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首相官邸の記者クラブは、官邸の飼い慣らし。真っ当な記事など書けるはずがない。

通常、記者達は懇意にしている政治家や役人と酒食を共にするのは珍しくないが、彼らに悪い話が書けなくならないように割り勘や会費制が暗黙のルールとなっているらしい。
しかし、内閣記者会の懇談会では、すべて国費で賄われるのが通例になっているという。大マスコミの上層部が、安倍首相と頻繁にゴルフをしたり食事を共にしているなど、マスコミの飼い慣らしは浸透しているようだ。

日刊ゲンダイリンクから引用します。
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今年もタダ飯タダ酒 安倍首相ポチ記者“ごっつぁん忘年会”

26日夜、真珠湾を訪問するため米ハワイに向け出発した安倍首相。ところが、その直前の首相動静を見ると、〈5時47分、内閣記者会との懇談会〉とある。外遊前の忙しい時間に何をしていたかといえば、菅官房長官、萩生田官房副長官らとともに首相担当記者をねぎらうための“忘年会”に出席していた。

 この懇談会は過去の歴代首相も官邸や公邸で開催してきた恒例行事。今年は当初、28日の官庁御用納めに予定されていたが、真珠湾訪問が決まり、急きょ26日に前倒しされたという。

 記者クラブに詰めている記者が、普段から懇意にしている政治家や役人と酒食を共にするのは珍しいことではない。ただし、割り勘や会費制が“暗黙のルール”。ゴチになってしまうと、権力側に都合の悪い話が書けなくなってしまうからだ。ところが、内閣記者会の懇談会にかかる経費はすべて国費で賄われるのが通例となっているという。毎年、有名寿司店のケータリングやらローストビーフやら“豪華メシ”がドーンとふるまわれるそうだから、イイ気なもんだ。


■安倍首相との“撮影会”に記者が列

 タダ酒、タダ飯と聞いただけでア然だが、“ごっつぁん忘年会”には驚く恒例行事が他にもあるらしい。

「安倍首相と一緒に“撮影会”をするのが内閣記者会の恒例イベントとなっています。記者が喜々として列をなし、首相もご機嫌でニコニコしながら応じ、順番にスマホでツーショットを撮影していくのです。帰省した時に親戚に自慢したり、過去にはキャバクラで見せびらかす若手記者もいました」(ベテラン記者)

 権力者をアイドルみたいにあがめ、なれ合い、骨抜きにされていく――。それが今の安倍ヨイショ報道、国会での強行採決につながっていることを記者クラブの若い連中は分からないのだろうか。

 政治評論家の山口朝雄氏がこう言う。


 「第2次安倍政権になって、内閣への権力集中と情報の集約が顕著になりました。経験の浅い若手記者は政権幹部にかわいがられ、情報をもらうことが仕事だと勘違いしているのかもしれません。大マスコミの上層部がしょっちゅう安倍首相とゴルフをしたり、食事を共にしているのだから無理もありませんが、政権とベタベタしているだけの記者は失格です」

 すっかり飼い慣らされてしまった記者クラブのポチ記者たち。まさか、「2次会は政府専用機で」なんてノリで真珠湾訪問にゾロゾロ付いていってるんじゃないよな。
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以上、引用おわり。 



匿名希望
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シリアの「悲惨な現状」を訴える偽市民をRTが暴露

 これもグローバリストによるいわゆるフェイクニュースに近いのではないでしょうか?

 リンクより引用です。
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 アレッポ発の情報がソーシャルメディア上で狂ったように拡散されている。死が間近に迫ったと訴える、よくまとめられた動画がマスコミのニュース枠にまで入り込んできているのだ。

 しかし一つだけここで問題がある。彼らはただの市民ではなく、テレビのゴールデンタイムに放映枠を確保した活動家や映画製作者であるという点だ。

 RTの政治担当アニッサ(Anissa Naouai)は、大人気になった「In the Now(訳注:RTの短編動画部門)」の動画の中で問題のアレッポ発とされる市民の動画の登場人物の身元は、簡単なインターネット検索で明らかになると話している。

 その「市民」たちの話の内容はどれも同じである。つまり徹底的な大量殺戮が行われており、アサド勢力が町から町へと自らの市民を殺戮して回りつつ捕虜は取っておらず、アレッポ内部の抵抗勢力はロシア軍による爆撃を受けていながらも勇敢に死に直面している・・・というものだ。

 しかし「In the Now」は、この携帯電話で撮影された動画に登場し、「ロシアとシリア政府軍による爆撃」の過剰宣伝を行っている人物が本物の市民である可能性は非常に低いことを明らかにした。

 むしろ彼らは活動家から動画製作者であり、彼らのツイッターやその他の数千人のフォロワーに対しシリア国内の抵抗勢力の理念に対し公に仕えることを宣言している。

(中略)

 実例を用いて、サクサクと彼らの偽物っぷりを暴いています。
こちらのプロ市民の共通点は、

・ツイッターなどには今年の9月など、ごく最近に登録したばかり。
・でもフォロワーが数千人単位で存在している。
・あたかも前もって計画されていたかのようにほぼ同時に彼らに注目が集まり始め、ソーシャルメディア上で瞬く間に拡散され、PRキャンペーンのように見える。
・共通のキャッチフレーズがある
「これが私の最後の動画になるかもしれません」
・なんの政治色もない「普通の市民」のようで、「最後になるかもしれない」という動画の数日後に、CNNなどのインタビューに答えている
・ソーシャルメディア上のアカウントから、「革命(抵抗勢力)」を支持していることを明らかにしている。
・一部は自らをジャーナリストと呼ぶ。
・ホワイトヘルメット(the White Helmet)というアメリカ、イギリスから多額の出資がされた機関に属する者も。

 少女バーナ(Bana)は、9月にツイッターを始めたばかりなのに、すでに277,000人(動画作成時。現在は334,000人)超のフォロワーが存在している。7歳であるが、完璧な英語を駆使。アレッポ東部から、母親のサポートを受けてツイート活動を行っている。

 そして彼女の「生きるか死ぬか、最後の時間です」というツイートがこちら。しかし母親が代筆しているとしても、完璧でこなれた英語ですね。

(中略)

 アニッサ(動画):「これらの活動家に共通しているのは、一つだけの物語があるように世界中の人に信じてもらいたいと考えていることです。アサド大統領が、ロシア軍と共に町から町へと兵士を派遣し、罪のない市民たちを殺しているという話です。世界中の人たちが見守っているんですけどね。」

 「そしてこのシリア人たちは、殺された子供たちの墓の上で踊っているのだと『彼ら』は信じてほしいのです」

「ここで問題なことは一つ。あなた方は彼らの話を信じますか?」

【コメント】
 まず、これまでこちらでまとめたシリア関連のニュースがこちら。
リンク

 いくらシリアの教育環境が良いと言っても、これだけ多くの市民が完璧な英語を話すでしょうか?またなぜ黒人の人が?この自称「市民」たちは、前回のフランスを攻撃したISISのメンバーをなぜか彷彿とさせるところがあります。前の「テロリスト」の写真や行動にも違和感を感じていましたが。

 ホワイトヘルメットという団体も、実は本拠地がイギリス国内の普通の一軒家だったというシリア人権監視団と同様、うさん臭いですね。

 シリアの住民からは、ホワイトヘルメットの活動者たちはカメラが回っているときだけ救助活動をし、「カメラが止まるなり市民を瓦礫の下に残して立ち去っている」という証言もでているとのこと(RTの記事、動画付き)。

 またRTがジャーナリストの Vanessa Beeley さんにインタビューをしたところ、彼女曰く「私はシリア国内でホワイトヘルメットやマスコミが報道しているような処刑の証拠は一切見ませんでした」と話しています。

(中略)

「 政府軍とロシア軍は、国際社会も国際法さえも無視、手段を選ばず空と陸から攻撃し続けます」・・・ではどうして、シリア国内でアサド大統領が依然として圧倒的人気を誇り、ロシアを大歓迎しているのか、私にはさっぱり理解できません。
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(引用おわり)




達磨防人

ネット上にスピリチュアル情報が蔓延する時代背景


スピリチュアル系という言葉を聞きます。一種のネット上の宗教のような話に関心を示す一団をいうのだと思います。

地球がポールシフトを起こして大洪水が発生するとか
アセンション(輪廻転生?)とか
ロックフェラーやロスチャイルドなど国際金融資本に関する陰謀系の話とか
英国王室はレプテリアンという宇宙人であるとか

実に様々な 話が出ています

実社会でもインターネット上でもよくある「人を洗脳して操る方法」として、以下の方法が非常に多く実際に使われています。

話し全体の90%~95%は、隠された真実を暴露したり、美談であったり、何しろ人を惹きつける魅力のある話をし、残りの僅か5~10%に作為的な情報を入れておけば、比較的簡単に人を意のままに操る事が出来ます。
例えば、自然現象と思われている地震を 実は人工的に起こす技術が既に有り、3.11の東日本大震災は人工地震である・・・・ という具合に暴露情報を発信すると、人目を惹くことが出来ます、そして、現在の科学技術では確かに地震を人工的に発生させる事は比較的簡単な事であるという事が判ります(これが話全体の90%の真実部分)。

