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テレビ=食品添加物をたっぷりと使った料理

 フジテレビ「月9」の視聴率は毎回下がり続けている。昔は、例えば恋愛ドラマなら、「あんな素敵な恋愛をしてみたい」などと思い、そして架空の世界に魅了されていた。しかし、本当は現実の世界のほうがとても魅力的であると気づいた人々がいた。現に私もその一人である。私の大学生活は、とても内容の濃いものであり魅力的である。友人関係にしても、学業にしても、時には辛く、悲しい時もあったが、それを超える喜び、楽しみがあった。このような人が増えていることも視聴率低下の理由のひとつだろう。そして、やはりテレビから発信されている情報(ドラマ、ニュースなどすべて)の性質に根本的な理由があるように思える。

 ここ(るいネット)で、皆さんの意見を読ませてもらい、私も同じような意見をもった。そこで、もう一度テレビから出る情報について私なりに考えてみた。

 テレビのように発信階級から出る情報は、加工済みの情報である。
 化学調味料や着色料・保存料など食品添加物をたっぷりと使った料理は、見た目はきれいだし、味もまずくはない。しかし体には、悪影響をおよぼしている。テレビはまさにこの料理と同じである。様々な手を加え、そして見た目はあたかも正しいことのように見せ、実は我々の体を、そして意識を蝕んでいる。(旧観念の支配)

 しかし、最近、無農薬の野菜や、無添加・無着色の料理が好まれているように、情報においても余分な手を加えられていない、より素に近い情報が求められるようになっているのだと思う。より、現実に生きる当事者のそのままの情報・意見が求められているのだと思う。(みんな期待)

 インターネットが生まれ、チャットや掲示板など自分の意見・主張を発表できるようになった。そして、みんなから、その意見に対する意見が出され、コミュニケーションが生まれた。このように生の意見が得られ、コミュニケーションが確立された今、テレビの加工された、しかも我々は受けるのみの意見はとてもじゃないがつまらなく体が拒否してしまう。だから、テレビは面白くない。



本橋範一
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面白くない報道番組

報道番組の使命とはなにか?速く正しく情報を伝えることだ。しかし速さではネット上のほうがタイムリーで、公正さでは国の許認可事業であるテレビ局にとって、混沌の国際情勢から考えると難しい。すなわち、テレビの報道がもはや影響力を失っているのは自明の理だ。

 ではテレビの報道番組の現状を見てみよう。視聴率だけを見ればテレビ朝日系のニュース・ステーションがNHKの番組群に食い込んでいる。あんなにも独善的な報道が視聴者を引き込んでいるのだ。政治家や他国の指導者の思惑を推移して、ひねくれた再現映像を作り放送する。確かに社会に適応不全しかけている視聴者にとってはわかりやすいし、そうでなくても歪曲された報道をおもしろがって見る人も少なくないだろう。しかしこれが「みんな期待」に応えられるような報道なのか?所詮そんなものは発信階級のエゴに過ぎないと思うのだが。

 スポーツ報道についても考えてみよう。昨年のワールドカップの報道なんて愚の骨頂だ。サッカーを知っているはずの解説者が、他国に比べそこそこの日本代表チームを戦時中の英雄のように称える。その反面、道頓堀に飛び込む若者を問題視する。「おまえらが煽ったのだろう!」と言いたくなるような報道内容が横行していた。代理戦争としてスポーツを捉えるのは、まるでナチスそのものである。

 報道番組が面白くないのは、視聴率(及び広告収入)に傾倒しているだけだからだ。視聴者と制作者の両者にとって都合の良い報道か、発信階級のエゴで塗り固められたような報道しかしない。それは彼らが今でも有り余るほどの給料が貰えるのだから仕方がない。もはやネットの双方向性の前では一方通行の報道など無意味になってしまったことも、視聴者が報道番組でさえ暇つぶしで観ているという現状も直視できない。視聴者という数字上の「集団」に依存するような報道では面白くなくて当然である。



匿名希望

テレビの時代の終焉

確かに子供の頃の記憶を振り返っても、テレビが一番面白かったのは60年代から70年初頭ではないかと思います。爆発的な人気だった「てなもんや三度笠」「ひょっこりひょうたん島」「鉄腕アトム」も何となく夢を感じたし、お笑いにしても毒気が無かったように記憶しています。テレビの本質が代償充足であるとしても、「貧困」という「みんな不全」を脱するためのエネルギーや、未来への夢がテレビの中に感じられたように思います。

ところが貧困が消滅し始めた1970代に入ってテレビ番組も大きく変容していったように思います。70年代は反体制運動がほぼ終焉し、万博と「モーレツからビューティフルへ」というコマーシャルによって幕が明けます。未来への夢の言葉と裏腹にテレビは、11pm、野球拳、ハレンチ学園、etcいわゆる「エロ・グロ・ナンセンス」と言う言葉に代表されるように、刹那的刺激や毒気が大量に含まれた番組がどんどん増えていった様に記憶しています。
おそらく貧困の消滅に伴って、「みんな不全」が消え、貧困と社会矛盾の解決のための「連帯や団結」というスローガンも輝きを失い、人々はどんどん「個」へと解体されていったそれが70年代なのではないかと思います。実際若者の意識も「自分主義」へと傾斜していった訳ですが、それを支えていた自我(相対優位の欠乏に基づく、自己正当化と他者否定の意識)が憂さ晴らしとしての捌け口を求めていた、それがテレビに反映していたのだと思います。(個人的には私はこのころからテレビに退屈し、すっかりテレビは見なくなっていました)
更に80年代に入って更に「核家族化」と「個室収束」が進行。「今が楽しければ、それでいい」という意識の元でテレビも人をコケにする「ワイドショー」とお笑い番組が全盛となっていきます。あたかも人々の「失われた手応え」を刹那的刺激によって埋め尽くすように。

しかし現在若者を中心に人々は、明らかに仲間や人つながりに向かっています。また人類の適応不全という新しい「みんな不全」の顕在化に伴って、答え欠乏が反意識化されてきています。そして何よりも多くの人々は「反応充足の手応え」を求めています。

それらの変化に伴ってテレビが面白くなくなってきた、ということは結局この30年間のテレビは、浮遊し肥大した自我欠乏に応えるだけの存在であり、それは希薄化しつづけた人間関係や「みんな期待」に応えること等の真っ当な反応充足が閉ざされた中での、歪んだ代償物に過ぎなかった、といえるのではないでしょうか?



北村浩司

思い出として語られることを通して

 私は小、中学校の頃、アニメ、ドラマやバラエティー番組など本当によくテレビを見ていた。テレビを見ることで友達との会話に入ることができたし、何か不思議な連帯感さえ感じていた気もする。しかし大学に入ってからテレビ番組を見ることは次第に少なくなり、いつしかテレビは映画を見るための道具にしかならなくなっていた。テレビを見ることより外へ出かけ、友達と遊び、いろいろなものを見て回ることのほうが有益に思えたし、実際そのほうが楽しかった。いつの間にか私はテレビそのものに存在価値を見出せなくなってしまっていたのである。なぜそう思うようになったのだろうか。
 
 最近、同級生と同窓会をする機会が増えたことで、私は自分の過ごしてきた今までの人生をふり返ってみるということが多くなった。その中でふとしとことから気付いたことがあった。私と多くの同級生との間で交わされる会話の内容の多くは、彼らと私が共に過ごした実体験に基づく思い出ばかりなのである。小、中学校の頃は学校での友達との話題の多くが昨日のテレビ番組のことばかりであったにもかかわらず、それらのことは全く会話に出てこないのである。そういえばあれほど毎日見て面白いと思っていたテレビの内容が驚くほど思い出せない。それにテレビを見ていたことが楽しかったと思えるほど思い出になっていないのである。逆に、つい先日あったことのように鮮明に思い出されるのは、自分が当事者として実際に経験したこと、発見したことであり自分が手応えをもってじかに現実にふれたことなのである。結局、私と同級生との間に残ったものは、毎日話していたテレビの内容などではなく私と彼らという現実に生きた当事者同士の実体験であり、それに基づく関係や認識だけだったのである。
 
