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”阿吽の呼吸”が消える国技

若い東大卒女性の過労死が大きく取り上げらえると「働き方改革」、こどもの虐待死報道が続けば「親の体罰禁止」。社会的事件が発生するとより深い原因を探ることなく対処療法的な法律がつくられます。そして多くは「つくりっぱなし」、ゆえに同じことを繰り返す。

機械ではない人間社会、先っぽだけを変えても、根本解決にはならない、どころか小手先の「改革」の煽りを受けて、元々あった本質価値が見失われてしまう。

こんな世界にも・・、という事例を紹介します。

村松友視「北の富士流」より
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大相撲人気の回復の中で、「立合いに両手をつく」は、行司や審判委員のきびしい監視もあって、力士全体にほぼ行きわたっているように見える。今日の土俵において、「両手をつく立ち合い」もまた“正義”の象徴のごとく実践されている、と私の目には映っている。

だが、この作品を書くにあたって、相撲全盛期といわれた“栃若時代”あるいは“柏鵬時代”のフィルムやビデオをいくらか見直してみると、当時の力士はむしろ、立合いに両手をつかぬケースが多いように思われた。当時、その「両手をつかぬ立合い」が問題となったあざやかな記憶が、私などにはあまり残っていないのだ。その立合いの雰囲気からは、おそらく「両手をつく」より上位の価値であろう「阿吽の呼吸」が伝ってくるのである。
(略)
相撲は立合いがすべて・・・これは、おそらく“阿吽の呼吸”の奥に秘められた、私などには理解できぬ事柄であると認識しつつ、そこが相撲の真理であろうとは理解できるような気がするのだ。“立合い”にはたしかに、力士が“命”をかけるほどの価値があるにちがいない。ただ、「立合いがすべて」と「立合いに両手をつく」は、果たして直につながる事柄なのだろうか、ということなのだ。

また、“栃若時代”や“柏鵬時代”の相撲は、立合いに両手をつかなくても、見る者を納得させる攻防の迫力と奥深さにあふれていた。そこはたぶん、というより当然、相撲関係者が百も承知の事柄なのであろう。では理想の立合いとは何かについて、相撲の素人であるファンを説得する言葉を編み出すのは至難のワザである。

そこで、“無気力”や“八百長”あるいは“大麻”や“野球賭博”などがリークされ、改革を迫られた協会が選んだ「正しい立合い」を世間に対して証明する言葉の象徴が、きわめて教科書的で単純明快な「立合いに両手をつく」だったのだろう。そして、「立合いに両手をつく」を金科玉条とすることにからむ何とも言えぬくすぐったさは、相撲体験者たる協会の人々や土俵で取組む力士がもっとも強く感じているはずであると、私とてもうすうす感じているのだ。

だが、世間的な“正義”からの大批判を浴びて、それに対して姿勢を正して見せようとすれば、そのような杓子定規な言葉の選択とならざるを得ず、それでしばらくは批判をやりすごせたりもするのがこのご時世の中での“正義”にちがいなく、そしてまたいつ何どきその価値観が風化するかもしれぬ運命にある。第一、そんな幼稚で教科書的なところに、相撲の真髄があるはずがない。「立合いに両手をつく」のはるか彼方に阿吽の呼吸という神秘があるということにちがいないのである。

力士と力士が“情”を込めて“真剣勝負”をする相撲という摩訶不思議で奥深い世界の価値は、とうてい法律の条文並みの言葉では言い表せぬ、汲めども尽きぬ伸縮自在の味わいにみちてくる。そして、“決まり事”というのは、つねに分かりやすすぎる表現にならざるを得ない。



春野うらら 
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居場所とは役割のある場所

時間さえあれば、人は充足できるのか?

自分に役割があるとき、人の役に立てたときに
私達は満たされるのではないだろうか?