そしてこれからが、10%の作為的情報、誘導し洗脳したい方向性の情報ですが、これは 一種のポジショントークであり、例えば 反米的立場の人は、3.11は米国が起こした・・・と言い、あるいは、イルミナティが裏で仕掛けた・・とか、確かめようもない話がたくさん出てきています。要するに、いわゆるスピリチュアル情報の中には、暴露的な真実の情報と、作為的に誘導したいプロパガンダや偽情報が混在しているという事です。

では、何故 インターネット上には この様なスピリチュアル情報が溢れているのか?誰がどんな理由で そういう情報を流しているのか?という疑問が生じるのです。

その一つの原因として考えられるのは、インターネットの普及によって従来は隠されていた秘密の情報や権力者が隠したい情報が非常に早いスピードで一般庶民に拡散してしまう事の対策として、スピリチュアル情報と称して洗脳情報を格納して情報拡散する方法がとられているのでしょう。

もう一つの原因は、宗教のコミュニティー化によって信仰の場をインターネット上に求める真面目な宗教信者が増加したからです。

例えば、インターネットによって教祖キリストが実は東洋人的風貌であり、白人が信仰し易いようにキリストは白人的風貌にデフォルメされていた、という事が暴露されてしまうと、敬虔なカトリック信者は心から信仰することが出来なくなります。
日本においても巨大新興宗教の教祖が実は在日韓国人であるという事が暴露されてしまうと、本気で信仰する人は減少します。
(しかし、組織はなくなりません、何故ならば、宗教団体は、純粋な信仰の場とは別の機能 つまり、就職斡旋、娯楽サークル的機能、などコミュニティー的性質があるからです)

そこで敬虔な信者はインターネット上に信仰の場を求めています。その受け皿になっているのが、このスピリチュアル情報なのです。

また、例えば、英国王室も様々なスキャンダルや背乗り拓卵など外部勢力による乗っ取り行為などにより、その権威は失墜していますが、権威を保持する一つの対策として、英国王室は実はレプテリアンという宇宙人であるという情報をスピリチュアル情報に格納して拡散すれば、さすがに宇宙人と言うと歯向かえなくなるのです。
そういう(作為的)情報を工作員がばら撒くのです。その方法は、上記でも触れましたが、90%の真実の情報に10%の誘導的偽情報を混ぜて情報拡散するのです。

まとめて言えば、スピリチュアル情報が蔓延している原因と目的は、2つある。

※インターネットの発達により宗教教祖など権力者の隠しておきたい事実が表に出されてしまい、真面目な信者は既存宗教から離れて、信仰の場をネット上に求めるようになり、その受け皿を用意した
※王室など権力者の不都合な真実がインターネットで暴露されてしまい、その権威は失墜しているが、権威を保持する為に誘導的情報をインターネット上に流す必要性が生じている

と言うことを、十分に理解したうえで スピリチュアル情報を取り入れて欲しいです。真実も含まれて居ますから・・・
ところが、困るのは、受験勉強によって暗記するだけの脳が発達してしまうと、話をそのまま鵜呑みにするか、全く信じないか、二つに一つになってしまうことです。この部分は真実だが、あそこは虚偽だ・・という判断を出来ないといけませんね
例えば、最高の受験脳を持った最高の大学を卒業した学歴エリートでも、90%の真実に10%洗脳情報を格納すると結構 騙され 意のままに操られることも多いですから注意すべきです。オウム真理教なんかは高学歴多かったですよね?



ドクターK

マスコミは社会・政治に対して何を成すようになったのか

> 革新政権とタレント議員の'70年代から、'80年代の片時の社共躍進後、前述の'90年代以降ガタガタ政権となって、マスコミの第一権力化が歴然となってきたと思います。
(67043)

政治家からマスコミへの権力移行を顕著に示すものとして、80年代後半~90年代の、テレビニュース・報道番組の変化が挙げられるのではないかと思う。

※主要報道番組の放送開始年
85年 ニュースステーション
87年 朝まで生テレビ
   サンデーモーニング
89年 サンデープロジェクト
   News23
91年 ウェークアップ!
92年 報道2001

80年代以前にも、その前例ともいえる「ニューススコープ」(62年~)という番組があったが、報道内容が佐藤栄作(当時首相)の怒りをかい、自民党に事実上潰されたといわれている。67046にあるとおり、当時は、政治のほうがマスコミより強かったことの証左である。

また、これらの番組が登場する以前は、ニュースといえば、NHKを除けば、長くてもせいぜい15程度で、アナウンサーが淡々と原稿を読むものであったように記憶している。社会(政治・経済)の話題は、一部の人だけが関心を寄せるもので、一般大衆には向かないもの、という暗黙の風潮があったのだと思う。

それが、80年代後半~90年代に、冒頭に挙げたテレビニュース・報道番組が登場し、かつ高視聴率を獲得する。その背景には、大衆の社会的関心の高まり(社会探索)と娯楽の衰退という状況変化があり、当時はそうした社会的(政治・経済)関心に応えることがマスコミに期待されていたのだと思う。

(NHKの世論調査によると、テレビに「いちばん多く放送してほしい番組」として、
85年 娯楽41.1% 報道40.0%
90年 娯楽37.9% 報道44.1%
95年 娯楽36.9% 報道45.5%
という具合に推移しており、80年代後半から90年代にかけて、実際にテレビにおける映画や歌謡番組の比率は半減している。)

そして、これらの番組を通じて、マスコミは政界に圧倒的な影響を与えるまでになってゆくのだが、政治家とマスコミの権力の完全なる逆転という点では、93年の総選挙が象徴的だったと思う。

この93年の総選挙で、細川護煕、羽田孜、武村正義が新党三人組として躍進し、非自民政権が誕生した。彼らが、連日のようにテレビに登場し、中身(政策・論点)はさておき、古参の自民党議員を仮想敵として、それとは反対の清潔そうな、何も悪いことをしそうにないイメージを繰り返し振りまき、そして、当時反権力的気分の強かった大衆の支持を得ていったことを記憶している。

(ほかにも、海江田万里、栗本慎一郎、高市早苗、簗瀬進ら、頻繁なテレビ出演で知名度を獲得し当選した議員も多かった。)

さらに、このことに関して、当時のテレビ朝日の報道局長が、「非自民政権の誕生が望ましいと考え、それにそって報道した」と発言して物議をかもしたが(いわゆる椿発言)、こうした発言がなされること自体、第一権力の座が完全にマスコミに移っていた証左と考えられる。

こうした変化の中で、注目すべきは焦点は、政治家に代わって第一権力化したマスコミは、一体、社会・政治に対して何を成すようになったのか?という点だと思う。

それは、結局のところ「政治の見世物化」ではないか。

大衆の社会意識の高まりを背景に登場した報道番組も、結局、政治を見世物として面白おかしくいじくりまわすことに終始しているようにしか見えない。そして、あらゆる社会不全は解決の糸口さえ提示されぬまま、状況は悪くなる一方である。こうした傾向は、近年の小泉・田中真紀子に関するワイドショー的報道にさらに顕著である。

こうした「見世物化」により、社会と人々の意識をもてあそび、傍観者を次々とつくり出していっているのがマスコミの正体ではないか。

※参考
『日本型ポピュリズム』 大嶽秀夫著 中公新書



岩井裕介

芸術離れも必然

1年間のうち一度でも劇場、映画館・美術館・博物館などで、映画・公演・美術作品などを鑑賞した人は50.9%と、96年の前回調査より3.5ポイント減少したことが「文化に関する世論調査」で分かったそうです。鑑賞しなかった理由は「時間がなかなかとれないから」が47.1%で5.1ポイント減少、「あまり関心がないから」は39.5%と11.7ポイントも増加しました。つまりひまがあっても見に行かないという人が増えつつあるのではないでしょうか。

もちろんお役所(文化庁)のアンケートですから鵜呑みにできないし、伝統芸能から大衆娯楽までを一くくりに扱っている点など細かい疑問も残りますが、大きくは芸術離れの流れの顕在化ととらえていいのではないかと思われます。

現代的な意味の「芸術」、つまり作者の個性を重視する「芸術」の概念が確立するのは、18世紀に所有権の観念が発達してからのことで、すでにこう指摘されています。 

>所有権が万物に認められるようになると・・・自分の芸術作品の源泉=オリジナリティーや、創造性の在処=「所有者」としての自分の個性ということが絶対視されるようになり、「芸術」の概念自体も何事からも束縛されない=自立した絶対的概念へと変化していったのです。(36931)

>近代芸術の母胎になっている思想が、性的自我の解放期待を受けたデカルト流の個人主義である以上、芸術がオリジナリティーに重きを置く「我が道を行く」になっていったのも当然です。
(57016)

ところが、今や

>これまで一方的に発信し続けてきた学者や芸術家やマスコミ等、発信階級たちの旧観念が全く役に立たない(44391)

ということに誰もが気付き始めた結果、すでに顕著になりつつあるテレビ離れと同様のベクトルで、芸術離れも進行しつつあるのではないでしょうか。

PS:予想できたことですが、文化庁は「国民の時間の過ごし方が多様化した結果ではないか」と、例によって「人それぞれ」「個人の価値観」で説明しようとしているようですね。
 




三ヶ本万州夫

1972年における政治とマスコミの「主従逆転」

 政治とマスコミの権力構図の転換を象徴する事件が、1972年にある。
 1972年6月17日、首相官邸で退陣表明記者会見にのぞんだ時の首相、佐藤栄作はこう言ったのである。
 「テレビはどこだ」