 大学に入ってからは、テレビがもたらす短絡的な面白さが、実際には私たちの体の中に本当には染み渡ってはいかず、楽しい思い出として残ってはいかないことに無意識のうちに気付き始めていたのかもしれない。テレビから流される知識や・意見・情報・答えが現実を生きる私たちの社会の中では、どこか現実離れした虚構の世界にしか映らず、本当に役に立つことは少ないことにも気付き始めていた。だからこそ、いつの間にかテレビ離れをしてしまったのであり、テレビそのものに存在価値を見出せなくなったのである。
 
 テレビは自己完結的であり私たちに情報を与えるだけ与え、実際には何もしてくれないのである。あくまで実際に考え行動し、認識をつくり出すのは現実を生きる私たちなのである。テレビを本当に面白いと思っているのかどうかは、自分の胸に手を当て、テレビが与えてくれたものが心の中にどれほど残っているのかを考えれば自ずと答えは出るのではないだろうか。




伊賀本寿徳

今日のテレビの明らかな戸惑い

 既に多くの方々が指摘されているように、私も数年前、少年期における成長の中でいつの間にか自然にテレビ離れをしてしまったうちの一人である。
 理由は単純で、あらゆる事象を取り上げては必ず「面白おかしく」加工して届けてくれるテレビのご丁寧さに、ウンザリしたからである。家の外の世界で人々との対人関係(互いに送受信し合う「生きた」やりとり)を満喫すれば、帰宅した後にまでわざわざテレビに楽しませてもらいたいなどとは思わない。ましてや、笑わせてくれなんて頼んだ覚えは一度もない。仮に個室で一人寂しい気持ちになっても、残念ながら携帯電話やインターネットを介して他者に「会えて」しまう。テレビの出番はない。最早その必要性が見当たらないのだ。
 我々のこうした実情に適応できずに、テレビは明らかに暴走・迷走しているというのが今日の現状だ。では、テレビ側はそうした危機的状況に対して全く無自覚だろうか。
 やはりうすうすは感じているのだろう。その焦燥感の結果が今日、テレビの内容をワンパターンにさせている。つまり、「本当は面白くない」ということが実は分かっているから、無理やりにでも面白くしようと必死に空しいあがきをしているように見える。そうした暴走・迷走番組に出演している芸能人らの表情を見ても、明白な困惑の様子が見てとれる。それを見ている我々の方がかえって彼らに同情してしまい、ますます我々の心はテレビから離れていく...こんな悪循環の繰り返しの中で、テレビというマスコミの主要な一角は、自らの衰退・滅亡という運命すら、最後まで傍観・逃避的姿勢を貫いてゆくのだろう。
 もちろんテレビを先駆けとして、全てのマスコミが今、自分達の破滅への歩みを傍観している状況にあるだろう。日々の業務そのものが他者の現実を扱うものであるという傍観者特有の性格上、いざ自分達自身が困難な現実に直面しても、それを直視しない逃避的姿勢に「反射」してしまうことは避けられないだろう。
 しかし他方我々は、今「みんな不全・滅亡への危機」という人類共通の切迫した問題を抱え、この解決的方向の模索という緊急的課題にあたって、今日のマスコミのこのような実態をまさに「反面教師」として歓迎すべきだろう。つまり、マスコミが今までやってきたことと、正反対のことをしてゆけば良いのである。少数の傍観者による支配的共認世界から、多数の当事者による普遍的(本源的)共認世界への移行。そのモデルは、「反旧体制」「反旧観念」なのだから。しかしだからといって、来るべき新しい共認形成が明確な輪郭を帯びて見えてくるためには、今後の我々による更なる事実の追求・分析が求められるだろう。



ジャック・ダニエル

大手メディアは今回も・・・

もし生きていらっしゃれば、現在イラクのバグダッドにいる日本人のHPにこんなくだりがあります。

リンク

>あれほど連日アフガニスタン報道一色で、タリバンの非人道的な政策などを喚き立てていた日本のメディアは、その実、この間彼以外誰一人としてタリバンを見もしなかったのだ。

>見ていない、事実を確認していないものを批判するのは報道の立場として明確におかしいのではないかと思うのだが、今回のアフガニスタンではタリバンとビン・ラーディン氏を、一昨年はチェチェン・イスラム勢力を、やはり大手メディアの誰一人として取材しないまま、現地の「強い方の」政府の発表を垂れ流し、ときには誇張さえして、プロパガンダ、あるいはデマゴーグの役割を果たし続けた。

<中略>

>いつものことだが、最低限、水準に達した仕事をするジャーナリストはあまりにも少数で、ちゃんちゃらおかしい問題外の連中の声だけが大きい。(2002/01/11の日記より)

今回のイラク戦争でも同様と思われます。

・・・サイト上の彼(常岡浩介氏)の最新の日記は、3月24日で途切れています。
(同じく、生きていらっしゃれば今バグダッドにいる日本人写真家、久保田氏の日記も25日の午後2時以来更新されていません。ご無事を祈ります。
リンク )
 



蘆原健吾 

「心の慰み」需要の終焉

ほんのちょっと前まで若者の心を捉えていた「遊び」=スキー・スノーボード。でも、リフトの前には長蛇の列だったのは過去の話。実はここ数年、若者のスノースポーツ離れで、スキー場は来場客数の減少に苦しんでいるそうです。

かつての活気は影を潜め、リフト待ちもほとんどない。リフト券もデフレが加速し、スキー場によっては「女性サービスデイ」などと称してリフト代を無料にするスキー場まで出てきています。よくスキーに行く友人曰く「すいたゲレンデで激安で滑りまくれるのはええねんけど、こんなんでスキー場の経営は大丈夫なんか?と思ってしまう」。

昨年の9月30日には、世界最大級の屋内スキー場『ららぽーとスキードーム ザウス』が収益悪化を理由に閉鎖しました。ピーク時は年間約100万人だった来場客数が昨年は約70万人にまで落ち込んでいたそうです。もう2度とこんなバブリーな施設がつくられることはないでしょう。

テーマパーク・遊園地の経営破綻も相次いでいますね。

テーマパークは'80年代を中心に、全国で相次いで開設されたようですが、バブル経済の崩壊とともに来園者の減少と多額の借入金返済が重なり、経営危機に追い込まれるところが続出。地域活性化を目指す自治体などが出資、運営にかかわる「第三セクター方式」のものも多かったようです。

藤岡さんが44295 「鉄道会社が街を創る時代の終焉?」に挙げておられる、「宝塚ファミリーランド」「神戸ポートピアランド」「阪神パーク」「伏見桃山城キャッスルランド」「さやま遊園」などをはじめ、'97年には北海道芦別市などが出資した「カナディアンワールド」が破綻。'98年には、広島県などが関わる「呉ポートピアランド」や松竹が運営した「鎌倉シネマワールド」、そして福岡県や大牟田市が出資する「ネイブルランド」が、相次いで経営に行き詰まりました。'00年には、熊本県荒尾市などが設立した「アジアパーク」が閉園、香川県の「レオマワールド」が休園。さらに'01年には、第三セクターでは過去最大となる総額3261億円の負債を抱えた宮崎県の「シーガイア」が会社更生法の適用を申請して倒産しました。

まだあります。京阪電鉄が出資していた瀬戸大橋の「フィッシャーマンズ・ワーフ」が、行楽客が1/10に激減し閉鎖。沖縄県本部町の「アクアパーク」が破産申請。「富士ガリバー王国」が昨年10月に閉鎖。その他、関東圏では「小田急御殿場ファミリーランド」「行川アイランド」「ワイルド・ブルー・ヨコハマ」「ネオジオワールド東京ベイサイド」などが次々と閉鎖に追い込まれています。

今年に入って、佐世保市のあの「ハウステンボス」が会社更生法の適用を申請したのは記憶に新しいところです。

それだけではありません。(財)自由時間デザイン協会が昨年7月に発刊した『レジャー白書2002』によると、ゲームセンターは4年連続のマイナス成長。

>ゲームセンター・コーナーの年間利用回数は平成12年13.2回から平成13年11.9回に、年間平均費用は10.8千円から8.2千円に減少した。

家庭用のゲームソフトの売り上げもダウンしてきているという話も・・・・

人々の「遊び」への活力は、どうもどんどん減少していっているようです。そうなると、「遊び」を提供しみんなを楽しませる側(「遊び」のサービスでみんな期待に応える側)の活力も下がってくるのは必然でしょう。