リンク

ストレスがないというストレス
仕事を辞め自由な時間を満喫し、さらに長い時間が流れると、人は次第に寂しさや虚しさで心が埋め尽くされるようになってくるのだそうです。
初めの頃は時間が出来た事がうれしくて、あれもこれもとやってみたいことを思い巡らし、テンションも上がるものですが、ストレスがない状態というのは生活の満足度を大きく押し下げると言います。
そうなると自分はこの先どうなりたくて何がしたいのか、それどころか自分がこの世の何者なのかさえ分からなくなってしまう人もいるようです。
30代で会社を人に譲り、アーリーリタイアをされた方のブログを、だいぶ昔に読んだ事があります。その人が言うには、リタイア後に同じ趣味の仲間を自分から見つけて楽しめる人はいいけれど、そうでない人は人間関係のストレスは圧倒的に減る分、孤独感や疎外感を強く感じるようになるのだそうです。
退職後はうつ病を発症するリスクが40%も高まるというデータもあります。

とにかく時間が欲しかった
私が仕事で忙しかった頃、喉から手が出るほど強く欲していたのは、潤沢な「時間」でした。
時間があれば、本も好きなだけ読めるし映画も見放題、日数を気にしないで旅行も出来る、夢のような日々が待っていると信じていました。
面倒くさい人間関係からだって解放されて、一人の時間を有意義に過ごせるに違いないとも思っていました。
孤独感や疎外感を感じるなんて想像した事もなかったけれど、よくよく考えてみれば、先ほどのアーリーリタイアをされた方の言う通りです。
しかし忙しい時には、孤独感や疎外感なんてものが、そんなものが人の心を大きく占めるなんて思ったことすらありませんでした。
ストレスの多い人の方が人生の満足度が高い
話は少し変わりますが、スタンフォード大学の心理学者のケリー・マクゴニガル博士が自身の著書の中で「ストレスの欠如は人を不幸にする」と述べています。
ストレスと生きがいは強く結びついているのだそうです。
「18歳未満の子供を養育している人達は、毎日多くのストレスを感じていると同時に、ほほえんだり、笑ったりする事が多い事が分かりました。また、起業家の場合、前日に大きなストレスを感じたと答えた人達は、同じ日に興味深いことを学んだと答えている事がわかりました。」
また、
「多くの人は、こんなに忙しくなかったら、もっと幸せになれるのにと思っていますが、実際は正反対なのです。やるべきことが多過ぎるくらいでも、忙しい人のほうが幸せを感じています。だからこそ、急にやることがなくなって暇になってしまうと、危険なのです。」
とも述べています。
ストレスの多い人の方が、愛情や健康に恵まれ、人生に対する満足度が高いと彼女は言うのです。

居場所とは「役割」のある場所
人が孤独感に苛まれた時に何を求めるかと言えば、それは単純に「人の温もり」だろうと思います。
誰かのそばにいる、誰かと心が繋がっている。それは、遠くにいても近くにいても同じことです。
心を通わせるということは、自分の居場所を見つけることでもあります。
自分の居場所、それは「自分の役割のある場所」と言えるかも知れません。
それと同じように、社会の中で疎外感を感じるのは、自分が身を置いているはずの場所に自分の居場所がないように感じた時なのではないでしょうか。
だとすれば、逆に社会の中に「役割」を見いだすことが出来れば、自分の居場所が見つかり、途方に暮れる程の孤独感からも少しは解放されるような気がします。

自ら人と関わることで役割を見いだす
では仕事以外で社会の中に役割を見いだすには、どうすれば良いのでしょう。
自分の心が温かさに包まれるのはどんな時かと言えば、やはり人との繋がりを感じた時です。
そして人は人の役に立てた時が、何よりも強く満足感を得られるように思います。
だとすれば役割を見いだすには、自分から進んで人に関わっていくことが一番の近道となるとは言えないでしょうか。


同じくケリー・マクゴニガル博士が述べています。
「ストレスを感じるのは、人生がうまく行っていないしるしではなくて、自分にとって大事な活動や人間関係に、どれだけ熱心に取り組んでいるかを示すバロメーターと言えるでしょう。」


「役割」というものは、仕事の有る無し、家族がいるいないに関係なく、社会の中で生きていくことの大きな意味となります。
人によってはそれを「生きがい」という言葉に置き換えて暮らしているかも知れません。
なぜなら「役割」とは、お金や時間には代えられない「生きる喜び」でもあるからなのだと私は思っています。



匿名希望

LGBT(Q)を促進している策略

LGBT(Q)を促進しているイルミの策略リンクからの転載です。
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朝鮮、部落、やくざ、カルト教が支配する日本の芸能界も、数十年前から何人ものオカマさんをバラエティに出演させ笑いを取らせ、彼等の番組の露出度を増やしていきました。今では(あまりテレビを観ない私でも気が付きます)、大勢のLGBTQさんたちが超人気芸能人としての不動の地位を獲得し番組を盛り上げているようです。このように、彼等をマスコミに露出させることで一般の日本人からLGBTQ族に対する違和感を取り去ってきました。そして人々をLGBTQへと導いています。

