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テレビは病原菌

テレビが面白くない理由を考える前に、テレビはなぜ必要なのかとうい疑問が湧いてきた。私はテレビは様々な情報を得るためのものだと考えてきたけれども、実際テレビの情報が正確どうかなのかどうか、私が今必要としている情報だけを得ることができるのか、と考えるとテレビを見るよりも新聞やインターネットだけで十分なわけであって、テレビの必要性や信憑性がなくなっていることがテレビが面白くない理由になってきているのではないかと思う。

>届けられるニュースもマスコミという機関を媒介させることで、我々に届くニュースにはマスコミ自体の先入観や余計な尾鰭までが付いてきてしまう。(38083)

テレビからの情報は私たちに一方通行で、反論することもできないし、第一信じられる情報なのかどうかもわからない。マスコミからの情報は単なる社会の傍観者が実際の社会では全く利用価値のない旧観念を私たちに押し付けたり、社会の問題を提示するだけで、考えるのは極わずかな専門家に任せたままで、一向に自ら解決する手段を見つけようとしていない。現実の当事者ではなく傍観者に過ぎないのである。そして私たちは、その問題が全く解決されていないのにも関わらず、問題提議を聞くだけで、ある種の知識を得た気になってしまう。社会の問題を考え、意見を交換する場所がないのが現状である。

>つまりマスコミは単なる現実の傍観者だけであるばかりではなく、もっと性質の悪いことに現実の一部を切り取って、それを面白おかしく針小棒大に語る三文小説脚色家なのだ。(38441)

実際にはみんなが自分の意見や考えを胸に秘めているのに、テレビが流す情報によって、自分で考えるという能力が低下し、その情報で満たされた気になってしまう。マスコミが垂れ流す旧観念の情報を信じきるがゆえに社会の問題への問題意識がなくなるいっぽうで、新しい知識や認識を見つけようとする意欲そのものを失ってしまうのである。だから現在自分の中に存在する知識や認識でしか生きていけなくなってしまう。テレビの情報が人間の考えることの幅を狭め、生きて行動する意欲までもを失くしてしまうのである。

人間は様々な情報を自分で考え、同じ実感を持つ仲間と共に共認を広げることでその情報が正確かどうか、自分に必要な事象なのかどうかを見極め、新しい認識を得ようとする必要がある。このるいネットこそ異なる年代の人々と意見を交わし、新しい知識や認識を得られる場である。自分の考えに縛られずにみんなの意見に耳を傾け、常に新しいより良い認識を得ようとすることこそが人間のあるべき姿なのである。だから根も葉もないない噂ばかり流し自分たちでは何もしないマスコミが放送するテレビは面白くないのだ、むしろテレビは人間が考えること麻痺させる一種の病原菌なのである。



前田真一朗
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人が求めるもの

 テレビとは「映像を垂れ流す暇つぶしの箱」であると思います。テレビの中ではいつも、芸能人がそれぞれのキャラクターを演じ、バラエティ番組で上辺だけの笑いを提供し、ニュース番組では無表情なロボットの様なアナウンサーが新聞に載っているニュースをそのまま読み上げている。そのようなテレビでは、もはや私たちは完全に充たされない。
少なくとも私は、テレビが作りだした一方的な情報を受け取ることは全く無意味であると思う。テレビは、現実に起こっている事を包み隠したり、それを違った情報に摩り替えて流している、つまり、現実逃避を促し何の刺激もない薄っぺらい情報を垂れ流しているからだ。そういう垂れ流しは私たちの観念をますます閉鎖的なものにしていく。現代の人々は、そういった閉鎖された単調な集団の中から抜け出し、もっと自分を充たしてくれるものを探し求めている。そのためテレビは、単に時間を消費する箱にすぎなくなるのである。

 私は、友人に「私とあんたは全然違う人間やな。」と言われたことがある。その言葉は全く嫌味に響くことなく、むしろ私は新しい自分を発見することができた。こうして、学校やバイト先で様々な人と接することで、今まで知らなかった世界を知ったり、今まで出会ったことのない様な考えを持った人に出会ったり、意見を求められたりする事で自分の観念を広げることができた。また相手にも影響を与えることもできたのだ。そうしたとき、私はその時間を何よりも楽しいと思ったし、何よりも大切だと思った。人は10人いれば10通りの考えを持っているし、10個の個性がある。人との出会いはお互いが自分自身を成長させることにもつながるとも思う。