>私権時代のみんな不全⇒みんな期待は、一貫して、実現不可能視に立脚したものだと思います。私権の強制圧力は覆せないことを暗黙の前提にして、せめてもの心の慰めとして、物的な快美充足や宗教・思想・芸能に期待した。「実現不可能視発のみんな不全⇒みんな期待」だったのではないでしょうか。 (52166 冨田さん)

つらく苦しい私権闘争の合間のひとときの休息「実現不可能視発のみんな不全⇒みんな期待」=「遊び需要」に応えようとする活力は、'70年代の私権の終焉の後、おそらくバブル崩壊後まで、大多数にまだ存在したのかもしれません。しかし、私権の強制圧力の衰弱が実感レベルで明確になり、一旦開放感から消費・遊興にはしった人々の意識は、30年ほどのタイムラグを経て、確実に転換しつつあるようです。

今起こりつつあるのは、私権統合のパラダイムそのものの転換、つまり「私権の現実を覆せないことを前提にした心の慰みの必要」そのものの終焉なのではないでしょうか。だとすれば、次は私権芸能とテレビの番だと思います。 続きはこちら
 



tanvool

テレビを見なくなった理由~自分自身を振り返って~

 私は日常テレビを見ることがほとんどない。なぜかという理由を追求したことはあまりなかったが、自分自身昔に比べて確実にテレビを見ることが減っている事をよく実感はしていた。私はこの自分の変化をこの投稿を機に振り返ってみたいと思う。

 そもそもなぜ昔はテレビを見ていたのだろう。小、中学校の頃は学校での友達との話題がもっぱらドラマや娯楽番組の事についてであった。自分だけではなく、周りの友達もみんなが見ていた。あの頃は母親に注意されてもテレビの前に噛り付いていたことをよく覚えている。テレビを見ないと友達との会話に取り残されてしまうような不安感もあったが、もちろんテレビを面白いと感じていたのが第一の理由だ。

 しかしなぜ今はテレビを面白いと感じることができなくなったのであろう。家に帰ってテレビをつけてみても、凝視するのではなくただ音が流れているだけ。そしてその内その音さえも雑音にしか感じることができず、電源を切る。これが私の今の現状である。

 過去と現在と何が変わったのだろう。
 テレビは何が変わったのだろうか。
 私がテレビの変化として思いつくのは、視聴率獲得の為に何もかもが大げさに報道されるようになった事、そして虚偽を伝える番組が増えた事くらいである。
 しかし私達のニーズは変化している。一方的な放送、過度な表現、虚偽の情報、そのようなものは何も求めていない。人々は今、人との交流、現実の直視、自ら得る実感や喜びを求めている。

 つまり今、人々は事実を基にした自分も関わることのできる場を求めている。しかしテレビ側はその事に気づかず、注目を繋ぎとめようと更に虚偽をエスカレートして一方的な放送を繰り返す。そしてこの方向の違いは日増しにエスカレートして行き、完全に供給と需要の破談が起こる。もはや自分達が求めているものはもうテレビでは満たされなくなってしまったのだ。

 そう考えていくと人々がテレビ離れをしていることはむしろ当然である。起こるべくして起こってしまった結果なのだ。これからはもう娯楽をテレビに求めるのではなく、自分の手で何かを起こしていかなければ、本当の楽しさや喜び、やりがい、充実感は得られないだろう。その事に気づいた人はもうこのるいネットや、多くの方と意見を交わせる交流会などの参加を始めている。

 私自身、普段何も考えずに過ごしていたらテレビが面白くない理由も何か考えようともせず、終わっていたかもしれない。しかしこれからの時代、受身だけでいるのではなく、自分が主体となって行動して行きたいという願望を持つ人々は更に増えていくだろう。
 そうなれば、つい10年程前まではみんなの情報源であったテレビが全く不必要なものになっていくのではないか、とすら私は感じている。  



小坂真美

進化論


既にみんな気づき始めている。変わったのは人々の意識、時代なのだと。
テレビは進化しない(してない)。テレビが発明された当時は活字でしか体験できなかった世界を、よりリアルに、よりクリアに表現した。面白く(新鮮に)感じただろう。さらにテレビを持つことは、かつて一種のステイタスであり私権統合の象徴でもあった。

しかし、現代は文明が発達し物品は溢れ、単なる利便性や表層的なリアルさに感覚を刺激されなくなった。人々の気持ちは、単に物欲でなく精神的な癒し、本質的な豊かさを追求し始める時代に突入している。
人間は常に新鮮さ、刺激を求めることで進化を続けてきた。
それらは体感、実感、といった感覚と実体験により紡がれ、創造性のある思考、行動によって充たされるものだ。

テレビのリアルすぎるリアル(作られたリアル)に、視聴者の思考は止められ、創造性は喚起されない。みんなそのことに気づき始めた(飽き始めた)。活字でさえ場面を想像し、文脈を理解しようと思考させられる。さらに会話においては、議論を生み喜怒哀楽様々なリアクションが返ってくる。
もはやテレビは時代遅れなのだ。

次代(というか現在)は、面と面、言葉と言葉といった、思考しリアクションの期待できるツール(例えば携帯電話、インターネット)が主流となるだろう。
不特定多数を相手とし、一方的に押し付ける。能動的アクションを起こさせないテレビには思考、創造性といった自己(人)を形成する(成長させる)、人間にとって本源的な要素を見出すことはできない。

テレビは進化する次代の激流についていけなくなったのだ。時代の進化についていけないものが淘汰されるのは自然の摂理ではないだろうか。でも時代は、人間は進化をやめないだろう。

テレビが面白くなくなった、そうではないみんなの面白いと思う感覚や時代のニーズが進化したのだ。



小高浩之

発信に対する反応を得られる場が開かれて

私自身、テレビを観ていることや、これは観たいと思うテレビが以前よりも明らかに減っている。私の周りの人々や友人にもテレビ離れが進んでいる。「面白くない」と言う言葉をよく耳にするようになった。
  
 ナゼだろう。

 笑いを求め過ぎているバラエティー。何をしてでも笑いをもたらそうとしている。笑いは麻痺してしまっている。個人的なことや私生活などプライバシーに関わることも多く、それもおもしろおかしくみせて笑っている。クイズに正解したり、何かに成功すれば多額の賞金を貰えるものも目立つ。お金(や地位)の獲得を活力源としている傍観者の旧観念がテレビの中ではまだ生きている。まさに、現実逃避ではないだろうか。
このようなものは、現代、急速に衰弱しえいるというのに・・・。

 それに加えて、テレビと私達(観る側)とは、一方通行な関係である。私たちは、テレビに発信(応望)しても、その反応(充足)を得る事は出来ない。常に、あちら側から次々と流れてくるだけである。

 現在、私達は発信に対しての反応を待っている。反応が欲しいのだ。おもしろいことに、一方通行であるテレビに対しても話しかけたり、ツッコミをする人がいるらしい。それほどまでに、本当に私達は反応(充足)を求めている。共認の場を求めている事を示しているのではないだろうか。

 ここ数年、住民運動・市民運動やNGO活動・NPO活動への参加が以前に増して注目され、活発となってきている。一般の人々が主になって、何かに取り組む活動が盛んになってきている。また、これらのほとんどが、参加したいと思えば自分の意志で入ることができる。その入り口も広く開かれている。最近で言えば、住民投票や反戦デモなどである。
この、るいネットも勿論そうである。
 これらには、一人ひとりが当事者であるという共通点がある。自分達で創ってゆこう、変えてゆこうという動きであり、それを実現・可能にしたものも既にある。反応もダイレクトに返ってくる。
 私達は、少しづつではあるようだが、自分達で動けば反応(充足)が得られると言うことを知り始めている。

 私権統合の時代は衰え、共認の場や反応を求めるようになった今日。自らの意志で動けるようになり、反応(充足)を得る事のできる場、当事者になれる場も色々と出来つつある。受身の一方通行で反応が得られない、当事者になれないものに対しておもしろくないと感じるのは当然ではないだろうか。





杉江由衣

満足と不満足


友人と集まっている時、テレビをつけるか?
おそらく私は、つけないだろう。理由は、テレビより友人とさわぐ方が楽しいからである。

こんな具体例は、他にないかと考えた。
するとたくさんあった。テレビよりおもしろい事に熱中し、満足している自分を発見したのだ。

友人とのメールのやりとり、CDを聞く、写真を撮りに行く、インターネットをする、人と会う、スポーツをするなどだ。
では、テレビと何が違うのか?
それは、私自身が主体となって、活動していること。それだけである。

