見ているわけではない。視線を動かしているだけではなく、一点を見据えつつ前方を見、後方をバックミラーで見、全体的に見ているのである。信号を確認しながらも、前後左右のクルマの動きは漠然と見ているのだ。
 一点を見ていても、奥行きの景色も見えている。

 あるいは舞台を見ているとすれば、中央で演技する主人公のみ見ているのではなく、舞台全体のなかの主人公を見ている。舞台では中心人物にだけスポットライトを当てて、周囲を暗くしてしまう演出があるが、テレビ、スマホなどの画面はあのようないわば不自然な見方のようなものである。

 しかもテレビ、パソコン、スマホなどの画面は遠近感とか奥行きもはなはだないものを見ている。本来的には一点を凝視していても、自然にその近くも遠くも、像としては映っているのだ。スマホやテレビなどは、奥行きがない凝視になっている。30センチなら30センチの距離で長時間固定されてしまう。

 画面が壮大な景色を映していても、目は遠近を見ているのではなく、遠近があるかのごときある一点に焦点を当て続けているだけだ。眼球は焦点を近くを見たり遠くを見たりして眼球周囲の筋肉を運動させているのに、それがない。

 最近は、道路を行き交う人たちの多くが歩きながらスマホや携帯の画面を見ている。実に危険である。バカじゃなかろうか。
 彼らは、目の前30センチほどの小さな画面に視線を釘付けにしながら、歩いている。もっとひどいのは自転車をこぎながら極小の画面に見入っている。

 あれこそ「視野狭窄」の際たるもので、周囲に人がいようが自転車が迫っていようがまったく見えていない。自分がそういうマナー違反をしていても、人や自転車がよけてくれると思いこんでいる。
 クルマにはねられて死んでも、あれ?と気がついたら三途の河原にいたとなるまでボケッとしているのだろう。

 危険なだけではなく、あの状態は「これが体に良いわきゃないよ♪」と植木等が歌った「スーダラ節」みたいなことになる。目が悪くなる。目が悪くなれば頭も悪くならざるを得ない。
 なにしろ、人間の認識の原基形態は対象の反映から始まる。これが極めて人工的というのか、不自然なありかたを強いられるのだ。

 本来、動物の視力とは、天馬空を翔るがごとき奔放さ、運動性があるものなのに、テレビ、パソコン、スマホ、ゲーム機などの画面を凝視するのは、一点集中で動かさない。視線が動いているようでも、それは画面が勝手に動いているのであって、目は運動していないのだ。
 とんでもない形態なのである。 

 だから子供のときからゲーム機に熱中させるのはいかがなものか、なのだ。
 悪いことに、ゲームとかテレビ画面とかは面白い。熱中して凝視を続けてしまい、動かなくなる。

 それゆえ近視になりやすい。
 昔は本の見過ぎは良くないと言われたが、本はまだよいのであって、テレビやスマホなど挙げた例では、光が向こうから強引に目に注ぎ込まれる。
 これは言うなれば、水を自分で飲むのではなく、口に蛇口を押し込まれてどくどくと流し込まれる一種の拷問のごとき形態である。
 目だけが不自然に酷使のうえにも酷使されてしまう。

 本来、そんなことは体にとっては苦痛なのに、画面が面白いものだから、体があげる悲鳴を押さえ込んでしまう。認識が本能である苦痛を狂わせるのである。
 受験勉強が得意なやつは、長時間いくらでも机に向かって座っていられる異常事態を、認識で押さえ込んでいる。本能では人間は動き回りたいものなのに、何時間でも平気でじっとしていられるのは、認識が本能を狂わせているからだ。

 狂わされるから、あの受験勉強の形而上学的知識集積が耐えられるようになり、認識と実体の運動性、すなわち弁証法性が失われていく。秀才ほど弁証法的アタマになれない理由のひとつがこれなのだ。
 知識秀才はだから、相対性原理などというまやかしが信じられてしまう。こういう奴にいくら説いても、わかるわけがないのである。

 目は五感器官の一つであって、感覚器官は視覚、嗅覚、触覚などとあわせて像を形成するようになっているのに、視覚だけを強烈に酷使しては、感覚器官がバランスを壊してしまう。

 こういったことごとが人間の頭をおかしくしている原因の一つではないかと思われるのだ。それが「うっかり忘れ」を引き起こしている原因なのかもしれない。

 「老犬」氏が、「超秀才の甥が財布を落としたりしていた」とおっしゃっているが、実にこれは超秀才だからこそ、ものを忘れてしまうような本能を狂わせた勉強を長年なさったからだと言えるのではないか。
 一方で「鈍才でももの忘れするぞ」と言いたい向きもあろうが、これはテレビ、スマホ、ゲーム機などを至近距離で長時間おもしろがって見続けたせいではないのだろうか。
 
 とりあえずはあまり長時間、あのような画面を見続けないことが大事であろう。PCで仕事をせざるを得なくなっている時代だが、30分ごとに目を遠くを見たりして運動させることであろう。
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続く


新聞会
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