 この言葉は、同年の流行語になったが、この言葉の全文は以下の通りである。

『テレビカメラはどこかね。そっち?テレビカメラ、どこにNHKがいるとか、NET(現:テレビ朝日)……どこになにがいるとか、これをやっぱりいってくれないと、きょうは、そういう話だった。新聞記者の諸君とは話をしないことになっている。ちがうですよ……。
 それだけにしてもテレビをだいじにしなきゃダメじゃないか。テレビはどこにいるかと聞いているのだ。そんなスミッコにテレビおいちゃ気の毒だよ。テレビにサービスしようというんだ(笑声)。それをいまいっている。
 テレビどこかはっきり出てきてください。そうでなきゃ、ぼくは国民に直接話したい。新聞になると、文字になると、ちがうからね(一段と語調を強め、キッとなる)。
 ぼくは残念ながら、そこで新聞を、さっきもいったように、偏向的な新聞はきらい、大きらいなんだ、だから、直接、国民に語したいんだ。テレビをだいじにする。そういう意味でね、直接話をしたい。
 これ、ダメじゃない。やり直そうよ。帰ってください。記者の諸君。(両手をひろげながら)少しよけて、まん中へテレビをいれてください。それをお願いします』
資料:リンク


 つまり、新聞の偏向記事を通さずに「直接」で話せば、国民はわかってくれる、だから、テレビを大事にするのだ、というわけである。この意味不明な記者会見は大いに失笑を買った。

 佐藤は、電気通信大臣時代、猛烈なマスコミ統制を行っている。放送中止、番組中断は当たり前。解雇、報道部解体もしている。
 それが、いつの間にか、主従逆転し、自分の意志を伝えるためにテレビに頼る羽目に陥った。今日、政治家がテレビ討論会に出るのが当たり前になった状況の端緒がここにある。



阪本剛

政治家からマスコミへの権力移行の流れ

>70年貧困が消滅し、生存圧力を克服したとたんにこの絶対的な序列意識が音を立てて崩れていったように思います。70年当時の田中角栄首相も初めはマスコミに家を建ててやるなどして懐柔していましたが、最終的にはロッキード事件で失墜させられたのを皮切りに、その後の宇野首相の妾によるスキャンダル暴露など有力者が悉く力を失っていった事が序列崩壊を端的に現しているように思います。(59487)

確かに'88のリクルート事件後に中曽根内閣を継いだ宇野首相('89)は上記の通り。海部内閣で一時凌いだものの、'91バブル崩壊後、証券疑惑が相次ぐ金融不祥事、'92宮沢首相は従軍慰安婦問題も謝罪して乗り切ろうとした矢先、佐川急便事件からゼネコン疑惑へと続いて、踏んだりけったり。新党ブームで担がれた'93細川政権以降、連立政権で何とか体裁を整えているのは今も変わりません。

これら80年代以降の政治家の弱体化とマスコミ権力の強大化は明らかですが、政治家が第一権力者であった時代からの過渡期を事象で追ってみたいと思います。

'50年吉田内閣の時代、池田勇人国務大臣が「貧乏人は麦を喰え」(正確には「所得に応じて、所得の少ない人は麦を喰う」)と言ったり、'53年吉田首相が「無礼だ」「バカヤロー」と予算委で暴言を吐き、不信任案を可決されても、解散総選挙後に首相に指名されたのは、政治家の権力の強大さを象徴しています。

翌'54年には、造船疑獄に関与した佐藤栄作幹事長が逮捕されそうになった時、犬養法相は指揮権を発動して逮捕を阻止しています。それだけでも今の感覚では驚きですが、吉田首相は「汚職、汚職と言うが、流言飛語に耳を貸すな」とまで発言しています。

一方50年代後半からテレビの受信契約が毎年倍々で増えていきながら、'56週刊新潮、アサヒ芸能、'58大衆、'59文春、平凡に至って週刊誌ブームがマスコミの共認域を広げていきます。

60年代前半は所得倍増計画で順風満帆でも、後半になってくると佐藤栄作総裁で闘った'67衆院選で自民党は初めて得票率が50%を割ります。この辺りから政治家の権力が下り坂になってきているように思います。そこで「棚ぼた」を得たのが革新勢力とタレント議員ではないかと思います。

'67の美濃部都知事に続いて、'71には黒田大阪府知事と飛鳥田横浜市長と革新政権が成立。'73には神戸市長、'74には京都府知事(再選)と香川県知事と革新首長が続きます。しかし、'70年代後半には京都府、東京都、大阪府と相次いで革新政権が倒れたのは、時の政権が力を失った一時の「棚ぼた」であったことを意味しているのではないでしょうか。

タレント議員の進出が顕著になったのは'68の参院選です。石原慎太郎、青島幸男、横山ノックなどはこの時大量票を獲得して政界に進出しています。この頃がマスコミ時代の選挙の先駆けだったのではないでしょうか。当選したタレント議員が国政では何もできず、せいぜい都政や府政に鞍替えするのが関の山となった事実が、マスコミ主導による票流を感じさせます。

革新政権とタレント議員の'70年代から、'80年代の片時の社共躍進後、前述の'90年代以降ガタガタ政権となって、マスコミの第一権力化が歴然となってきたと思います。




石橋直樹

必要とするものは現実であり虚偽ではない

    「私が面白いと感じる状況はいつだろうか?」
        友達と話している時
        部活をしている時
        旅行に出た時
        新しい人に出会えた時
        自分に可能性を見つけた時
        好きな人ができた時  etc,
これらに共通していえることはその場に直接自分が入り込み、そこで何かしら人との「共有する時間(認識の場)」「現実に立ち会う時間」があるという事である。

私権統合が崩壊し、私たちの活力が「みんな期待」へ移行している事は日々の生活の中で自然と感じられ、自然と受け入れられている。今私達の活力となっている「みんな期待」は自分自身が自分以外の人間と直接対面し現実について話し、現実を体感する事で、そこから必要性、可能性、やりがいを見出し始まると思う。つまり虚偽など必要ない、現実が必要なのだ。

現在のテレビはまさに虚偽の代名詞と言えるのではないだろうか。視聴者が必要とする需要(現実)に現実を外から見るだけの傍観者(マスコミ)が、視聴率を目的として彼らが持つ観念で現実に色をつけ、現実の内容を面白く、インパクトを強くしているようにしか感じられない。つまりこれらはまさに現実に入り込まない傍観者(マスコミ)が作り出す虚偽の世界でしかないのだ。

私達の新しい思考は確実に「みんな期待」「現実の認識」を必要としており、その必要性は今後更に大きくなるだろう。そのような中でテレビが虚偽の世界を発進し続ければ、そこに面白さを感じる事も無く、私達は更に現実の世界、認識を求めて「外」へ出る事になり、テレビ離れは進んでいくと私は思う。




三浦済

面白くはない。でも、とりあえずスイッチを入れてしまうのは何故?

 僕自身は疲れて帰宅すると、とりあえずテレビのスイッチを入れてしまいます。別にどうしても見たい番組があるわけでもないのに、「とりあえず」スイッチを入れてしまう。この「とりあえず」はいったい何なんでしょう?                                スイッチを入れてみたところで、そこにあるのは、プロが造り込んだお笑い番組の提供する束の間の息抜きであったり、過剰な演出を施されたドキュメンタリー番組の提供するニセモノの感動でしかないのに・・。そして結局、「やっぱ面白くねーなー」なんて言いながら、満たされない気持ちでスイッチを切る。そんな日々の繰り返し・・。世の中の多くの人も似たような繰り返しなのではないかと想像します。
 何故「とりあえずスイッチを入れてしまう」のか?何故「満たされない」のか?その答えは同じ場所にあると思います。つまり、テレビがもたらしてくれるものは代償充足に過ぎないのだと。満たされない僕たちの日常が代償充足としてのテレビを必要とするのだと。
 しかしながら、テレビの提供するものが代償充足(ニセモノ)に過ぎない以上、当然僕たちは満たされない。「とりあえず」テレビのスイッチを入れた僕たちに与えられたものは、「とりあえずの息抜き」や「とりあえずの感動」でしかなかった。この「とりあえず」の無限ループは一体いつまで続くのか?まやかしやごまかしは、もう要らない。「答え」が欲しい。僕たちの日常そのものをこそ満たされたものへと変えていきたい・・。
 「面白くないのにスイッチをいれてしまう」僕たちの姿は、旧観念からの転換点に立ちながらも「答え」を見出せないでいる現代人の姿なのでしょう。でも、もうすぐ変わる。個人のエゴの拡大を社会の原動力とした時代はもう終わる。それは核問題を見ても地球環境問題を見ても明らかでしょう。「すべての人々・生命と共に生きるのか」あるいは「みんな仲良く滅亡するのか」。その二つしか選択肢がないのならば、答えは自明です。
 エゴの拡大からエゴの縮小へ。「個人」から「みんな」へ。共認時代の到来は、ついに求めていた「ホンモノ」を僕たちに与えてくれそうです。   





大鳥貴史 

みんなで認識を作っていく楽しさは何にもかえられない!!