友達とのメールで双方向のやりとりができる。
自分が癒される音楽が聞ける。
写真を撮りに出かけると、新たな出会いや事実の発見がある。
インターネットで、得たい情報が手に入る。
人と会うと、批判されたり、笑ったり、泣いたり、刺激が受けれる。
自らが体を動かし、汗がかける。

こういったことが、テレビの前でできるのだろうか。

テレビでは、双方向のやりとりができない。
自分の求める音楽じゃない。時々、刺激の強すぎる音楽によって、気分を害される。
テレビ画面を写真に撮っても出会いや、事実の発見に繋がらない。
求める情報が入らない。
テレビは、批判してくれない、笑ってくれない、泣いてくれない。
参加者が、お金や賞品を求めて競技に挑戦する。私がもらえるわけでもない。見ているだけで、つまらない。


こんなんじゃ、おもしろくない。刺激がほしい。私は、そう考えテレビから離れてしまう。

ここでもう一つ、テレビ番組の内容について例を挙げてみたい。

見たいと思う所で、次回へ先延ばし。視聴率獲得のためだろうか。
放送禁止用語が多すぎる。出演者は楽しいだろうが、傍観者の私達は、何について笑っているかさえ解からず、全く楽しめない。
恋愛ドキュメントと称した“やらせ”。出演者本人から、直接聞いた。「自分が思ってもない事を相手に告白した」と。
モザイクをかけた、もしくは、本人になりきった代替の人物が登場してきて、その人にむけて、誹謗中傷する。いったい何がしたいのか。出演者も少しあきれた様子だが、参加する。お金と名誉のためなのか。
上辺だけのケータイCM。メール送信料があがったことなど知らされるはずもなく、お得な情報のみがCMで流れている。

いったい、どこからが、本物の情報で、どこからが、偽りの情報なのか。
私が独り言のようにつぶやくだけでも、こんなに多くの不満があるのだから、きっとここに訪れている皆さんもテレビに大きな不満をかかえているのだろう。

つまり、テレビがおもしろくないのは、主体が自分自身でないからであり、さらに加えてマスコミの空回り(私達との意識の差=大きなずれ)が大きな要因となる。

しかし、ここに集まった私たち以外の多くの人々は、マスコミに流され、自分の意見を与えてもらう余地を失い、テレビという媒体に疑問すら感じてないのではないか。
マスコミは、私から言うと空回りをしているようにしか見えないが、マスコミによって余計で大げさな情報を鵜呑みにしてしまった人達は、非常に危険である。

そういった人達が早く固定観念を捨て、私達と一緒に現実を直視でき、テレビが面白くない理由について語り合えた時、世の中は、少し変わるのではないでしょうか?



米坂亜紀

「娯楽」としてのテレビ

 私が思うに、テレビが面白くないと感じるのは、今目の前にもっと面白い現実があるからではないだろうか?

 私は高校の頃まで、まさにテレビっ子であった。学校から帰るとただひたすらテレビを見ていた。テレビを見る以外何もしていない、と言っても過言ではないほどに。なぜなのかはわからない。ただ一つはっきりしているのは、その頃私は、何か不完全燃焼で生活そのものがつまらなかった。 大学に入ると、一転テレビは全く見なくなった。見る時間もなかったが、別に見たいとも思わなかった。むしろ、テレビを見る時間がムダに思えた。大学に入った私は、完全燃焼する場を見つけ、現実の世界に夢中だった。
 そして今、大学を卒業し、専門学校に通っている。何もない夜、家に帰ると、ぼーっとテレビを見ていることがある。本を読もうとしても、勉強をしようとしても、疲れて能動的に動けない。だからつい受身でいられるテレビを見てしまう。すると、結構面白かったりする。下らない事に笑え、虚構の世界にも感動する・・・。

 人は、生きている限り、何か心の動きを求めているように思う。喜怒哀楽という情動は、生きていく「張り合い」となる。それが無いと人は「つまらない」と感じ、何か楽しいことはないかと探したりする。それをカバーするものが「娯楽」であり、その一つがテレビの存在である。心に何もないときテレビは、ささやかな笑い、感動などの情動を与えてくれ、わずかな心の潤いを与えてくれる。逆に、今生きている現実そのものに「張り合い」があるとき、その補助機能であるテレビは何の役にも立たず、ムダな物にすら思える。 

 高校の頃までの私には何もなかった。日々の暮らしの中に取り立てて悲しいことも、苦しいことも、楽しいことも、嬉しいことも。だからテレビが演出する喜怒哀楽に共感し、憧れた。しかし、殻から抜け出した私は知ってしまった、現実の方が面白い事を。テレビが与えてくれる感動など所詮他人事で、虚構で、到底実感としての感動(心の動き)にはかなわない事を。そんな時に見るテレビは、不快にしか感じられず、まるで面白くなかった。現実の方がずっと面白かった。そして今、私は再び、あの頃のような喜怒哀楽の無い生活を送っている。すると、テレビが意外に面白い。実感ではないにしてもささやかな情動を感じることができる。少しは心が潤されるのだ。ただ、一度現実の面白さを知ってしまった私は、これでは満たされないでいる。今の、この生活を、足早に駆け抜けようとしている。
 
 テレビが面白くないとき、それは現実が「生き生き」している証拠ではないかと思う。



板谷真紀

本当におもしろかったのだろうか

テレビに対する数々の不満というのは昔からあったと思いますが、
昔はもっと面白かったという声も多く聞きます。
昔、TVはどのような捉え方をされていたのでしょうか。
はたして、本当に面白かったのでしょうか。

戦後50年間で、カラーテレビは急速に普及しました。
テレビが世に出て間もない頃は、近所にテレビを持っている家があると、皆でそこに集まり、プロレス観戦をしていたと聞きます。
テレビを通してヒーローが生まれ、皆それに憧れました。
彼らはそれを確かに、面白いと感じていたのでしょう。
だからこそ、TV普及が広まったわけですし、TVを見るという習慣もついたはずです。
そして人々のニーズに応えるように、民報の数も増え、TVは多彩な情報を配信できるようになりました。
技術レベルも格段に上がりました。
TVを取り巻く環境は、急速に「進化」したと言ってもよいでしょう。

つまり、TVが面白かったと仮定するならば、TVは私たちにとって、もっともっと面白くなっている はず なのです。

しかしながら現在、るいネットに寄せられる多くの投稿は、TV離れのベクトルを示しています。
この事実は、現在の情報の急激な「進化」というものに、人類が対応できていないということを如実に表している証拠といって良いのではないでしょうか。

人類が予期も対策もできなかった、情報の供給過多という時代において、その情報の価値を自分自身で判断するということ。同じく伝達方法の多様化競争に陥った配信側がその一つ一つの価値を自己判断するということ。
これは今まで「情報の妄信」という形で自己充足してきた人類が踏み出した暗黒の領域であり、人は無意識にもそのダークゾーンを避けようとしているのではないでしょうか。
TVを面白く感じない、
「何か違うよ」
という漠然とした不満。
それこそが新観念の発生の根源と考えられます。

そう考えると、TVに対しての考え方が変わります。
「以前のTVが面白かった」という考えは、旧観念の中の「妄信」という概念によって感じたものであり、
その境界を取り除くと、私たちは逆に「TVは面白いものではない」と認識することも出来るわけです。




北村太郎

虚構の世界


少し前に長時間にわたる生放送番組に関わったことがあり、その時に初めてテレビが虚構の世界であることを目の当りにしました。それをきっかけに「テレビで流されていること=虚構の世界」であることを実感したのです。それまでにもテレビが流しているのは生放送であれ、ドキュメンタリーであれ虚構の世界であるということを感じてはいました。しかし、実際に見ていると真実であるかのように見えてしまいます。かなり違和感のある真実ですが。
その私の関わった番組では、実際にその現場での本当の流れや、出来事とはかなりかけ離れている。つまり、過度に脚色されたドラマとなり、完全な創りものとなって放送されているのでした。アナウンサーはあたかも目の前でそのような事実があるように視聴者に伝えていました。放送する側としてはそのように、ドラマ化して良い絵にすることで視聴者の心を捉えることができると思っているのでしょう。しかし、その場にいたいつもは視聴者側である私たち素人の誰もがそれに驚き、テレビへの疑問を語らずにはいられませんでした。
確かに視聴者もテレビの世界が虚構の世界であることは感じているのですが、実感する機会がないのです。だから、テレビに疑問を感じながらもそれを信用せざるを得なくなってしまっています。しかし、テレビの流す虚構の世界を目の当りにした時から、報道番組などですら「創っているんだろうな。」という気持ちを無意識のうちに持ってしまいます。テレビ側が視聴者の心を捉えようとして行っている行為が視聴者を突き放しているように思います。
「先が見えない世の中」そこから如何にして先を見るかを視聴者に伝えるはずのマスコミが現実を直視せずに虚構の世界ばかり求めて、視聴者にも一方的にそれを押しつけています。視聴者は虚構の世界が無意味なものであることに気がついています。




臼倉珠

人々が気づき始めたから。 Gemeinschaft⇒Gesellschaft...認識共有でこのベクトルの向きを逆にしてしまえ!