リベラル左翼の思想の一つにマイノリティに対する差別をなくすというものがありますが、現在の状況では、リベラル左翼は彼等に対する差別をなくすどころか、彼等を優遇し、LGBTQでないごく普通の人々を偏見の目で見て差別しているのですから呆れます。リベラル左翼思想=共産主義ファシズム=NWO人口削減=人類奴隷化=イルミ=悪魔=破壊者となりますから、彼等のやっていることは必ず人口削減と奴隷化に到達します。

LGBTQの人たちがいかに破壊者によって都合よく操られているかを知るべきではないでしょうか。

なぜ大企業はみな異性愛を嫌悪するのでしょうか。なぜ、大企業は男性らしさ、女性らしさを非難し正常な感覚を混乱させるのでしょうか。なぜなら、大企業は中央銀行の悪魔崇拝バンカーら(金融エリート)に支配されているからです。これこそが共産主義体制(ファシズム)なのです。

LGBTQは、どちらの性にも属さないと感じている人
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匿名希望

転んでもただでは起きない安倍首相のパフォーマンス外交

集団はリーダーの能力に規定される場合がある。
リーダーは現状を突破するために、課題の中心に標準を合せて、具体的にもの事を動かしていく。

外交は錯綜する情報、立場の中でのリーダーシップが求められるのだろうが、我が国の「やってる感」外交は、どうなん?

天木直人さんのブログ(リンク)からの引用ですが、なんとも、切ない。

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安倍首相の外交を見ていると、およそ外交というものは、そのほとんどがパフォーマンスでいいのだ、と開き直っているように見える。

 そして、それが正しいと思えてくるから不思議だ。

 実際のところ、最近の世界の首脳外交を見ても、首脳会談が行われたからといって、それが直ちに劇的な成果につながる首脳外交など、めったにお目にかからない。

 そう考えれば、安倍首相の「やってる感」外交も、立派な外交ではないのか。

 そう思えるのだ。

 きょう6月13日の日経新聞に、テヘラン発島田学記者の書いたこういう記事がある。

 「安倍首相は訪問中のイランでロウハニ大統領やハメネイ師との会談を踏まえ、28、29日に大阪で開く20か国首脳会談(G20サミット)でイラン情勢の緊張緩和に向けた協力を呼びかける」と。

 なるほど。

 これで合点がいった。

 この記事は、ロウハニ大統領との会談が始まる前に書かれた記事だ。

 つまり同行した首相側近が、首脳会談がどうなろうと関係なく、その前に今度の安倍首相のイラン訪問のもう一つの意義を記者に漏らしたのだ。

 今度の安倍首相のイラン訪問は、その内容がどういう結果に終わろうとも、安倍首相にとって意義のある訪問になる。

 つまり、G20直前にイランを訪れ、ロウハニ大統領やハメネイ師と会う事自体が、もう一つの大きな目的だったのだ。

 G20でイラン情勢について主導権を握り、イラン情勢の緊張緩和に議長として貢献した、そう成果を強調するためのアリバイ作りだったというわけだ。

 パフォーマンス外交、やってる感外交、ここに極まれり、である。

 転んでもただでは起きない安倍外交である(了)



井上誠

高齢者の事故よりも若者の事故の方が多いということを報道しない

最近急に高齢者の事故の報道が増えてきています。これに違和感を感じている人は多いはず。
実は若者の方が事故の数は多い。これを毎日報道すると、危険だから「若者に運転させるな」となり、最も保険金の掛け金の高い若者の運転者が減ってしまうから、そんな報道はできないということ。

健康の進め(リンク)より引用します。
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高齢者の事故が増えている・・・本当に?