 このように、人は生身の人間と触れ合い、解かり合い、刺激を受け合うことで、失いかけていた活力を取り戻すことにつながるのではないだろうか。そして、現代の人々はそれを求めているように思う。

 テレビは情報を流すが、このような熱い感情を含んだ分厚い情報を流すことはできない。だから魅力を感じることがない。大量に物や情報があふれている今日だが、やはり人が一番魅力を感じるのは「人」、人が求めるのも「人」だと思う。



上下亜希子

テレビの魔法を解く薬

自分の五感でもって、まさに「体」感すること。
自分が体感することによってしか得られない実感で自分を満たすこと。
これらの大切さ、面白さを私は知っています。
きっとここに来られている方々はみんな知っていると思います。
体感、実感はまさに現実。現実を直視するということと言えます。
そして今私たちが必要とし、求めている「共認」は、体感、実感を通じてでしか得られないものでしょう。
自分が体感したり、実感を得るためには、自分の頭を使って考えること、自分の体を動かすことを怠ってはいけない。
物事に一生懸命取り組む姿勢、自分自身をちゃんと見つめる姿勢、人と本音をぶつけ合いコミュニケーションしようとする姿勢・・・
こうした姿勢をとることを怠ってはいけないということです。
しかし実際自分の頭で考え、体を動かして行動することはパワーがいることです。
でも体感、実感の大切さ、面白さを知っている人は、体感、実感を通じて得られる充足感を、共認の喜びを知っている人は、それらに突き動かされてしまう、底なしにパワーが湧いてくるものだと思います。

そんな私たちはもはやテレビに魅力を感じないのは当然のことに思います。
テレビは現実ではない。
視聴率のために、利益のために作られた虚です。
テレビを見ていて、テレビの世界を体感することはできない。
ましてや実感、そして共認なんて得られることはないのです。

テレビの怖さ・・・ただ一方的に情報を送り続ける。
その情報に魔法をかけて。
その魔法は人を楽な方へ導き、怠けさせようとする。
人の思考を停止させ、人をテレビに引きとめようとする。
テレビをダラダラ見てしまう人はこの魔法にかかっています。
この魔法にきく薬。
それは、体感であり、実感であり、何よりも、「共認による充足」に他ならない。
そう思います。



阪上雅代

傍観者じゃなく当事者でいたいから

私権時代、ただ与えられることに満足していた、もっといえば、与えられることを望んでいた人々の意識が、大きく変わってきてる。

>私権観念は無効化しつつも、社会や課題や観念を捨象するというマイナス(捨象)面では機能しており、それが社会捨象・課題捨象の充足基調を維持させ続ける(’70・’80年代と同じ)。(24981)

自分さえ良ければ、楽出来れば・・・という私権観念を捨てることで「気付く」現実がある。

>おそらく次代では(むしろ現在すでに)、『みんな不全』⇒『みんな期待』に応えることが、一番の活力源になる。では、現在のみんな不全⇒みんな期待の中身は、何か?それは、出口が見えないということであり、答えが欲しいということだろう。(44391)

これに気付いたら、人それぞれ・・・ではすまなくなる。(48730)
自分たちの頭で状況を捉えたいと思う。(37054)

>誰かが答えを出してくれることを期待しながらテレビを見ていた時代は、もう終わった。(48535)

私たちは、当事者として生きていたい。(48822)
だから今後も、傍観者でいることを強要するテレビは、ますます面白くなくなってゆくに違いない。



西知子

みんなで事実を読み解いていく「力」

>確かに今、人と話す、人と行動する方が充足感は強いと思います。それは、マスコミが現実と乖離した存在に成り下がってしまった結果だと思います。視聴率という魔物の存在がマスコミの世界には絶対的評価軸として存在しており、そのためなら虚が実になる世界です。(48417)