テレビが面白くないことと現代の閉塞は密接な関わりがあります。
 
 既存の権力者はこれまで、孔子の言う「民は知らしむべからず、依らしむべし。」という言葉のように自分自身の地位を守るために情報を独占し、情報操作を行うことにより人々を無知にする情報発信の方法をとってきました。例えば、臨場感のある映像を交えて誰でも簡単に分かるように分かるような情報発信をして、自分があたかもその場に居合わせたような気にさせたり、あたかも自分が政治に参加しているような気にさせつつ、結局は何もさせないような方法をとることによって人々を彼ら自身の掌の中で動かしていました。
 
 このような方法をとることによって人々は、現実とテレビの情報を混同するようになり、直面する問題に責任を持って取り組む姿勢や、そのために議論を通じて意思決定を行うことができなくなるようになりました。実際、過去を振り返ると私も討論番組は好きでよく見ていましたが、それだけで自分があたかも議論に参加し、政治に関与している気分に浸っていました。しかし近年、そのような自分たちがテレビという情報提供システムは全く議論に関わることができていないことを悟り始めました。そして、テレビが面白くないと感じ始めるようになりました。

 現代の閉塞の根源はここにあります。つまり、テレビがその途中経過にある情報操作という過程を通過するためにそれが自分の日常や認識とかけ離れたものになっているにも関わらず、その疑問を提示し、“議論にかける”ことができないのです。この「自分も行動を起こしたいのに行動を起こす方法がテレビにはない。」どうすることもできない不満を人々は持ち始め、結果、閉塞するに至ったのです。

 このような閉塞の解決の糸口となっているのがインターネットです。インターネットによって、これまでの自分の認識や疑問を“議論にかける”ということが出来るようになりました。その議論の方向が正しいものであるかは別問題として、“議論にかける”というプロセスを経ることによって始めて認識を共有することが出来るのです。

 認識を共有するための議論に対する人々の欲求は日々高まっています。その証拠がこの『るいネット』に参加されている方々であったり、全く知らない人から送られてくる反戦に参加するよう呼びかけるチェーンメールの増加(これはウイルスのこともあって怖いのですが)であるのだと思います。まだインターネットはテレビに比べて歴史も浅いので通信速度やセーフティー面などの問題もありますが、将来、認識共有の議論がより活発に全世界的に行われるようになれば私権統合は完全に姿を消し、全世界的ゲマインシャフトのような新しい社会になっていくのではないでしょうか。




江本吉隆

千尋とカオナシ

私が面白さを感じる瞬間。絵を描いたり、何かを創り出そうとしているとき。本を読んでいるとき、時間を忘れて読み続けてしまうとき。友達や家族との終わりのない話し合い、口論、談笑。新しい場所、自分の知らない土地に出向く旅行。未経験事項を経験済み事項に変えていく瞬間。授業の課題をやっつける(やり遂げる)時間。恋愛。
私の生活には多くの「面白さを感じる瞬間、面白さを確認する瞬間」がある。面白さ。それは私の生活を活気づけ、それに刺激を与えるものである。または面白さが私を奮い立たせたり、前向きに明るく進んでいくきっかけを与えてくれたりする。
しかしここ最近、テレビが私の生活を活気づけたことはない。私を前向きにしたことも、刺激を与えてくれたこともない。面白くないのだ。全然。
私が面白さを感じる行為と、「テレビをみる」という行為とを比べながらなぜテレビがこうも面白くなくなってしまったかを考察してみたい。
絵を描いたり、モノを作ったり、本を読むという行為に関して共通して言えるのは、主体が完全に私という事実である。私は自分が何を求めているのか、何がしたいのか、どうしてそれがしたいのかがはっきりわかっている。自分が欲することをこなしていく行為は面白い。しかしテレビを見るとき完全な主体は自分ではない。求めているものが返ってくる保障もない。むしろ期待はずれなものが無造作に放たれたりもする。選んで見た番組でも同じことが言える。
友達や家族との時間、旅行、恋愛等行為に関してはキャッチボール的面白さがある。何かが絶対に返ってくる、予想外の反応や予定外のハプニング、それらは生活を刺激的にする。何に関しても、一方通行で反応や成果が返ってこないのは面白くない。テレビは常に一方通行である。ただ情報のシャワーを私たちに浴びせるだけで、私たちの問いかけや欲求に応えてくれることはない。
自分の体感を一般的に考えると次のようなことが言えると思う。まず、私達現代人は「自分が何を求めているか」が比較的はっきりしている。だから、何がしたいかも何が知りたいかも、何が欲しいかも明確なのだ。そしてそれを「どうやって」得るかを知っている。貧困が消滅し、物質的にも精神的飽和状態にある現代では足りないものを見つける方が難しい。だから、むやみやたらにむやみやたらな情報を放っても誰も「欲する」ことはないのだと思う。映画「千と千尋の神隠し」で、千尋が巨大化したカオナシの押し付ける金を無表情に「いらない、あたしが欲しいものあなたには絶対出せない」と言い放つ場面がある。今日のテレビと私達はまさにあの状態なのではないだろうか。
人間関係において一方通行で反応や成果が返ってこないのは、「心」がない繋がり、付き合いであるといえる。「心に伝わるもの」は大切である。しかしテレビからは心に伝わるものはない。淡々と告げられるニュース、バラエティーに富んでないバラエティー番組、お決まりの音楽番組。心が揺さぶられたり、心が躍ることもない、極端に言うと「無」の状態に陥ってしまう。
これら大きくふたつの理由でかつては文明の利器であったテレビが、今では虚無・混沌状態をもたらす文明の危機と化している。というのは言い過ぎだろうか。

 




匿名希望

面白くないのは当たり前

私が小さい頃テレビはすごくおもしろかった。毎日毎日テレビにかじりついていたように思う。なのに今はどうだろうか。見ない日のほうが多いかもしれない。これには自分自身の要因と、テレビの要因が考えられる。
 自分自身の要因とは、自分が成長したことによって興味がテレビ以外の違うことに移ったことである。成長するにつれて、テレビより面白いものを発見する。私ならテレビを見るのならテニスをしてたいと思う。いつのまにかテレビを見ることが有意義な時間とは思わなくなるのだ。また、時間が無くなったことも関係しているだろう。学校や、バイト、趣味で時間がなくなり無意識にテレビから離れてしまった。そのときにふと、テレビがなくても支障がない自分に気付く。そしてテレビに必要性がないことを確認し、テレビが面白くなくなった瞬間に出会う。

 次に、テレビの要因は、テレビの流す内容に問題があるように思える。視聴率アップのやらせ番組が多く、うんざりされられることが多い。またワイドショーなどの報道には目に余るものがあり、事件の分析・現場検証・犯人像の絞込みと、もはやマスコミがやるべきことでないものにまで手を出している。そして時間が経てば何もなかったかのように忘れられる。そのようなテレビに誰が面白みを感じるだろうか。刺激があればおもしろいかもしれない。しかしテレビはその刺激を勘違いしているのではないだろうか。大人になるにつれてテレビの本質が見えてきて面白いと感じなくなるのは普通のことなのである。