高齢ドライバーの事故がよく報道されています。
報道を見ているとまたか・・・
と感じてしまうほど、高齢者の運転が問題視されていますね。
一瞬僕も思ったのですが・・・なんというか違和感を感じました。

IS(イスラム国)の報道とよく似ています。
事故も健康に深く関わるテーマなのでこの事故と報道の関係について少し調べてみました。

偏った報道がなされると「高齢者から免許を取り上げろ」ぐらいの論調になりかねません。
冷静に統計から事故の水位を見てみましょう。

データは公益財団法人交通事故分析センター(リンク)を元に記載されている記事があったので参考にします。

ちなみに高齢者ドライバーとは65歳以上の方を指すようです。

さて交通事故件数ですが
平成14年の65歳以上で8万3058件
平成24年の65歳以上で10万2997件
比較すれば約1.2倍に増えています。

では実際に高齢者ドライバーがどれくらい増えているかというと
平成14年に826万人
平成24年には1421万人
約1.7倍ですね。

この数字が表す意味は一人あたりの高齢者が起こす事故は減っていると言うことです
それでは死亡につながるような事故(危険な事故)はどれくらいでしょうか?
事故が増えているなら高齢者ドライバーの増加よりも高齢者事故の増加率が高くなるはず。

年齢別免許保有者10万人当たりの死亡事故件数は
16~24歳が(8.52人)
65歳以上は(6.31人)
若者の方が人命に関わる交通事故を起こしているわけです。
このデータを見ても、他の世代と比べてそこまで差があるとは思えません。
そして何よりも車両保険は20代の掛け金が一番高いんですね
保険の掛け金は、ものすごく細かく計算されて、保険会社に利益が出るように計算されています。
これが高齢者よりも若者の方が事故を起こす可能性が高い証拠です。

こういう報道が続くと高齢者の自動車事故が増えているということよりも
高齢者が自動車を運転して良いのか?
の方向へ話がズレてます。

そもそも高齢者も多種多様で個人差が大きく出ます。
一括りにできるはずが無い。

視点を変えてみると
若者の交通事故はほとんど報道しないですよね?
もし仮に若者の交通事故を報道し続けたら
20代は免許を取るな
みたいな論調になるのがこの国の報道なんですね

ちなみに事故原因としては以下のようなデータがあります。
何を表しているかというと事故の半分以上は不注意が原因で起きているということです
運転操作不適合が高齢者のイメージですが、ここに20代もたくさん入っています。
なんども言いますが、事故を起こしてしまう
「個人」の問題であって層の話ではないんです。
イメージを利用した報道が本当に多い



佐藤晴彦

大嘘だらけの「プラスチック製ストロー有害説」

日本人がまじめで信じやすい性質を持っているのはよいことである。
しかし世界というのはかなり汚れている(人間の心の方が、自然よりはるかに汚れている)のに気が付かなければならない。

巧みに言葉を操れば人をだませるというのが、
プラスチックストローの問題だという。

よく考えなくとも、現実を直視していればこの問題の本質に気付ける。
しかし、この運動を信じてしまう者もいる。

新聞やニュースが報じる話題を、まず自分で考えることから始めるべきだ。

以下リンク(MAG2NEWS)より引用

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大切なポイント

●プラスチックストロー追放運動」は詐欺に加担するのと同意である

社会的ウソの例として、レジ袋の追放とプラスチックごみ問題を取り上げましたが、そのなかでも最もばからしい、しかもこの運動をしている団体や喫茶店などが、「ウソでも良い子のふりをすれば、日本人は騙されるから、儲かればよい」ということで、「プラスチックストロー」を追放しよう話があります。

●環境汚染を問題視する前に、「人間の心の汚染」をどうにかするべきだ

ところが、この問題はかなりの利権になるために、東京都や朝日新聞など利権に敏感に反応するところが騒いでいます。まったくお話にならない論理ですが、「東京や日本にはプラスチックが散乱しているところはないが、中国や世界の特定の場所にはプラスチックをそのまま捨てる人がいるので、全く関係はないが、東京や日本で規制を厳しくしたり、使う量を減らさなければならない」といっています。

日本は犯罪が少ないのに、世界のどこかで犯罪が多いからと言って、日本の規制を強化しようというのと同じで、まったく見当はずれです。でも、やや「科学的なこと」が入っているので、巧みに言葉を操れば人をだませるというのが、プラスチックストローの問題なのです。