最近、テレビは面白くないと感じていた。

でも、交流会に参加するようになって、さらにテレビは面白く
ないと感じるようになった。

それは、テレビで得られるものはないとなんとなく思っていた
けれども、それをみんなで話す中で明確に気付けたことが一つ。
テレビは何も答えなんて出してくれないんだって。。

もう一つは、‘みんな’で考えて新しい認識を作っていく楽し
さ、そしてその大きな可能性に気付いてしまったからだと思う。

交流会に参加するようになって、すごくイキイキとしている自
分がいる。
いろんな人が集まって、みんなが同じことを思ってるんだって
ことに気付き、みんなで実感にあう言葉・認識を作っていく。
そして、道を歩いてる人達もきっと同じことを思ってるんだろ
うな~と可能性がどんどん大きくふくらんでいく。どんどん輪
が大きくなっていくんだろうな~って。。
本当に楽しい!!!

この楽しさを知ってしまってから、テレビを見ていた時間も
‘るいネット’の時間へと自然とかわってしまった。
みんなが今何を考えているのかの方が気になって気になっ
てしようがない。

みんながこの楽しさを知ってしまったら、ほんとにテレビって
いらなくなっちゃうんだろうなって思います!!




宮崎未帆 

情報の上流というマスコミの存在基盤とその脆弱さ

マスコミが同一視の対極にある理由として、情報の上流に位置することがあると思う。誰も知らない情報を入手して、それを下流にいる大衆に流すことこそがマスコミの存在基盤となっている。

その情報が役に立つかは二の次で、誰も知らない掘り出しものこそが「特ダネ」として価値を置かれる。これが自然と上流と下流を形成し、同一視と対極にある立場を形成していく。

その象徴が所謂芸能ネタなどのゴシップだろうが、大衆が傍観者とならざるを得なかったかつてならば、役に立たない情報でも、我先に知ることだけで大衆の充足も得られていた。

しかし、傍観者の代償充足では不全が蓄積される一方となっている現代は、そのような情報に対する需要は減ってきている。

逆に役に立つ情報はマスコミに頼らずとも、ネットを通じて大衆が当時者として発信する情報が溢れている。行政も情報公開の圧力を受けて、市民に情報提供している。

同一視の対極にある「上流」に位置することで基盤を維持していたマスコミは、最早その基盤を失いつつある時代となっていると思う。



石橋直樹

テレポリティクスの危険性

> そう考えると共認原理へと時代が変わったにも関わらず、ごく一部のマスコミや教育機関によって肝心の社会の共認内容が決まっている事に現在の根本的な閉塞の原因があるのは間違いないでしょう。
(『マスコミの第一権力化』59487)

指摘されているとおり、特に、政治に関しては、テレビへの露出度で政治家の選挙当落が決まってしまうほど、マスコミによる世論支配は決定的になっている。この傾向は、ここ10年くらいで、ますます強まってきているようにも感じる。


結論から言えば、この、マスコミによってつくられる「テレポリティクス(テレビ政治)」は、「全般的な思考停止」という、極めて危険な状況を作り出しているのではないかと思える。

例えば、昨今の政治の中心テーマである「構造改革」をめぐる論議もそうである。世論の支持を得ているかに見えるが、この言葉が示す意味内容は、大体において、非常に曖昧で、具体的イメージが共有されているとは言い難い。現在ほとんどの政治家が何がしか「改革」を唱えているが、スローガンだけが(ご都合主義的に)ひとり歩きしている感が否めない。

問題は、具体的な中身の論議(原因・構造解明)がほとんどなされないにも関わらず、「改革」という言葉だけが、価値観念化して(暗に正しいこと・必要なものという含意を伴って)流通してしまっていることではないかと思う。

具体的な中身がないのだから、当然、現実は変わりようがない。そこで、また、改革が進まないといって特定の政治家・官僚を批判したり、(中身もなく)改革の必要性を繰り返したりするわけだが、結局、ここ10数年、政治は、何も生み出さない堂々巡り=全般的な思考停止状態に陥っていると言ってよいのではないか。

つまり、マスコミによってつくられるテレポリティクスは、安直なイメージを価値観念として拡大・流布させ、肝心な中身の議論を空洞化させる構造を持っているのではないか。そして、その構造が、現実に何が問題なのか、という状況をますます見え難くし、事態の混迷度・閉塞度を加速させているのではないか。



岩井裕介

マスコミの第一権力化

しかし、序列原理の前提にあるのが生存圧力であり、それを克服したことで、漸く統合原理を本能原理から共認原理に進化させる可能性、根本的な共認原理の実現可能性が開けたと言えるのでしょう。(59436石橋さん)


生存圧力を克服した事によって社会の統合原理が本能原理から共認原理へと転換したというのは、日本でいえばマスコミが70年代から力を持ち始めた事と非常に重なります。

70年以前の日本は土山さん(59310)が仰るように飢えの圧力という生存圧力を基に権力者から末端まで身分意識序列意識というものは絶対的なものとして働いていました。時の池田勇人首相が「貧乏人は麦を食え」という現在では暴言とも取れる発言をしても、殆どの人は否が応もなくそれを受け入れていましたし、有力者や権力者に妾がいるのは当たり前のように共認されていたというのも当時の序列意識が絶対化している事を物語っているように思います。またこの頃のマスコミ=ブン屋といえばゴロツキ、マユツバの集まりであり、政治家などの権力者に飼いならされている存在だったと思います。

しかし70年貧困が消滅し、生存圧力を克服したとたんにこの絶対的な序列意識が音を立てて崩れていったように思います。70年当時の田中角栄首相も初めはマスコミに家を建ててやるなどして懐柔していましたが、最終的にはロッキード事件で失墜させられたのを皮切りに、その後の宇野首相の妾によるスキャンダル暴露など有力者が悉く力を失っていった事が序列崩壊を端的に現しているように思います。

そういう意味では70年貧困消滅というのは社会の統合原理が生存圧力を基盤とした本能原理(=序列原理)から共認原理へとパラダイム転換した時代であるといえそうです。もう少し詳しく言えば、誰もが認める事のできる観念を共認していくことによって社会が統合される時代に変わったのだと思います。そう捉えるとその共認形成の要にいるマスコミが70年から急速に力を持ち始めた事とも合致します。それまでのゴロツキとは違いマスコミは誰もが憧れる立場に変わっている事も象徴していますし、現在ではマスコミによって政治家が決まっているといっても過言ではないくらい力を持っています。
そう考えると共認原理へと時代が変わったにも関わらず、ごく一部のマスコミや教育機関によって肝心の社会の共認内容が決まっている事に現在の根本的な閉塞の原因があるのは間違いないでしょう。



喜田育樹

“マスコミは国民の目となり耳となる”は共認支配のカムフラージュ

表現・報道の自由を謳うマスコミがもっとも敏感に反応し敵視しているのが「『有害情報』対策法」や「個人情報保護法」などの情報に関する規制法案ではないでしょうか。“人権”意識の代弁者然としているマスコミが人権擁護を旨とする立法行為(およびその立法府)に反発するのもおかしな話ですが、これを共認支配をめぐる権力闘争であるとみれば合点がゆきます。

法律を制定する、ということは人々の社会活動を律する事柄を制度として共認しようということです。つまり共認に基づく社会統合の要が立法府にあるといってよく、その統合の要(権力の座)を巡ってマスコミが正面から敵対しているという構図が見てとれます。そして今ではマスコミの報道次第で政治家生命が絶たれることは珍しくなく、当のマスコミが人権派を後ろ盾にした最大の権力体であることは確かでしょう。

「国民の目となり耳となる」というマスコミのお題目も、彼らの得意な旧観念を駆使して“国民の目と耳をふさいでいる”といったほうが正しく、そうして共認支配の第一権力の座についている事実をたくみに偽装しているような気がします。

私権の力がもはや力たり得ず、旧来の社会構造がガタガタになってきている最中のマスコミの台頭は、すでに社会の統合原理が私権という“力”から認識の発信・共有という“共認”へと移行してきていることを意味しています。と同時に旧観念しか発信しないマスコミが共認支配の権力を握ることで社会の閉塞・崩壊がますます進行しているのも事実です。

マスコミの正体をしっかり見極め、旧観念に変わる事実認識の必要にみんなが気づくこと。現実の閉塞からの出口はそこから開けてゆくのだと思います




阿部和雄

自分で考える意味。そしてそれがないテレビの世界。

 テレビがすごく見たいと思うことがたまにある。決まって、大学の課題やバイトがとても忙しく、家に帰っては寝るだけという生活を送っているときだ。別に見たい番組が特にあるわけではない。面白いことを期待しているわけでもない。単にボーっとしたいという理由からだ。私にとって、テレビを見るとはボーっとすることの象徴である。それほど、テレビを見るには頭を使っていないと思う。
 
人間は日常生活において、基本的にいつも頭を働かせている。例えば私自身。朝起きて今日の時間割を思い出し、着る服を選び、まつ毛が上がらないことに悩み、お昼の学食のメニュー選びに迷う。そして、友達との会話。ひとつの言葉からどんどん話がひろがっていく。自分の頭で考え、言葉をまとめる。友達がまたそれに反応する。少しも気が抜けない。それがとても面白い。
 
 ところがいったんテレビをつけると、ものを考える必要はほとんどなくなってしまう。それは、テレビが全部筋書きのお膳立てをしてしまっているからだ。脚本が既にあり、番組の枠組みが決まっている。視点もカメラの映す映像という固定されたものだ。内容もそうだ。繰り返し流される同じ映像に、画面を埋め尽くす字幕、出演者が喋るいいかげんなコメント。最後には、ナレーターが適当に内容をまとめて終わり。全て、テレビの世界で自己完結してしまっているのだ。そこに見ている私達の立ち入る隙はないし、またそんな気も起こってこない。
 