 最後に私は、テレビが面白くないと感じるということはとても人間的なことだと感じた。テレビより面白いことがある方が素晴らしい。人間だからこそテレビという一方的な物よりも一緒に笑えたり、意見を言い合えたりする人間のほうが面白いに決まっているのだ。



小西陽子

傍観者マスコミも、大勢が気付きを得ることができたら変われるかも。

私はちょっと前まで社会の傍観者として、マスコミに憧れを持っていました。
 以前、マスコミ関係の人と話をしていて、カメラマンについての話題になり、「いいなあ。カメラマンかあ。かっこいいなあ。」ともらしたところ、「いやぁ。あんたにはきついかもよ。」という答えが返ってきました。なぜか。

 ある日ある場所で大変な被害の大火事がおこり、多くのテレビ局の取材班が先を争って現場に向かいました。そして次の日カメラマンたちは、他社ニュースの火事の映像と自分たちの火事の映像を見て誇らしげに言うのだそうです。「俺のが一番炎がよくまわっているのがよく撮れてる。」

 わたしはここで“火事”を“社会”におきかえるとマスコミの現在の社会におけるありかたが明確になると思いました。傍観者というあり方。傍観者にならざるを得ないというあり方。

 でもマスコミを形成する人々も普通の人間です。自分たちなりに正しいと信じる考えをもっている。働き者で、悩んだ末に得た信念や、仕事に対する誇りを持っている。
 しかし「自分たちなりに」というのが少し問題なのだと思います。
 マスコミを形成する人々には、「自分が夢中になれればそれでいい」という人が確かに多い気がします。その認識はマスコミ内でつくられてきたもので絶対の風潮であり(その風潮がテレビを通して発信され、人々も染める)、それが傍観者としての立場をゆるぎないものにしているのだと思います。

 先の話のカメラマンも、仕事についたはじめの頃はものすごく葛藤したと思います。でもそのことを相談するのは同じマスコミ内の人々とだけです。認識を形成するのも同じマスコミ内の人です。だいたいは先輩カメラマンの「つらいだろうけれど、それがカメラの仕事だから、涙をのんで割り切ってやっていかなきゃ」と言う答えに都合のよさを無意識に感じ取り、そこで思考はストップしてしまうでしょう。

 でもそのこと気付くきっかけ、場があれば、傍観者としての立場を根底から変えられる可能性は出てこないでしょうか。どのような形でかはまだイメージできず、理想論に過ぎないかもしれませんが、もしかしたらそこからテレビのあり方も変化していくことができる小さな可能性が生まれるかもしれないと思います。

 本当にテレビのあり方を変えるなら、単に非難するだけでなくマスコミにも呼びかけて、認識のぶつけ合いをする場をどうにかして設けなくてはならないのではと考えます。



武田瑞紀

テレビからわかる変化の時

私の友人にも「テレビは面白くない」といっている人たちは多い。しかし、その友人たちの家に行くとなぜかテレビのスイッチはオンになっていてなんとなく番組をみて、時には話のネタになってくれたりする。

 「面白くない」と思いながらもテレビを見てしまう私たちの幼少の頃というのは、すでに高度成長を終え、「三種の神器」とはやされた3つはほぼどの家庭にも普及してしまった時期であり、誰もがテレビを毎日飽きることなく視聴していた。

 私が小学生の頃、わけあってテレビが家にない期間が1ヶ月程あった。その時期は学校に行って、友達との話題に入れないという寂しい思い出がある。そんな世代の人間が簡単に、かつ完全にテレビ離れができるとは思えない。

 その証拠に「テレビは面白くない」と思いつつもテレビを見てしまっている自分がいないだろうか?丸山さんのおっしゃる「テレビのリアリティーの欠如」、他の投稿者たちのおっしゃる「物理的価値しかない」という現状を皆、感じとっているはずだ。しかし、実行に移せていない。

 テレビばなれする、ということはまさに「旧観念からの脱出」と私は認識しているが、皆が愛想を尽かし始めているということは今が「旧観念」から「新観念」への移行時期にあるということだろう。根底からの意識の変化というものは10年や20年という短いスパンのうちで果たされるものではなくもっと長いスパンが必要で、「新観念」が形成され皆に浸透するにはまだまだ時間が必要だ。そして、そのためには「発信階級」によって観念が変化するのではなく、私達「市民」「社会形成員」が変化させなければならない。

 去年末から私は大学の友人と人間が集える「場」を作ろうとしている。知らない人間同士が集い、自分たちの考えを交換し、認識を深めていく。そんな「場」がもっと色々な所にできれば私達が生きる社会はもっと面白くなるだろう、という思いから今のところ2回開催した。今はまだ小さく発展途上だが、こういった「場」はこれから必ず必要になってくるだろう。

 この「るいネット」や「認識交流会」、私達の作ろうとする「場」のような動きが「新観念」を形成し、「社会」を変えていくだろう。




山下泰三

テレビの限界

 我々にとってテレビはものである。何か色のついた絵の映る箱である。面白くなければボタン一つで絵が変わる、絵を消す事が出来る。都合のいい時に見て、都合の悪いときには見ない。簡単すぎる、便利すぎる箱である。何もかもが自分自身の思うままだ。しかし実際、我々の生活はもっと複雑でほとんどのことが自分自身の思うようにならない。だからこそ試行錯誤を繰り返し状況を打開しよう、順応しようと答えを見つけるために考える。しかし、テレビの前で試行錯誤する人はまずいない。テレビの前でこの状況どう打開すればいいかと考える人などまずいない。ボタン一つ押せばいいのだから。ボタン一つで絵は自由自在だ。自分の気に入る絵になるまでボタンを押し続ければいい。完全に思考が停止している。我々はテレビの前では何も考えていないのである。そんなものを面白いと捉えることにこそ無理がある。

 ではテレビの前で考えれば面白くなるのか?それもまた違うと思う。テレビを見ているときに主に使うものは目と耳だ。たぶんテレビを見ていて面白いと思うことは、目と耳を通して頭が面白いと思うことだ。しかし、実際の生活で我々は目と耳とさらなる感覚、つまり五感を通して暮らしている。五感を通して得たことを事実と捉えている。頭だけでなく身体を通して現実を事実として認識している。そのためテレビを見る際の頭だけで認識する面白さには限界がある。そのため頭だけで感じる面白さに物足りなさを感じ、頭と身体を通して得られる面白さに興味を持つことは当然のことだと考える。



折目裕

テレビは問題児に似ている

 みなさんもこれまでの人生の中で俗に「問題児」と呼ばれる人に出会った事があるでしょう。彼らの主な特徴は人の意見を聞かない、自分の事しか考えていない、自分の言った事に責任を持たない、よく喧嘩をする、といったところです。もちろんその言動が人の役に立つ事もあります。

 テレビが面白くない理由はこの問題児の特徴と似ている部分があると思います。二つを比較してみます。
テレビは一方的な見解で意見や情報を発信するだけである(人の意見を聞かない)、視聴者の意見は聞き流す程度で基本的には視聴率重視である(自分の事しか考えていない)、何か新しい話題があるとコロコロその話題に乗り移り、その度に意見は言いっ放しである(自分の意見に責任を持たない)、他局との競争しか考えていない(よく喧嘩する)。(( )内は問題児の特徴)

 現在、あちらこちらに情報は溢れていて私達の意識はとても高いところにあると思います。私達が本当に欲しがっているのは、レベルの低いつくりものの茶番劇(ドラマやバラエティ番組)ではなく、今、直面している現実であるのではないでしょうか。もちろんドラマやバラエティ番組が必要ないという気はありません。問題なのは全ての局、全ての番組が安っぽいつくりものであり、私達の欲しがっているものを何一つ与えてくれていないという事です。

 私達が欲しがっている現実とは何か?それは今、行われている事や今、そこにあるものを正確に知る事、自分の考えに対する第三者の答えです。当たり前の事のようですがこれらがなされていないからこそ嘘・つくりものであるテレビを楽しめなくなっているのではないでしょうか。現実が満たされていなければ自分自身が満たされることはないのです。

 問題児は先生やクラスのみんなの力で更正させることができます。テレビもきっと更正する=面白くすることが出来るでしょう。いや、出来るはずです。しっかりと現実を認識すれば・・・。今、テレビは面白くありませんが、テレビはないと困ります。私達一人一人でこの問題児を更正させていきませんか?