マスコミの先入観で事実をおもしろおかしく作り変えるといった視聴率重視の行為にはみんなうんざりしていると思います。「報道の自由」をかかげ、やりたい放題のマスコミを取り締まる術が存在しないことも問題ではないでしょうか。

>例えば住基ネットの個人番号通知の封筒が透けて見えることを取り上げて、そこの首長は何を考えているのかと言うだけ。他にも「じゃぁ、あんたはそもそも何が問題と考えてるの?」と思うことばかりでした。突つくネタを取り上げては解説や批判をするだけで「言い捨て」以外の何ものでもないと思いました。(37997)

確かにワイドショーや匿名掲示板も誰かを誹謗中傷するだけで、ここには何の解決も生まれてこない。一時期は人々の好奇心を煽り、注目を集めます。しかし、内実の伴わない表面的な情報は何の説得力もなく消えていくでしょう。

マスコミが脚色した情報が氾濫して事実が見えにくくなっているときだからこそ、(一人でなく)みんなで事実を読み解いていく「力」が必要になってくるだろうし、その「力」自体が閉塞した社会変えていく可能性につながっていくと思います。



斎藤浩明

私達は「気付き」始めた

テレビが面白い、と言う人は、私の周りにはいない。彼らに、それでもテレビを見る理由を尋ねると、大多数が「暇だから何となく」と答える。私自身もそうである。私達がテレビから感じるものは、寂しさを紛らわせる効果音レベルのもので、テレビそのものに何かを期待している人なんて、もう存在しないと思う。

テレビと私達の間には、テレビが発信者で、私達が受信者という、揺るぎない関係が存在する。私達はその事に気付かず、いや、気付いているにもかかわらず、それを当然の事と捉え、何の抵抗も持っていなかったように思う。この関係をキャッチボールに譬えるなら、私達は一方的に投げ続けられるボールを、律儀にもキャッチしていたように思う。それがどんな球であっても、受け取ることが私達の義務であるかのように。私達はそんな毎日の中で、「自分もボールを投げたい」「誰かにキャッチしてもらいたい」と思い始める。そう、発信欲望に火がついたのだ。

私は、るいネットの交流会に初めて参加した日、帰りの電車の中から興奮状態で、家に帰ってもなかなか寝付けなかった。相手に期待し、期待されることで得られる充足感・みんなで新しい認識を紡ぎ出していく喜びを交流会でリアルに感じ、その場の臨場感、そして、仲間から受けた多くの刺激で、私の胸の高鳴りが治まることはなかった。私はボールを投げることができ、キャッチしてボールを投げ返してくれる人々に出会った。

その日、寝付けなかった私は、暇つぶしに何気なくテレビをつけた。しかし、何を見たのか全く覚えていない。テレビがどれだけ薄っぺらいものか、私はその日改めて実感した。傍観者ではなく自分が当事者となる充足感・快感を覚えた私にとって、もはやテレビの効果音すら耳に入らなくなったのだ。

こんな私と同じように、人々は今、虚論を展開させる現実離れしたテレビに興味がなくなってきているのではないだろうか。現実を生きる普通の人々と共認しあい、答え=新しい観念を共に紡ぎ出していく楽しさに気付き始めたのだ。私達が今求めているものは、一方的に押し付けられる概念ではなく、新しい認識を皆で作り出すリアルな場なのだと思う。誰かが答えを出してくれることを期待しながらテレビを見ていた時代は、もう終わった。テレビを見ながらウトウトすることはあっても、寝付けないほど興奮するなんてことは絶対にないだろう。