 確かにテレビを見ることは楽だ。でも、そこからは何も生まれてこない。
 
 考えるということは、そこに感情が生まれるということだと思う。そして、今私達が求めているのは、単なるモノや情報ではなくて、心を動かしてくれるものだ。その対象は自分達で考えて、手探りで探していくしかない。それなのに自分で考えさせてくれない、心を動かさない。そこにテレビが面白くない理由があるのではないだろうか。
 
 行動範囲が限られていた子供の頃は、テレビ自体が刺激だった。でも大人になった私達は、自分の意思で好きなところに脚を運び、興味の対象を発見することができる。仲間と居場所を自分で選択できる。それが大人のしんどさであり、楽しみだという気がする。どこまで行ってもリアルな本物の人生を前に、作られたテレビの世界に勝ち目はない。



高橋朋子

テレビゲームが面白くない理由

テレビが面白くない理由を、テレビゲームが面白くなくなった理由から考えて見ます。かつてテレビゲームは、一時の「ファミコン」の人気に代表されるように、娯楽の王者でした。しかし、技術の進歩によって、遥かに美しい画像や、遥かに複雑な内容を表現できるようになったにも関わらず、テレビゲームの人気は落ち込んでいるようです。

かつてのテレビゲームは、拙い画像で単純な内容でありながらも、その世界の中で自由に行動し、能動的に動き回ることができました。しかし今のテレビゲームは、全てがそうではありませんが、単にある物語を提示しているにとどまっているようなのです。それは、テレビの姿と同じです。それは、テレビゲームがただの「テレビ」になってしまったと言ってもよいでしょう。それが面白くないと言われているのであれば、そこにテレビが面白くない理由があるはずです。

その中では、私たちはただの傍観者にとどまります。虚構の世界に入り込むことができたとしても、その一方的な展開についていく事ができず、興味を失います。面白いはずがありません。

さらに現在のテレビでは、その世界に入り込むことすら困難です。なぜならそこに現れる人物や、その設定が、あまりに現実とかけ離れているからです。それらを作っている人々の観念が、現実からは遠い所にあるからです。一方通行のコミュニケーションにおいては、発信者との認識のずれは致命的なものとなります。



大盛和也

妄想の城を壊して


私は最近テレビを見なくなった。私の知人もテレビを見る機会が極端に少なくなったという。これは単に見る暇がなくなったという理由ではない。見たい(面白いと感じる)テレビがないからである。

私権時代に人々が求めたものは、辛い現実世界からの逃避、つまりは虚構の世界である。そんな時代に繁栄したテレビとはつまり、現実とかけ離れた虚構の世界である。虚構の世界は、人々の心の中に妄想の城を建てる。そして人々は妄想の城に酔いしれていった。なぜならそこは現実の痛みも辛さもない理想の世界だったから。しかし私権社会が崩壊するにしたがって人々の価値観も変化し、今までの虚構の世界では充足感を得られなくなってきた。そして事実を追求した現実に使える観念(現実的な観念)を求め始めている。そんな時代においてもテレビは、虚構の世界を一方的に発信し続けている。これでは人々が面白くないと感じ、離れていくのは当然の結果である。

今、私たちは妄想の城を壊して次の時代へと移行しようとしている。
その兆しが、私権時代の象徴『テレビ』の面白くなさに現れているのではないだろうか。



三浦弘之

報道の自由,知る権利

国民の知る権利に応えるために,報道機関には,表現・報道の自由が保障されなければならない,という.

私達は,国民である前に人間だ.
いつのまにか,国という制度下の国民として,知る権利が与えられ,報道機関はそれをたてに,特に知りたくもない報道,番組を垂れ流しているし,無駄が多すぎる.ワイドショーなんてその典型だ. (タマちゃんを知る権利,とか,他人の不倫を知る権利っていうのがあるのか?そんなものを報道する自由って必要なのだろうか?)

社会的強者である報道機関が主張する,報道の自由によって,人間的な生活を脅かされる人がたくさんいる.
それに,国が弱くなると,強い国の報道の自由を押し付けられてしまうことだってある. (イラク国営放送の報道の自由はアメリカの報道の自由の前に押し潰された)

国に与えられた知る権利を大事にして何かを要求したり,報道の自由を押し付けるテレビに期待するのは,もうやめて,仲間と手ごたえのある何かをつかむため行動に出る人々の動きに,人間性を感じるし,可能性も感じる.

テレビが面白くない,という実感は,国民としてではなく,人間としての意識の変化からわいてきているのだろう.


やすにし

サークルの引力と交流会の引力

たしかに、自分達で交流会を作っていく方が面白い。この引力はいったい何故なのか?他方では、大学でも地域でも、古いスタイルのサークルの引力は衰弱し続けている。

サークルは「よかったら」いっしょにやりませんか?という誘い方になる。好き嫌いに左右されていて、結局自分(自分たち)の楽しみでしかない(自己満足でしかない)。
つまり、サークルにはみんな期待がない。自分達だけの楽しみの場なので閉鎖的になるし、みんな期待がないので引力も低下する。
この、みんな期待の強さが引力=活力を規定している。

そもそもサークルというのは、農村時代の「祭り(芸術も芸能もスポーツも包摂している)」が、都市に移行するにつれて分解していったもの。そして70年までは、芸術や芸能は高尚な文化だった。少なくともそれらに対するみんな期待(私権圧力→みんな不全からの発散欠乏)があり、それが、「趣味は持つべきもの」という意識につながっていた。
しかし本当にみんながはまっていたかというと、実際はそんな余裕などなく、ただ社会共認を支配する「高尚な」インテリ階級にそう思い込まされていただけ。

そして70年、貧困の消滅=みんな不全・みんな期待の消滅によって、「文化(普遍性を極める)」は衰弱し、80年代になると「芸能(より自分だけの充足)」に向かった。そして、「芸能人志向」と「オタク」が平行して登場。これらは外向きと内向きの違いこそあれ、どちらもみんな不全、みんな期待の消滅による自分主義に立脚しており、誰からも期待されていない自己満足の世界である点は同じ。
この時代テレビが輝いていたことも、みんな不全が消滅した後のミーイズムにぴったりだった(一人でも楽しめる)からというふうにも考えられる。

しかし新たなみんな期待の顕在化により、もはやみんな期待の感じられない芸術、芸能、趣味は(70年以降、徐々に衰弱しつつあったが)、今後は一気に衰退していくと考えられる。



浅田祥幸

みんな期待に応える場では、全員が供給者=需要者

共認域の形成において、供給者の登場がそのカギになることは、私も全くその通りだと思います。しかし同時に過去の宗教や芸能と、現在のみんな期待に応える共認域の形成の戦いとの違いも意識しておく必要があるように思います。
古代宗教や近代思想は、私権の絶対性に対する「実現不可能視」→「頭の中だけの代償充足の必要性」という人々の潜在期待を受けて、供給者=教祖や思想家が登場し、彼らとその弟子達が布教していく、という形で欠乏が顕在化し信者が組織され共認域が形成されていく、という過程を辿ります。ここにおいて特徴的なのは一部の供給者と大多数のそれを受容するだけの大衆=信者という構図です。つまり供給者と需要者の分裂です。

おそらくそれが必然化する理由は次の2点だと思われます。一つは大多数の大衆は日々の私権の獲得(生産労働含む)だけに手一杯で、所詮は代償充足に過ぎない供給内容=思想内容を考え出すような時間も余裕も無いこと。加えてこの普遍期待に応えるためには(共認闘争に勝つためには)その中味=質が要求され、(半)専任化が必要とされたことです。
更にその後、信者が多数になり社会共認に決定的な力を持つようになってくると、それは教団や大学などの形で制度化され、それを専業としてメシを喰っていく階級が登場します。ここにおいて共認内容を獲得することは私権=身分の獲得と一体化され、需要側は信者や学生として一方的に組織化されるだけで、供給者と需要者の分断は完全に固定化されていきます。
芸術・芸能は音楽や絵画スポーツなど様々な代償充足の様式をもっており、夫々が専門分化されているという違いはありますが、供給者の登場→組織化→専業化というプロセスや、供給者と需要者の分断という構造とそれが必然化される理由は、思想とほぼ同じ理由と思われます。

それに対して、現在の適応不全に基づく「みんな期待」に応えることを巡る共認域の形成は、過去の思想や芸能と決定的に違う点が存在すると思われます。それは一つには、過去のそれらが実現不可能視に基づく代償充足の欠乏に過ぎなかったのに対して、今回は「何とかしようとする」当事者欠乏であること。また別の言葉でいえば、過去人々は私権課題に全的に縛り付けられることによって、当事者=供給者の道をほぼ封じられていたのに対して、私権の衰弱によってそれが解放されたことです。つまりこの二つの条件から、人々が供給者であり需要者でもあるという過去と全く違う構造が可能になるという点です。

つまり、過去の共認域の縄張り闘争が、供給者の組織化に加えて、信者や観客などの需要者の組織化という課題があり、共認域の拡大とは専ら主要に後者を意味していたのに対して(この点では市場における供給者も同じ)、現代の共認域の縄張り闘争は専ら供給者=需要者の組織化一点に課題が集約される点が決定的な違いです。つまり共認域の形成とは、最終的に供給者の組織化一点に収斂します。
しかしこの点は同時に新たな課題も発生させると思います。つまり過去の供給者達が普遍期待に対応させるべく質の高度化の為に専業化していったように、現在の共認域の獲得においても、質=中味の上昇の為に半専業化(副業化)若しくは供給内容を巡っての高度化競争→質を巡っての精錬・陶冶の仕組みが要求されると言う点だと思われます。




北村浩司

市場社会に組み込まれた装置=テレビの不全


民放テレビ局の視聴者は,消費者になることを,期待されているのではないか?
民放は,企業の広告宣伝費が主な収入源である.
企業は,広告宣伝費というコストを支払い,視聴者が消費者として,市場で自社の商品,サービスを購入してもらえることを期待し,実現できれば収益を得る.
企業にとっては,何よりも,視聴者から消費者への転換が重要で,最優先される.企業にとってよき視聴者とは,競合他社ではなく,自社の商品,サービスを購入してくれるのが,よい,のであって,つまり,自社だけのよき消費者の育成だけが目的になる.
真っ当な番組づくりや番組の質など二の次,あるいは副産物でしかなく,番組作りの収入源が広告宣伝費である以上,この枠から企業自身がはみ出すことはありえない.