匿名希望

今回の福岡のエスティマ暴走事故と池袋のプリウス暴走事故はソックリ、もはや、トヨタの関与は不可欠:マスコミは大スポンサー・トヨタに忖度するな

1.先日、池袋で起きたプリウス暴走事故とそっくりな事故がまたも発生:今度は福岡でエスティマが暴走事故
 2019年6月4日夕刻、福岡市で、またも、トヨタ車の暴走事故が発生しています。
 またプリウスかと思ったら、今度はエスティマでしたが、この事故も、先日の池袋でのプリウス暴走事故と酷似しています。

 最近は、ドライブレコーダーや防犯カメラが普及しており、事故の状況が克明にわかります。各テレビ局は、競って、この事故の状況を報道しています。

 本ブログでも、トヨタのハイブリッド車の暴走事故についてすでに取り上げています(注1、注2、注3、注4)。

2.これだけ、トヨタ・ハイブリッド車の暴走事故が多発しているのに、テレビ局はクルマ側にも問題があるのではないかという視点がまったくない

 今回の事故も、各テレビ局は執拗に報道してくれますが、現象面は細かく報道し、また、高齢者の運転の危うさについても報道しています。ところが、クルマ側の問題については、まったく、アンタッチャブルです。

 おそらく、トヨタに忖度しているのか、トヨタが圧力を掛けているのか、一連の暴走事故と、暴走車のメーカーであるトヨタの責任について、マスコミは一切、報道しません。この状態は実に不自然です。

3.ネットでは、“プリウスミサイル”という新語が生まれている

日本を代表するスポンサー企業・トヨタに忖度する大手マスコミは、トヨタに言及することは一切、ありませんが、ネットでは、すでに、“プリウスミサイル”という新語が生まれています(注5)。

 このプリウスミサイル現象が起きる条件とは以下です、すなわち、
(1)ドライブ・レバー(D)にギアが入っていると思い込んで、アクセルを踏む
(2)ところが、なんらかの原因で、ギアがニュートラル(N)となっていた場合、アクセルを踏んでもクルマは動かない
(3)それに気付いた運転者は、アクセルを踏んだまま、あわてて、ギアをNからDにチェンジする
(4)この瞬間、クルマは急発進する
 ちなみに、トヨタ車以外のハイブリッド車では、ブレーキを踏んでいないと、ギアがNからDにシフトできない構造のようですが、トヨタのハイブリッド車は、ブレーキを踏まなくても、ギアがNからDにシフト可能のようです。

4.プリウスミサイル現象で、クルマが急発進しても、すぐにブレーキを踏めば、クルマは長くは暴走はしないはず

 上記、プリウスミサイル現象は理解できましたが、池袋の事故では150メートル、今回の福岡事故では700メートルもクルマが暴走しているのです。

 ちなみに、福岡事故の運転者の死亡原因は、外傷性ショックということですから(注6)、暴走中、運転者は意識があったはずなのです。
にもかかわらず、上記、事故車の運転者は、暴走中、ブレーキを踏んでいなく、ハンドル操作もしていなく、20数秒も、暴走を続けたことになります。

 この事故車にもドライブレコーダーがついていれば、その間の、車内の夫婦の会話が録音できているはずです。

 先日の池袋暴走事故では、夫婦の会話が公表されていて、クルマが暴走中、どうも、制御不能になっていた可能性があります。
今回の福岡の事故車の場合も、池袋の場合とよく似ているようです。
両者とも、クルマが突然、勝手に暴走し始めて、制御不能になったのではないでしょうか。

もしそうなら、クルマサイドの問題を追究しない限り、この事故の原因は究明できないのではないでしょうか、いずれにしても、トヨタの関与が不可欠です。



戌年

マスコミの「迷惑行為」が社会でこんなに叩かれる理由

現代ビジネス 2019.6.2の記事より

◆ツイッターやフェイスブックなどのSNSの名物の一つがマスメディア批判である。

直近の例では、滋賀県の保育園の園児や保育士16名が巻き込まれ、うち園児2名が亡くなった交通事故にさいしての記者会見が批判を集めている。さらに、同事故の遺族による声明文を、取材の自粛を求める部分を削除して伝えた報道に対しても厳しい批判の声が上がっている。この件に限らず、近年では大きな事件や事故、災害があるたびにメディアスクラムや報道被害が告発されるようになっている。

ただし、このような告発は、取材記者のふるまいが以前よりも「悪化した」から生じるようになったというわけではない。それどころか、取材記者のふるまいは以前と比べればむしろ改善されている可能性のほうが高い。