井上緑

子供の頃は面白かった。

子供の頃は見たい番組になると、片時もテレビから離れることなく、かじりついて見ていました。番組が終わると「終わっちゃった、また来週か」と、とても残念に思っていたことを思い出します。中学の始めぐらいまではテレビに夢中でした。今でも当時放送していた番組はよく覚えています。学校の先輩・同級生に聞いても同じような答えが返ってきました。
 私は1980年に生まれたので、私権追求の時代が終わり、社会不全が蔓延しているところにどっぷりつかって生きてきました。それでも子供の頃はテレビに夢中でした。ですからまず、夢中にならなくなったときを見つめてみよう思いました。
 夢中にならなくなったきっかけとして、(テレビの内容に関わらず)他に興味が向いて、テレビを見なくなったことが挙げられると思います。私の場合、中学からクラブ活動を始めました。そして次第にのめり込むようになり、テレビから離れていったと思います。遅かれ早かれ誰もが生活範囲を広げてゆき、そこでの実体験から様々な感情を抱きます。その感情は、テレビを見て抱く感情よりも強い(47957;要約しました)ので、テレビから受ける感情は受身であり、実感ではないと気付いてしまうのだと思います。そしてテレビを「これは現実ではない」と、線を引き、冷めた目で見てしまう。(今のテレビはそれを手助けしているような気がする。) 皮肉にも、人に夢を与える為のテレビが逆に人を現実に引き戻してしまう。さらには、年を重ねるごとに実体験に基づく実感を繰り返し得ていく。その度にテレビとの距離が離れていくような気がします。



関谷啓太郎

子どもも気づいている

>現実の人との会話、人と一緒にすることが今ではもっとも楽しめる。自分が当事者になって、一生懸命に、認識を紡ぎだすことは疲れはするけれども、テレビなどでのんびり、ゆったりと他人を眺めるよりもずっと充実感、満足感がある。(47957)

 確かに今、人と話す、人と行動する方が充足感は強いと思います。それは、マスコミが現実と乖離した存在に成り下がってしまった結果だと思います。視聴率という魔物の存在がマスコミの世界には絶対的評価軸として存在しており、そのためなら虚が実になる世界です。

 「やらせ」などはその最たる例だと思います。そのことが暴かれても、知らぬ存ぜぬ(下請けに責任転嫁する)と通そうとする姿には現在のマスコミには社会を担っていく力がないことを証明しています。こうしたところで制作されてきた番組に面白みがないのも当然と言えます。

 そして、そのことは既に子ども達も感じており、最近会話をしていても以前のようにテレビネタが話の中心になってこなくなりました。理由を聞いてみるとみんな一様に「面白くないから」と答えます。

 何が面白くないのか「以前のようなリアリティーが感じられない」のだと。そこには恐らくマスコミが垂れ流してきた欺瞞報道に子どもながらも胡散臭さを感じてきているからだと思います。

 実際、彼らが楽しいと感じるのは仲間との話であり、仲間との活動(勉強も含めて)だからです。

>社会の傍観者であるマスコミやその背後にいる学者、芸術家が一方的に垂れ流す欺瞞観念こそが私達の思考を囲い込み思考停止させる元凶であり、それとは対極の現実の中に身を置く普通の人々の実感から生まれてくる認識こそが最も現実を的確に捉え、心身共に健全である事は明らかだと思います。(38123)喜田さん

 子どもにも見捨てられ始めたマスコミ、そしてそのことに未だ気づいていないマスコミ人、終焉が近づいているように思います。



琵琶湖

変わったのは私の方

成人式も終わり、正月気分も抜けました。今年の正月、テレビを見る機会は例年と同じなのですが、正直言って殆んど見ませんでした。親戚・知人がやってきても,彼らもテレビを見ていません。話を聞いていると、やはりつまらないと言います。

私はと言うとどんな番組があるのか、どんなことが起こっているのか興味・関心はあるのだけれど、それがテレビで満足させられないように思います。なぜかなと思いつつテレビを消して考えている・・・。

テレビ番組そのものはそんなに変わっていない様子。以前からの変化と言えば、ニュース番組が多くなった、視聴者参加の番組が増えたなどだけれども、これも近頃は頭打ち。パネリストが激論するのも近頃は全然楽しめない。以前はその場に自分を投影して、パネリストと一緒に議論していた気分になれました。

結局、その場に自分を投入することができなくなったのが、テレビを楽しめなくなった原因だと思いました。テレビが変わった、面白くなくなったのではなくて、自分が変わったのが原因なのだと。

自分がリアルにその場に参加することが重要で、だからこそ充実感も味わえる。譬えはちょっと違うかもしれないが、下手くそでもライブの方がCDよりも充実感が味わえるような物かもしれません。自分自身が演奏していれば、それがもっとも充実しているのかもしれません。