視聴者=消費者の方も,高度成長を達成し,生活必需品の需要が減退し,同時に地域社会や世間体などが解体しはじめたころから,日常生活の中で,これ以上何を買ってよいのかわからず,どういう豊かさを実現できるのかわからず,どういう家庭を築けばよいのか,どういう政治家を選んだらよいのか,さえもわからなくなり,テレビに依存収束したのかもしれない.
しかし,もちろん民放は,企業の売上拡大に貢献する装置でしかない.
視聴者が置かれている現実社会を直視し,その課題を現象として表面的に提示できても解決の糸口など提示できるわけがない.
なぜなら,視聴者=消費者という仕組みを隠蔽しなければ,誰もチャンネルをあわせてくれず,その仕組みの追求は,民放自身の存立基盤を揺るがす問い,になってしまう.
視聴者の抱えた,消費者としての期待は満たされるかもしれないが,その他の課題=政治,地域社会,などの消費者を越えた期待は,テレビに依存しても,満たされることはない.

a企業→bテレビ→c(視聴者=消費者)→d市場→e企業
この私権統合が不全になるためには,消費者の消費意欲の減退(宣伝されたって買わない,という行動)が不可欠だ.
しかし,視聴者としての市民は,
f現実社会→gテレビ→(h視聴者=一般市民)→iテレビ→j現実社会
という,構造にいる,と錯覚している.
テレビそのものが面白くないのではなく,(企業そのものが面白くないわけではないのと同じ意味で)この構図を見事に隠蔽したまま,あくまでも視聴者が,企業に消費者になるよう期待されることの不全と,視聴者が,あくまで一般市民としての現実課題を満たしてくれるようテレビに依存することの不全,が,問題になっているのではないか?

では,実現論滅亡 ニ,市場の崩壊(実現論3_4_02)の,
<従って、大恐慌に成れば(既に現在の日本人の消費態度が明示している様に、)先行き不安に備えてサイフのヒモを締め、食糧と日用品以外の物は殆ど買わなくなる。従って、需要は一気に7割減まで落ち込み、失業者も5割を超えて終う。これは、市場が過去に経験した事のない事態である。>

となったとき,テレビを支えていた仕組みはどうなるのだろうか?
こういう状況を記録する力はまだ,残っているのだろうか?
一般市民が(市場社会の消費者)という枠からはみ出されたとき,その課題は,不全感は,誰が何処で,受け止めてあげられるのだろうか?


テレビの不全をまずは,検証することからはじめようではないか.


やすにし

さようならテレビ君

テレビ君へ

あなたは私の部屋の,隅っこに座っている.

玄関のドアを一人であけて,靴を脱ぎ,明かりをつけて,ソファーに体を預けたとき,あなたと目が合い,思わず私は,あなたの目を覚ましてしまう.

あなたが目を覚ませば,その瞳には,恋をする男女,歌を歌う若者,遠い国の戦争,幸福そうな家庭,新しいお酒,なんかが,際限なくうつっては消えていく.

私の寂しさも,消えていく.

あなたとずっと目をあわせていると,私は,腹の立つ上司,とりかえしのつかない失敗,振られた恋人,戦争が起きる本当の理由,離ればなれになった家族,つまんない周りの人,のことを,とりあえず,考えなくて済む.

あなたの瞳には,上司に腹を立てても立ち直って出世していくたくましい人,とりかえしのつかない失敗をしてもきっかけ一つで成功に変えた人,
振られても戻ってきた恋人,戦争によって確認できる平和,別れても再会できた家族,夢を感じるスポーツ選手,が,際限なく,うつっては消えていく.

だから私も,私が過ごした今日一日を,振り返ることなく眠りにつける.

でもね,ある日,気づいたんだ.
私の現実を,あなたは絶対に,変えることはできないし,私の現実を,決して分かってはくれないことに.あなたには,聞く耳がついていない.
次の日起きればまた,上司とも失敗とも失恋とも失った家族とも起きてしまった戦争とも,つまんないやつとも,私は共に,生きなければならないのです.

親とか,友達とか,恋人とかと,部屋で一緒にいると,どうしても,あなたと目が合い,また目覚めさせてしまう.
あなたがおしゃべりだから,私は,親とか友達とか恋人とかと,しゃべんなくて済むし,うまくいっているような気がしてくる.

でも,私は,気づいたんだ.
あなたがどれだけ言葉を尽くしてくれても,私と親,私と友達,私と恋人との関係は,私が私の言葉で,つないでいくしかないことに.

あなたが瞳を閉じれば,その瞬間,私は瞳をあけ,私の現実をしっかり見届けなくてはならない.

でも,一人じゃ怖い.沈黙も怖い.

だから,今日から私は靴を履き,玄関のドアをあけ,真剣に話したい私の言葉を受け止めてくれる,仲間を探す旅にでます.

さようならテレビ君.さようなら一人で悩む私.さようなら大切な人と何かを考えることをやめてしまった私.
あなたに会えてよかったのかどうか,まだわからないけど,もう二度と,あなたを頼ったり,あなたに期待したりはしない.

できれば瞳を閉じたまま,私の旅路を見守ってください.



やすにし

「テレビは面白くない」に疑問。でも‥‥。

>テレビが面白くないとき、それは現実が「生き生き」している証拠ではないかと思う。(51484)

これは衝撃だった。私はテレビ全般をを面白くないとは思わずに日々生活している。
中には面白くない番組はあるし、これは嘘だろうと疑問に思うことは多々あるが、テレビが私権を追求しているのを承知で見ている。

何故なら、常にその情報が真実で客観的なものか疑問を抱く心を持ち、その情報だけを鵜呑みにさえしなければ、1つの情報源として得られるものはあると考えていたからだ。

しかし(51484)の方の上の言葉を目にし、テレビを私が面白いと感じる理由をもっと深く掘り下げようと思った。

私はドキュメンタリーを好んで見る。生身の人間、自分に近い部分を持つ人々が頑張ってる姿を見ると勇気づけられ、私も頑張ろうという気になるからだ。

そこで気づいた。私はそのドキュメンタリーの出演者と自分を重ね、あたかも自分が体験しているようにその番組を見ていたことを。

私がテレビを見たいと思う理由が「こういった体験がしたい、こういった感動を日々味わいたい」というものであるなら、私は(51484)の方がいう「生き生き」した日常を欲するが故の代償行為として、テレビを見ていたのではないか。

つまり『現実が「生き生き」していない』が故にテレビが面白いという結論に達してしまう。
いや、違う。私は今の生活が「生き生き」していないとは思わない。悩みはあるが、毎日が楽しいし充実している。

では何故か。
もっと自分は何か出来るはずだという気持ちが常にあるからだ。
日々は充実していても、日々いろんな事に疑問を抱いている、「どうしてなんだろう」と。
しかし周囲とそういった疑問について軽い話しはしても、深く話す機会はあまりない。それ故、もやもや感は払拭されず日常を過ごしてしまう。

私はもっと人と考えたかったのだ。幸せになる方法を。
物理的ではなく、もっと精神的に幸せになりたい。人が人を騙したり、傷つけたり、殺したりしない日本、または世界であって欲しい。
これは自分の幸せのためであり皆の幸せのためである。
きれい事みたいであるが、今の時代における混沌はそれを求めなかった結果ではないか。
こういった事を話したかったのだ。

こういった場で、いろんな人の考えに反応出来る状況を欲していた自分に、この機会が無ければ気が付かなかったかもしれない。
私以外にもこういった人が声を出す機会を窺っているはずだ。そういった人への気付きの場としてここがもっと広く存在する事を希望する。