(中略)

冒頭で紹介したマスメディア批判と並んで、SNSの定番といえるのが「迷惑」にたいする批判である。電車や飛行機のなかで迷惑なふるまいをする乗客に乗務員が毅然とした態度をとったことに他の乗客が拍手喝采、といった書き込みを読んだことがある人も多いだろう。現代における不寛容を考えるうえでキーワードになるのが、まさにこの「迷惑」である。

先に見たように、他人に干渉しないことが守るべき社会規範となった社会では、とりわけ不愉快なかたちで他人に干渉すること、すなわち「迷惑」が重大なマナー違反になる。迷惑とはまさしく、尊重されるべき個々の生き方を妨害する行為にほかならないからである。

ここで個人的な経験を語らせてもらうなら、子育てにおいてとにかく気を遣ったのが、他人に迷惑をかけないようにするということであった。

マンションの階下の住人にうるさくならないよう家の中では静かに歩かせる、電車の座席に座らせたときには子どもの靴が隣の人に触れないようにする、飲食店で泣き出したならすぐに抱っこして店から連れ出す等々、とにかく人様に迷惑をかけないことが外出時の至上命令であったとすら思う。

このように他人に迷惑をかけないよう気を遣っている人間にとって、とりわけ不愉快なのが、そういうことをまったく気にせず生きているように見える人びとである。マンションなのに子どもをドスドス歩かせる、電車のなかで子どもを傍若無人にふるまわせる、飲食店で子どもが騒いでも注意しない等々を目にすると、自分が気をつけているぶんだけ余計に腹が立つ。ルールを一生懸命に守ろうとするほど、そのルールを破っていても平気にみえる人に対して不愉快になるのだ。

不愉快になるなら見なければよい、というのは正論である。ところが、世の中は必ずしもそのようには回らない。不愉快だからこそ余計に見たくなる、というねじれた心理が存在するからだ。

(中略)

「他人には干渉しない」という態度の広がりによって、私たちが暮らす社会はたしかに一面では寛容になってきた。もちろん、少し前に話題になった不登校を公言する小学生ユーチューバーの一件でも明らかなように、つねに多様な生き方が人びとから肯定されるわけではない。それでも、「人はいかに生きるべきか」について、以前と比べれば個々人の選択が尊重されるようになってきたことは確かである。

だが、「他人に干渉しない」ことが規範になったとき、他人に不愉快なかたちで干渉すること、つまり迷惑をかけることは規範からの重大な逸脱になる。そして、迷惑行為の定義が曖昧なことに加え、全体でみれば日本人のマナーが向上したことが、さまざまなところに「迷惑」が見いだされ、糾弾されるという状況を生んでいる。いわば、不寛容な寛容社会とでも呼ぶべき社会が生まれているのである。

こうした社会において、とりわけ迷惑な存在だとみなされがちなのがマスメディアである。

事件や事故で傷ついている人に無神経な質問をぶつけたり、混乱する災害の現場にやってきては傍若無人なふるまいをする。退避勧告がでている紛争地帯に勝手に入った挙げ句、拉致されて外務省の職員に手間をかけさせることすらある。しかも、それらの行為を社会正義によって正当化しようとする。これほどまでに迷惑な存在がほかにあるだろうか。

もっとも、先に述べたように、おそらく全体としてみれば取材のマナーは向上しているだろうし、実際に会って話をした記者の方々には好感を抱くことが多い。単なるイメージや思い込みだけで批判されている部分も多々あるはずだ。マスメディア批判それ自体が一種のプロパガンダとして活用されている状況も、さまざまなところにみられる。

また、ネットで流れるニュースの大部分が元をたどればマスメディアから発せられていることからしても、現代においてなお情報流通においてマスメディアは必要不可欠な存在である。筆者はまた、ジャーナリストがリスクを負って紛争地域に入り、取材を行うことの意義を認める立場をとっている。

それでも、良くも悪くもわれわれは不寛容な寛容社会に生きており、取材活動という「業」を抱え込んでいる以上、記者がどうふるまおうともマスメディア批判はおそらくなくならない。

迷惑だとみなされないよう可能な限り行儀よくふるまうのか、それとも多少の批判はスルーすると決め込むのか。それは、マスメディアの記者のみならず、ネットで何かを発信するすべての人間にとっての選択でもある。



匿名希望