現実の人との会話、人と一緒にすることが今ではもっとも楽しめる。自分が当事者になって、一生懸命に、認識を紡ぎだすことは疲れはするけれども、テレビなどでのんびり、ゆったりと他人を眺めるよりもずっと充実感、満足感がある。だからテレビは面白くないのだ、そして、これからも面白くはならないだろうなと思いました。



ふうらいぼう

テレビの一人歩き

私も最近特にテレビが面白くなくなっていると感じている一人です。私なりに理由を検証して見ました。
この事については以前から感じていた事ですが、我々がテレビを見る一つの目的として、情報の収集があります。社会でどんな事が起こっているのか、ところがテレビはその情報に独自の色をつけて我々に送ってきます。そのことがうなづける内容であれば良いのですが、最近では特に違和感を感じます。これは情報をストレートに知りたい者にとっては大きな不全となります。そうなれば、情報収集は新聞で充分という事になります。

次に娯楽としての目的があります。多分娯楽番組の内容は以前とあまり変わっていないんだと思います。変わってきたのは我々視聴者(人々)の意識だと思います。ここまで閉塞した社会において社会不全が顕在化し、テレビの娯楽番組では充足できない処まで来ているのだと思います。

>潜在思念のベクトルが「共認不全」から「社会不全」に転換し、それが顕在化し始めたこと。そして「答え欠乏が」顕在化し始めたこと

テレビという代償充足がそれらと反対のベクトルであるという事が本能的に(危機回避能力が働き)テレビ離れを引き起こしたのではないかと思います。
また、別の見方をすれば、確かにテレビは民衆と共に歩んで来た時代もあったと思いますが、そのおごりを持ったまま民衆意識を読めないまま違う方向を歩いているテレビが、今ではこっけいに思えてなりません。




マー

「つまらない」→「必要ない」へ移行しつつある


>かつては、人々の意識と現実が私権で統合されていた。ままならない私権の現実(私権不全)から離れて片時の充足を得る為に、そのようなものが脚光を浴びていた。<

その通りですね。さらに

>テレビが面白くなくなったという事に加えて、テレビから流れてくるものが話のネタにもならなくなったということも感じました。<47330

>かつては、レコード大賞は?高校野球の優勝校は?芥川賞直木賞は?と聞かれて答えられる人も多かったが、今やそんなことに答えられるのは現実逃避のマニアと言っても過言ではない。<

ということは、おしゃべりと言う最大の解脱共認のネタにならなくなったということです。いづれTVを見る人種は、かつてのオタクと同じように見なされるようになるのではないでしょうか?

番組の内容にもよりますが、(少なくとも芸能ネタのワイドショーやお笑い番組は)もう既に「つまらない」という次元から「必要ない」の次元に移行しつつあるようです。TVにとっては致命的な構造にあるのだと思います。





鈴木龍也 

現実遊離

かつては、レコード大賞は?高校野球の優勝校は?芥川賞直木賞は?と聞かれて答えられる人も多かったが、今やそんなことに答えられるのは現実逃避のマニアと言っても過言ではない。

かつては、人々の意識と現実が私権で統合されていた。ままならない私権の現実(私権不全)から離れて片時の充足を得る為に、そのようなものが脚光を浴びていた。

しかし今は意識と現実の統合軸がずれてきた。意識と現実が遊離していることこそが問題なのに、更に現実から遊離させるようなものには収束できない。

だからテレビは面白くないのだと思う。




石橋直樹

口承文化と演劇の違い

以前、統合板の方で、傍観者を作り出す演劇というシステムについての議論がありました。

ローマの叙事詩のような演劇も、アイヌやアメリカ先住民に代表される口承文化も、同じようにコトバあるいは身振り手振りを交えた演技や踊りによって、ある事象の追体験をするという点では同じですが、根本的にその目的が異なると思います。

前者は、私権統合の一様式としての英雄譚であり、現実の世界の苛烈さとかけ離れた勇者の活躍の物語が、いつ奴隷身分となるかも分からない市民の代償充足の刷毛口として、人々を熱狂させました。