黒澤美樹

テレビに頼るな

私はテレビが面白くないのは、その行為に対して自分の充実感が無いからだと思う。
私自身よくテレビを見る。見るというより点ける。朝起きたとき夜家に帰ったとき、電気をつけるようにテレビを点ける。そのため見るというより、映像が目に入ってくるという感覚である。しかしそれは自分で何か見たい番組があってテレビを点けるのではなく、「他にやりたいことが無いからなんとなく」という理由からの行為であるように思われる。
私は現在大学の他にサークルやバイト、英会話などをしている。そういった活動で忙しいときには当然テレビを見る時間が無くなるわけだが、そのとき「テレビ見たいなあ」などと思うことは一度もない。むしろ忙しいその状況に満足感や充実感を感じるぐらいだ。
逆にぼーっとテレビを見ているときのことを思い出すと、それはけっして楽しい時間ではない。番組の内容がどうというのではなく、今こうしている時間が無駄であり、「自分は今何しているのだろう?」などと考えてしまう。
そんな状況を抜け出すためにはどうすればよいのか、自分ではわかっているのだ。「テレビを見るという受動的な行為を、本を読む等の能動的な行為に変えれば良いことを」。おそらく多くの方がこのような考えを持ちながらも、お手軽でエネルギーを消費しない受動的行為、つまりテレビを見ることを選択しているのではないだろうか。これはまるで中毒症状だ。それは本人が動こうとするやる気まで奪っていくのだから。

私は「人間は皆、日々の生活のなかに満足感や充実感を得続けたいと感じている」と思う。時には仕事や勉強で、また時には趣味の中にそれを見出して生きているのだが、ときどきそれらの狭間にぽっかり空いた時間が生じてくる。しかしそこを埋めてくれるものはテレビではない。受動的な行為では充実感は得られない。「もうテレビに頼ることはやめよう」と考えること、そして「テレビ見たいなあ」などと思わなくなるぐらい能動的に動いていければ我々はもっと充実した生活をおくることができると思う。



尾崎彰彦

テレビというマスメディアの役割

 本来、テレビというものは人々に慰めを与えたり、社会的緊張を緩和する機能を果たすものではないだろうか。それが最近の番組といったら、我々に悪影響を及ぼすものが数多くある。 

 テレビの情報は、客観的・中立的かというと、必ずしもそうではない。表現者は視聴率獲得の為、独自の価値判断というメディアフレームによって、暗に特定の立場を表明し、世論を特定の方向へ誘導する。
 
 また、過剰ともいえる情報提供によって、我々は受動的に情報を受け取ることに満足感を持ってしまい、何か問題が起こっても、具体的な問題解決のための行動を起こそうとしなくなる。情報機能の発達が、かえって問題意識の鈍化を醸成してしまう、麻酔的逆機能も危惧される。

 単なる傍観者である発信階級が、様々な現実の情報を取捨選択し、彼らの手で再構築して、テレビというマスメディアの媒体を通して、我々に一方的におしつける。そのように、オピニオンリーダーによって操作された、全くリアリティの無いステレオタイプ的報道によって、我々は擬似環境という虚空のスクリーンを、自分の頭の中に描いてしまう。それは、現実の正確な模写ではなく、様々な誤認や歪曲を含む為、現実に対する不適応を招きやすい。

 このように、社会不全・みんな不全を生み出した、旧観念ともいえる虚構の世界は、今の我々にはもはや必要とされていない。インターネットや携帯電話の普及に伴い、自分から意見を出し、新しい共通認識を持つ人たちが集える場が必要なのである。自分自身が当事者として人と交流し、現実環境を直視する中で、実感や喜びを得る事の素晴らしさをもっと分かって欲しい。これが、現在の我々の活力源であるみんな期待なのだから。



藤田英晃

テレビに縛られる子供・・・個人的な体験より・・・

 テレビを見ていないと不安になる。なぜ・・・?だって、周囲の話題から取り残されてしまうから。このまま興味のないテレビ番組を見続けなきゃいけないのかな・・・?

 子供の頃(小・中学生の頃)、このような思いに駆られた人は、実は意外に多いのではないだろうか?るいネットの投稿をいくつか拝見させていただいたが、その中にも、「子供の頃はテレビを見ることで周囲との一体感や連帯感を保てた」といった意見が見られた。毎日学校で前日のテレビ番組の話に花を咲かせる光景はどこにでも見られると思うが、その中で一体どれくらいの人がこのような思いに駆られていたのだろうか。

 話題についていくためにテレビを見る子供は、テレビ番組そのものには全く興味を持っていない。にもかかわらず、貴重な時間を割いて有害なテレビ番組に接しなければならないのである。もしかしたら、そういった子供たちは、すでに漠然と、テレビのもたらす害に気づき、旧認識の支配する世界に関わりを持たないようにしようとしているかもしれないのに…。

 しかし、「実はテレビ番組にあまり興味がない」という子供が何人かいれば、そしてそのことを子供たちが知ることができれば、無駄にテレビ番組を見る必要はなくなるのではないだろうか。実際に、私が小学生の頃、私を含めて何人かの友達たちで「話題についていくためにテレビを見るのはつらい・・・」と話し合ったことがあった。そして、それがクラスの話し合いの場に出され、予想以上に賛同者がいたことに驚いたという経験がある。そして、その日以来、私のクラスでは無理して頑張ってテレビを見るという行為から解放されたのである。

 実際に、今の子供たちが、どのようにテレビと接しているのかは正直知らない。しかし、先に述べたような不要な外部圧力によってテレビに縛られているようならば、そのことを少し友達に話してみると良いのではないだろうか。子供たちを育てる大人たちは、彼らがそういった悩みを抱えているのならば行動に出ることを促すよう協力してみると良いのではないだろうか。テレビ番組に害されていない子供が増えることは、これからの社会にとって非常に重要なことなのだから。



柳田雅史

現実のある場所

「特に皇太子ご成婚パレードは忘れられないよ。テレビに映し出されたあの華やかな光景には本当に目を奪われた。」私は祖母の言葉を思い出した。彼女は何度テレビの中に憧れを見たことだろう。

1953年テレビの本放送開始当時、受像機の価格は高くテレビは高嶺の花であった。また、テレビは生活の中で頻繁に話題の中心となり、テレビから発信される映像を見聞きしているかどうかを試される機会が増えていった。テレビを手に入れることは一種のステイタスであり、そして必須であった。ここに「私権統合」と「私権の強制圧力」の姿を見て取れる。

70年代貧困が減少し、私権は衰弱した。憧れがテレビの中にあった時代は過ぎ去った。全面的な閉塞状態に陥っている社会の中で、人々は真の充足を求め現実に向き合い始めた。現実から新しい社会を構築しようとしているのだ。

しかし現実はテレビにはない。日々テレビに映し出される映像は、「現実」を題材にしたマスコミによるSHOWでしかなかったのだ。観客に感動や怒りといった何らかの感情を持たせ、注目させ、観客の関心を繋ぎとめておくために、現実を観客のウケがいい様にアレンジする。アレンジされた現実=SHOWからはもちろん本当の現実を知る事は出来ない。

現実は現実の中で生きるみんなの中にしかない。

テレビは変わらないし、何も変えない。テレビは単なる表現者また傍観者である発信階級が作り出す現実の一方的な押し付けの場でしかなく、新たな社会構築に向けた認識の生み出される場所ではない。現実は現実の中で生きるみんなの中にしかないと気付き、みんなと関わり合う場を必要とする社会の当事者は、そんなテレビを必要としない。ましてや「面白さ」など感じることなど出来るはずもない。




中瀬由貴

そもそもテレビは見る必要があるのか

 なぜ今テレビは面白くない(見たいと思わない)のかと問われ、まず考え付くことはテレビを見終わった後に自分の中に残るものは皆無であるからという事である。テレビという媒体が私たちに情報を一方的にを発信する中で本当に必要な事などないのではと思うほどである。又、多くの人がテレビは面白くないと思うようになったのは独善的なテレビの作り手(発信者階級)の発信する内容をそのまま受け入れる事自体が苦痛になったからではないだろうか。

 私の家では中学生になるまでテレビはなかった。もちろん当時はやっていた番組やドラマなどの記憶は無く、その頃は見たいとも思っていたが、しかし実際それによって学校生活を含め普段の生活に支障をきたした事はなかった。
 
 テレビは面白くないかも知れないがニュース等の情報番組は必要であるという考え方もあるかもしれない。しかし、そもそも完全な報道の自由や公平さなどある訳もなく自由の国と言われるアメリカでさえ報道の自由は国家の利益の範囲内においてのみ許されている事は言うまでもない。
 
 昔のテレビ(60、70年代)は今と違って面白かったと言う人もいるかもしれないが、その頃の日本の社会は私権統合が社会全体の共通認識であった時代であり、だからこそテレビの与える影響に関して疑問を抱く事はなく需要と供給のバランスが成り立っていたと考えられる。そして同じテレビ番組で育ったという仲間意識が生まれるのではないか。(全ての人がそうであるとは思わないが) 
 
 社会不全に陥っている現在ではテレビは面白くない(役に立たない)だけではなく旧観念をひきずる有害な物に他ならないのではないか。と言うより今のみんな不全の状態をつくり出した原因の一つだとも言えないだろうか。なぜなら私権時代の認識を未だに発信し続けているからである。

 しかし、最近テレビが面白くない(テレビは見る価値はない)事に多くの人が気付きはじめたきたと感じる。それは明るい材料ではないだろうか。今、私たちに必要なのは新しい共通認識による新しい社会の形成であり、そのために重要な事は新しい認識を持つ人たちが集える場(るいネット等)であり、テレビから垂れ流される旧観念ではない。テレビが面白くない理由という議題の奥にはテレビの存在意義を含めもっと深い問題が潜んでいるように感じる。