熊谷貴之

テレビの匿名性

テレビがつまらない理由の一つは、匿名性にあると感じます。テレビから発信される情報は多くの受信者の目に留まることとテレビ局の視聴率競争のため、受信者に不快感を与えない当り障りのないものでなければならない。その背景にあるのは、その対象がある程度絞られているならば表現においても特定することができるかも知れませんが、対象がどんな人かわからない匿名であることです。つまり、テレビは誰でも気軽に見ることができる、しかしその簡易さがテレビの長所であり短所になっている。初対面の相手にいきなり失礼なことを言えないことや、大抵人と話をする際には相手を見て相手との距離感や相手の意向を読みながら話す内容を決めるのに対し、テレビ側にとってその対象となる受信者との距離間や意向が量れないことが受信者に響かない大きな理由だと感じます。

例えば、世の中が混沌とし多くの悲劇的なことが現実には起こっている。しかし、テレビから出てくる情報は事実に対して1枚ないし2、3枚のオブラートを重ねた情報になっている、さらには放送されないものもあるでしょう。この表現は、残酷すぎる過激すぎるといった理由で万人に対する当り障りのない言葉や映像を選んでいる。しかし、現実はそんなに奇麗ごとばかりではないことはみんな周知のことであり、この発信される情報のリアリティのなさが発信者に対する不信感を感じさせる要因となっています。これは、身近な人間関係にも言えます。当り障りのない表現をする人は、誰からも嫌われないけれども誰からも好かれないものです。それは、その人が発する言葉が綺麗過ぎてリアルに感じることができずつまらないからだと思います。

私も昔は良くテレビを見ていました。大好きな正義のヒーローの番組を毎週欠かさず見ていました。しかし、大人になり正義のヒーローは現実にはいないことがわかりテレビがつまらなくなりました。さらに大人になりテレビ自体の言っていることが現実ではないことがわかりテレビをあまり見なくなりました。実際、我々は現実に生きており、知りたいのは事実である現実の情報です。だから匿名を相手に当り障りのない情報で本音そして事実を話さないテレビをつまらなく感じるのは当然であると考えます。




折目裕

ヴァーチャルリアリティの限界


「近くて遠い」これがテレビに関する私の率直な感想である。
確かにテレビから発信される様々な情報と似たことがこの現実世界にも起きているようである。しかし何かピンと来ない。それは一体なぜなのだろうか?

最近のテレビ番組には一般人の参加が目立つ。しかし本来ならば等身大の私たちであるはずの一般人たちの様子がちょっとおかしい。簡単に言うと制作側の意図通りに発言し、リアクションをとっているのである。それが編集のチカラなのかヤラセなのかは定かではない。(どちらもというのが正しいのだが・・・)
つまり、あくまで発信側の頭の中だけで造られた仮想現実の世界を映像化し、我々に提供してくれているのがテレビなのである。ある意味では精巧な贋作とも言えるのかもしれない。とはいえ所詮は偽物である。

この次元のずれた情報をいかに向こう側が面白おかしく(あるいは興味深く)放送してくれても私たちはどうキャッチしてよいのかわからない。むしろキャッチしたいとも思わない。
こういったスタンスでの放送でも10~20年前ならばまだ受け入れられていた。なぜなら私たち自身が現実にそれなりの満足感を得ていたからである。だからこそ今よりもっと非現実的だったテレビを純然たる娯楽として楽しめたのだ。

しかし時代は変わり、誰もが現実の社会に不全感を抱いている今の状況では、現実感を喪失している情報にいちいち構っていられないのである。そんな事にかける時間があるのなら一人でも多くの人と腹を割って話をした方が、真にお互いを分かり合えるし、充実もする。正に“共認”ができるのである。

“みんな”が新しい答えを探し始めようとしてる今、変化出来ないテレビに人々が愛想を尽かし、離れていくのは当然のことかもしれない。



丸山桂

四角い箱

連日どこかの局で放送される高額所得者の優雅な生活。
そんな映像を見て何が楽しい?
我々が血のにじむ思いで稼いだ税金を食い物にしている政治家。
そんな人のたわ言を聞いて何の価値がある?

四角い箱のボタンを押すと、否がおうにも自然に耳に入ってきてしまう彼らの考え。一方的に我々には理解出来ない旧観念を話し続ける。
我々の話を聞こうとはせずに。語り合おうとはせずに。
こちら側の世界も知らずに。
打っても響かないものに、関心は薄れていく。

そこはもう彼らの作り上げた四角い箱の向こうに広がる別の世界。
理解不能な彼らの話す言葉は、もはや異国の言語でしかない。
面白味も何にもない。

ただの四角い箱はもう要らない。



稲岡恵子

テレビには物理的価値しかなかった

 テレビは誕生したころ、見る側にとって刺激があるものだったと思います。それまで音(聴覚)でしか受け取れなかったものが映像(視覚)で受け取ることができる様になったのですから。だから昔は面白かった。というより興味をもっていた。刺激を受けた。しかし、今となっては日常の生活において当たり前にあるもの。つけていても見ないことすらあるものになっています。
テレビから流れる情報は、情報としての力をもっていないのですからそうなってしまっても当然かもしれません。ニュースですら、限られた時間で、限られた範囲で、限られた予算で(限定だらけですね)起こったことを淡々と報じているものです。しかも内容は暗い現代を伝えるものがほとんどです。ドキュメント番組も限られた予算の中で視聴率を気にした、私たちとは違う古い固定観念をもった人間が作ったものなのです。ドラマにも同じことが言えます。しかも思ったことを伝えたくても伝えることができず、独り言になってしまう。満足感を得ることができるはずがありません。

 先日、放送作家の方とお話する機会がありました。限られた予算で2年後放送されるものを作るとおしゃってました。そして、それは昔も同じだったと。(昔はまだ作る側もテレビというものに刺激を受け意欲的に作っていたと思うが、今となってはどうだろう。)つまり、昔から私たちが満足し得ないものを一方的に放送していたという事になります。やはり、昔はテレビという物体に興味を持っていただけではないでしょうか。つまりは、物理的価値がなくなったテレビが、私たちが求めるもの、興味が持てるものを放送しないため、面白くないという意識が強くなったのでしょう。

 先日、異世代交流会に参加させていただきました。年齢、性別、職業など共通点の少ない人間が語り合う。反応のぶつかり合いが行われる。おもしろかったし、反応を返せたことに満足感を得ました。(新しい認識を見つけるには、これを何度も繰り返さないといけないと思いましたが。)しかし、テレビにはないものが確実にそこにはありました。

 私たちが面白いと感じるものは、言い換えれば刺激があるものだと思います。テレビでは刺激を受けません。刺激を与え合い、反応し合う場をもつ事で人は新しいものを得ます。さらに繰り返すことで新しく得たものが大きく確かなものになっていくと思います。そして、それこそ私たちが面白いと思う場であり、求めているものであり、現在の閉塞からの突破口である新しい認識を得る場だと思います。




屋崎てる美

テレビのベクトル みんなのベクトル

テレビというのは、麻薬に例えられるものではないか。もっと身近な例でいえば、煙草やアルコールに置きかえることができるかもしれない。ある人間がコカインやマリファナなどの薬物に手を出す動機は大抵、「なんとなく」とか「友達にすすめられたから、仕方なく」とかであろう。逆に、明確な意思や断固とした計画性を持って「さぁ、ヤクをやろう」という人間は、私のまわりでは聞いたことがない。
そしてそういった心境は、テレビを見るケースにも応用できる、と私は考える。たとえば、テレビを見ようと頭の中で思っていなくても、気がついたら画面の前で2時間半、という体験を多くの人が一度でもしたことがあると思う。それも先に述べたような、「なんとなく」の無意識的・非主体的な心理が作用しているからではないだろうか。つまり麻薬と同じような性質が、テレビにはそなわっているのではないかということだ。


日本において貧困が消え、私権統合の終焉が到来して以来、社会における人々の志向は、徐々に且つ劇的に変わっている。今、人々は集団から脱し、人間社会において能動的・主体的に行動するようになり、そこでは「現実」「真実」を常に探し、求めつづけている。これら「現実」や「真実」の追究・認識・再認識は、私たちに楽しさ、面白みなどをストレートに与えてくれる。だがそのためには、まず社会というものを直視しなければならない。幻や嘘に翻弄されてしまっていては、いつまでたっても現実認識が得られず、社会において現実的な興味深さを持つことはまず不可能である。