古川正樹

tele-visionというblackboxの存在理由と我々との関係 さあ現実の砂漠(厳しい外部世界)へ PART2

PART1の続きです。
またTVの中の世界、もっと言えばテレビ局自体、我々が存するこの現実世界とは“位相”が異なる (生放送においても虚構的性格は言えるから時差的なものだけではない)別世界=Utopiaなのであろう。その国は“芸能人や業界人”という特別な資格(Passport)を有する者でなければ入国する事は出来ない(だからテレビ局の入り口の警備が厳重なのだ!)。そしてその中では、大道具、小道具、音声、照明といったそのUtopiaを作り上げているのである。出演する芸能人達はその国の住人を演じ(文字通りactor)、TVを通して我々の現実と接触する。
人々がこの日々厳しい、不全感の充満する現実界からテレビの中の生ぬるいUtopiaに憧れを抱き、歌手や芸能人志向が高まるのも無理のないことである。しかしそんな彼らもその夢が叶えばいずれ気付くだろう。TVの中のUtopiaはあくまでもこの現実界に対しての代償充足の役割であって、その中で演技をする自分自身はなんら充足しない事を。何故ならテレビの中の自分はほんものの自分であり、fictionの登場人物であるという二重化によってさらに倒錯するからである。
さらに決定的なことはTVに主体なるものは存在しない事だ。演じている側も見ている側もいなくてもテレビの映像は流れ続けるし、TVの対象としているものは具体的な私達でなくて、統計としての均質化された人間の総体であり、非現実的な架空の主体である。問題はTVがそのチャンネルにつけられていることであり、あえて言うならばテレビの主体は物的な意味においての“TVそれ自身”であり、この事からも自己完結性がうかがえる。
そしてその情報を一方的に受け取らされる我々は現実/虚構を混同させられてしまう。
マスコミは独占的な共認支配を行使して、我々に唯一の解を押し付ける(選択権の剥奪)。つまり、同一の自己の複製(コピー)を作り出し、そのウィルス的な増殖によって適応不全態へと退化させ、この強制的な認識は今や我々の認識さえも支配し、堕落と倒錯へと導く。
しかし、現実は様々な要素が絡み合い複雑化しているため、唯一の解で解決可能なものではなく、特殊解も存在する。つまり進化の源泉である多様な同類他者(双子)を作り出す必要があるのだ。つまり共認することができる相手をつくらなければいけない。その運動は既にこのるいnetによって起動している。
しかしこの共認において、誤った仕方をした例としてテレビの作り上げる同一の自己(copy)に関して上記のアメリカ同時テロ事件においてTVの果たしたもう一つの役割が注目に値する。このテロ事件=厳しい外部世界(外圧)に直面した後、アメリカはその後nationalism(共認)に急速に傾斜していくが、それを強く促したのがTVである。個人の具体的な死は提示せず、その死を匿名化し何千人という総体だけを示したり、犠牲者の家族をstudioに呼び犠牲者の人柄や、半生をDocumentで綴る番組や、救助する救急隊にカメラを当て英雄として捉え放送したりと、現代の宗教的な役割を果たした。この絶対的ドグマ(非現実世界に暫定する唯一解)によってテレビは現実世界へ足を踏み出したアメリカ(国民)をまたもや非現実世界へと連れ戻す事に成功する。現代のmediaは人々を教会に導くことなく、TVという武器を用いて各家庭の居間にまで出向きその布教活動を展開する。そして疲れ果て、TVの前で警戒を解放している人たちの心情を蝕んでいくのである。
 しかし、これまで傍観者としてTVに釘付けになっていた我々日本人は未だにこの危機的状況について気付いていない。(るいnetの人達は勿論気付いているが)

現在の我々とTVの関係はM.ブーバーの言う“私とそれ”であり、自分から見てテレビは外から見るもので、対象化しているものであり、単に経験するのみで、最初から期待しないので、疲れもしない=傍観者。これまでの私権時代はそれ(単なる代償充足としての手段)でよかった。しかし冒頭で述したように、我々の潜在思念は変化してきた、今我々の求めているものは“私とあなた”の関係であり、多くの投稿にあるように前者に比べ非常に疲れる、それは本当の自分が全人格を懸けて向かい合う関係(共認)であり必然なのである。
現在のテレビの存在理由は私権時代が消滅したあとの後遺症であるといえる。それがまだ継続しており、我々は 早く現実界の砂漠へ足を踏み出し、その砂漠の砂に足を取られる感触を体感(自らが存する現実世界を体感)しなければいけないのである。それが実現したときテレビという現実を忘却し、虚像化し、その毒性を撒き散らすblackboxの必要性=存在理由は必然的に消滅するだろう。



桶皮竜希 

tele-visionというblackboxの存在理由と我々との関係 さあ現実の砂漠(厳しい外部世界)へ PART1 

もう既に多くの人々が潜在思念の中でTVの必要性に対して疑問を抱き始めている。それはやはりTVが変わったからではなく(勿論50年前からは内容や製作や企画などは変化しているが、根本的な構造は不変)、それを受け取る我々のTVに対する認識が変わったことが大きいと考える。にも拘らず、未だに人々がTVを買い続ける理由は何か。
つまり、現在のTVの存在理由である。
当初は一つのstatusの道具として認識され,私権時代においては現実の私権圧力の中においての息抜き的存在=不全感の蔓延る現実に疲れた者達の代償充足を果、このようなTVの効用(役割)は麻薬に似て、厳しい現実から逃れ、容易なecstasyを手に入れる手段である。
これは“悪薬は口に甘し”であり、後に副作用として破滅が待っている。麻薬の場合は、精神異常/人格崩壊であり、TVに於いてはマスコミ達やTV局が作り上げる“虚”としての現実提示による思考倒錯である。
映画や演劇やは完全なる“つくりもの”(シミュラークル)であり、受け手の観客達もその事を承知の上で前提として捉えており、ゲームも同じ。(基本的には)そこから娯楽以上のものを期待していない。しかしTVはこれらよりもタチが悪い。というのも“現実を土台(ネタ)にしながらそれらを人為的に操作”しているからであり (最近ではTVドラマにおいて“この番組はfictiionです”が余り流されていない) 、時に視聴者はそこから現実の情報を仕入れようとしている(news等)からである。
この視聴者達の期待とは逆にTVにおける非現実性は今や明白で、マスコミ達による現実情報操作から実と虚は転倒し、実の虚像化/虚の実像化が働かされる(これはアメリカ後期資本主義社会(私権時代)が生み出した人間の心的構造の二重化を描いたJack Londonの『Martin Eden(主人公は結果的にこの二重化の倒錯により自殺してしまう)』の内容通りである)。またジム・キャリーが出演した映画『トゥルーマンショー』も同じ事である(主人公の生活が24時間テレビ放送され、周囲の人々は全てextra、出来事も全てシナリオ通りでその町(空なども含む)全体が作られたsetで、それを多くの人が傍観者として鑑賞する)。つまり、TVというblackboxは我々の日常現実を“傍観者達の視聴する対象物に転倒”(現実⇒虚構)させる恐ろしい力を持っているということである。
あのアメリカ同時テロにおいてWTCに追突する飛行機をTVで眼にした多くの人々は“まるで映画(screen)の中の出来事だったかのようだ”と述べている。そして驚くべき事にこの発言は被害を受けたアメリカ人達からも多く聞かれる事である。これまで第一世界のアメリカという大国はTVで流される第三世界で起こる内戦や、テロ、紛争に対して“恐怖は「ここ」で起こっているのではなく、「あそこ(どこか別のところ)」で起こっている”と認識していた(特にアメリカは後期資本主義消費社会=私権社会において「現実の社会生活」そのものが脱物質化した、見世物への転倒=非現実性である事は多くの人々が指摘している)。つまりここではテレビによって傍観者的な視点・認識が植え付けられ習慣化(被支配)していた事が分かる。文字通りtele(遠く離れた)-vison(映像)である。またこれまでハリウッドで製作されてきた数々の映画の中での非現実の世界として写ったのである。
最近よく見かける“この番組はお子様に悪影響な映像を含んでいます”という言葉もうけての我々を傍観者たらしめているものであり、我々を「彼ら」から「彼らの属する現実から」乖離させているものである。
そしてあの9・11によってアメリカはこれまでのTV的な完全に閉鎖した自己完結世界(傍観者)から、外部世界(当事者)を垣間見た(恐怖は「ここ(我々の属する世界=現実)」で起こっている)のであり、安全な非現実世界から危険な(厳しい)現実世界へと引きづり出される(気付かされる)事になる。(しかもこの多民族的大型私権集団(カタワの集団)に気付かせたのがイスラム原理主義という地方的理念を共認している本源集団であるところが興味深い)。このことをスラヴォイ・ジジェクは“現実界の砂漠にようこそ”と言い、アメリカの例外的な立場(「球域」=外部世界から隔離された完全に自己完結した安全な世界=TVの世界のUtopia)の終焉を示している。上記のジジェクの言葉は映画『Matrix』のMEGA-PCによって生み出されたvirtualな世界から現実世界へ戻った際の、地球の終焉的な光景=廃墟と化した世界にも表れている。もはや“自由”の国アメリカなる観念は外部世界に対して全く通用しないものである事が露呈された。アメリカの“自由”という観念は人々を個人に拘束して、共同体の一員である事を忘却させているのである。



桶皮竜希