しかし考えてみると、メディアが放つ情報というのは幻であり、虚であり、一種の夢のようなものである。ニュースが伝える情報はわざと人々の目を引くように「加工」され、バラエティー番組は視聴者を離さないように次々と嘘を捏造する。フラフラした人間がこういったメディアの罠にはまる事態が、しばしば見受けられる。こういった意味でテレビというのは、やはり麻薬の夢幻的な効用と同じ心理的役割を果たすと捉えることができる。
また、このような幻・虚は、「傍観者」たちが放つ旧観念とも、とうぜん結びついてくる。

それに対し、私たちは今、「事実がどこにあるのか」「真実とは何か」に飢えている。他者と交流し、考えをぶつけ合い、認識を深く語りあい、新しい認識共有を生み出すことを強く求めているのである。そういった社会において、テレビやマスコミが放つ「虚」はもはや興味を惹かれない、意味をなさない、誰も必要としない、いわば御祓い箱なのである。

テレビがなぜ面白くないのか。
テレビから伝えられる情報や解釈が「虚」であり、私たちが求める情報や認識が「真実」であり私たちはそこに充足を見出すのだから、両者の間に深い溝が存在していることは明らかなのである。それはテレビ・メディアの志向と、みんなの志向、つまり「ベクトル」がまったく違うという言葉で表すこともできる。テレビは「視聴率獲得」「視聴者獲得」いう志向をもち、一方私たちは「事実の認識・獲得」という志向をもっている。したがって、テレビの情報には、私たちが期待しているもの、求めているもの、認識を得ようと思わせる「素材」がでてこない。ここにテレビが面白くない、大きな理由があるのではないだろうか。



匿名希望 

新しい認識の必要性

確かに、最近テレビが面白くないと感じます。(事実、私はテレビをあまり見ません)マスコミが視聴率獲得の為に発信する情報、評論家などの発信者階級が撒き散らす的を得ない旧観念、それを受けることによって起こる受信者の発信欲求、人々の意識の変化。様々な要因が考えられます。

 しかし、私はテレビ及びマスコミはあまり変わっていないと感じています。例えば、過去においてもマスコミは視聴率獲得を目的としていました。そして、ニュースは現実を映し出す発信媒体として、少なからず新しい認識を得るために役に立っていると感じています。(もちろん、役に立たない番組も数多くあり、過去に比べ多くなってきたと感じていますが)

 では、なぜテレビは面白くないのでしょうか?それは、現代社会の全面的な閉塞状態にあると私は思います。不況が続く現代社会において、また、社会不全が蔓延する現代社会において、マスコミは暗い情報を発信しがちになり、発信階級はそれをただ否定するだけ。解決策が見えない。答えがほしい。私には、マスコミや発信階級も新しい認識を必要としているように感じられるのです。そして、答えが見えないまま情報を発信し続けている今のテレビは、活力を失い、魅力さえも失ってしまっているのだと思います。
 
 過去を見ても、今現在ほど新しい認識が求められている時代は無いと思います。新しい認識は見知らぬ人々との交流によって少しずつ確立されていくでしょう。実際、テレビが面白くないことによって、こんなにも多くの人々が意見を出し合い、それを通して新しい発見ができる。新しい認識として広がっていく。前に進みだした人々は共認し合い、さらに前へと進んでいく。それが人々の活力源となると思います。



匿名希望 

テレビはつまらないサッカーゲーム

 私もテレビを見ることはある。しかしそれは、なにか新しい情報を得ようとか自分の何かを満たそうとかそういう為ではない。単なる暇つぶしである。
 情報を得るだけなら新聞やインターネットがあるわけだし、自分を満たすだけなら部屋の中でじっとテレビを見るよりも外に出て体を動かしたり、友達と話したりした方がよっぽど満足感が得られる。
 テレビが暇つぶしの道具である証拠に、昨日見た番組の内容さえ覚えていないことなどはざらである。しかも最近ではその暇つぶしの道具にさえならなくなってきているように感じる。
 
 なぜ、テレビはこれほどにつまらないものなのであろうか?
 
 それは結局、テレビというものは発信階級の人々が実際の情報を視聴率のために自分達のいいように色をつけ視聴者にただ送りつけているだけだからである。
 いいかえれば、「テレビを見るということ」=「見えない相手から蹴られてくる本物かどうかも分からないボールをだだひたすら受け止めているゴールキーパー役になるということ」なのである。
 
 だれがそんなことを面白いと思うだろうか?
 
 今世の中の人々が求めていることは「新しい観念の共認」なのである。それは決して旧観念に埋もれた情報発信階級の人々によって生み出されるものなどではない。実際の社会の中で汗水流して働き、事実を知る「ふつうの人々」こそが生み出すことができるものなのである。
 
 実際私は、このサイトに投稿することは初めてなのだが、私が書いたことや、本当にいいたいことをみんなが見てくれて、それについていろいろなことを感じて、感じたことや新たな自分の意見を書いてくれると思うと、本当にわくわくしてくるし、こういうことから本当の『共認』というものが生まれてくるのだと実感させられる。
 
 「認識形成サイト」では、意味の分からないゴールキーパー役になってただひたすらボールを受け止めるのではなく、みんなが中心選手となって事実というボールを蹴り合い、楽しいサッカーができるだろうと思う。 



松嶋伸悟

テレビからは得られない充足感

テレビが面白くなくなったのはなぜか?
私達の価値観や趣向が変化したことにより、テレビから与えられる情報をただ黙って受け取っている立場では満たされなくなってきたというのも事実だろう。しかし、それに伴った携帯電話やインターネットの急速な普及というのも原因の一つではないだろうか?

近年、携帯電話は大抵の人が所有し、持ち歩いている。仕事用、プライベートでの連絡用、用途は様々だろうが個人専用の通信機であることには変わりない。インターネットも同じ様な側面を持っている。

二つに共通して挙げられるのは『メール』、『チャット』機能だ。誰でも一度は経験したことがあるだろうが、それらは電話に比べ、比較的時間や料金を気にせず気軽にやり取りできる。また手紙などと違い相手への発信に対しての返答が早い。そしていわゆる『出会い系サイト』と呼ばれている仲間募集サイトなどを通じ、匿名で知らない人との交流を図ることもできる。

なぜメールやチャットを利用する人が多いのか?もちろん便利であるというのも確かだが、自分が発信したことに対してすぐに反応が得られるからで、当事者の気分が味わえるからではないのか?それはテレビを見ていることでは味わえない感覚だ。

発信階級からの現実味のない話を黙って聞いているよりも、今、自分と同じ現実で生活している人達とやり取りを交わしている方が楽しい、満たされている…そう感じてきたからテレビが面白く感じなくなったのではないだろうか?



伊藤亜希子

酒を片手に“新しい認識”の扉を開く

朝早くから家を出る。その日一日仕事や勉強、遊びを終え、疲れて夜遅く家に帰ってくる。そして部屋着に着替え、酒を片手に“テレビ”の電源を入れる。ブラウン管には面白いとはとても言い難い、内容のない映像が流れる。しかし、それを見て大笑いする自分がいる。

これこそが、テレビが面白くなくなった現代の状況ではないだろうか?人々はテレビに何も求めなくなった。むしろ、何も求めていないから笑うのではないだろうか。テレビは疲れ果てた自分の体を癒す時のような、いわば無機質な存在である。そこに面白さは共存していない。

しかし今、テレビに代わる情報提供システムとして、認識形成サイトや認識交流会がある。これの利点は、実際に人と触れ合うことができるところである。そこに芸能人などといったレッテルはいらない。一人間が情報を与える、与えられる環境が成り立つ。それを人は求めているのだ。しかし、今のテレビにその役割は果たせていない。いや、おそらく果たすことはできないだろう。

朝早くから家を出る。その日一日仕事や勉強、遊びを終え、疲れて夜遅く家に帰ってくる。そして部屋着に着替え、酒を片手に“新しい認識”の扉を開く。そこには人と人との交流が無限に広がっている。そして、それを見て大笑いする自分がいる。

そんな世の中、面白くないですか?
 




槇野悠二