現実に対して、とことん傍観者に堕することこそがより強力な代償充足であり、それは私権時代を通じて必要に応じて市場化され、ますます強化されることになったのです。

当然、不全の源である私権が衰退した現在、場はまさに転換し、現実への関わりへの欠乏-当事者としての-が、演劇システムそのものの衰退へと繋がっていきます。

一方、口承文化といわれるものは、

>先祖や年配者の体験を共有することで、危機状況や
>不測の場面に出会った際の対処法を共有する、とい
>う効用があったのではないかと思われます。
(42827 「口承は、実現回路を形成するまつりの場の様式」北村浩司さん)

>伝承したい中身とは認識そのものであり、常に語る
>ことで実現回路が強化される~そんな印象を強く持ちます。
(42965 「認識ライブは口承文化の復興」田野健さん)

という意見の通り、如何に生きるか、それを如何にリアルに伝えてゆくかという、極めて現実的な作法のひとつであったのではないでしょうか。

むしろ、口承文化をかたくなに堅持しているということは、文字化した場合の価値の固定化・逆の場合は現実からの乖離に陥らないための民族の選択であったことの表れだと思います。

概念の言語化・文字化に代表される、「抽象化」という行為は、常に人としてのより高度な観念機能の産物とされていますが、作為的に概念を歪曲させて錯誤させる目的でこれを用いた場合、これほどたちの悪いものはない、と思います。



渡辺卓郎

「ゲーム脳」

12日(土)の読売新聞の一面に「ゲーム脳」なる言葉を見つけた。どうも、子どもの脳に問題が起こっているらしい。

気になったので、ちょっと調べてみました。

日大の森教授は、アルツハイマーの人の脳波を測定することで脳の研究をしています。脳波の測定器の開発の際の試験で、コンピューターソフト開発者の脳波を計ってみたところ、なんとアルツハイマーの人と同じような波形(β波の値がα波に重なる)になった。最初は機械の故障だと思って、同じ職場で同じ仕事をしている他の人々を計ってみたところ、ことごとく同じ形になったそうです。

「これはひょっとすると、彼らと同様に長時間テレビに向かってゲームをしている人は、みな同じ波形なのではないか、と考えたのです」(森教授)

実際子どもの脳波を計測してみると、幼稚園や小学校低学年のころから週に4~6回、1日2~7時間テレビゲームをやっていたという人は、ほぼ例外なくアルツハイマーの人と同じ脳波の特徴を示しました。

人間の脳はおよそ10歳までの間に完成していきます。この大切な期間に毎日何時間もテレビゲームをやっていると、脳回路が単純化されてしまい、その結果、特定の回路だけが強化され、その他の部分の神経回路を使わなくなるように脳が習慣化されてしまうそうです。

「少なくとも18歳までは、テレビゲームをしないほうがいいでしょう。18歳を過ぎれば、自分の意志でテレビゲームをやめられる状態まで脳が発達します。その意味で、子供の脳に対する親の責任は重大なのです」と森教授は言っています。

(参考:「でじ端会議室」リンク より)

実は、「ゲーム脳」のような特定の神経回路は、他にも単純に同じ動作を繰り返す運動で同様にできるようです。ある動きの約束事ができると、『大脳皮質』がネットワークを形成し、そのコピーを大脳基底核にある『線条体』という部位に格納します。そのコピーを使えば、思考に必要な『前頭前野』という部位を使わずに同じことができる状態になる。それが長時間続けば、記憶を扱う部位である『海馬』を使わない状態になるわけです。単純な動作を繰り返し行うときはそれが有利になるのですが、複雑な思考や判断を必要とすることにはお手上げ状態になります。

しかし「ゲーム脳」、どうも怖いですね。

脳の発達にはさまざまな種類の刺激が必要なのであって、それはTVゲームのようなものでは代替できないということだと思います。やはり子どもは外(できれば自然の中)で仲間と遊ぶのが一番なのではないでしょうか。



tanvool

勝手に「知る権利」を掲げて暴走するマスコミの欺瞞

>しかし、新聞や教科書が言ってることは学者の裏づけや統計などがあり、なんとなく正しいと思ってしまう。
旧観念を全的に否定していないかぎり、知らず知らずの間に影響を受け、幻想観念に支配されてしまう。(38392)

マスコミが取材や報道をする際、その正当性を「報道・表現の自由」という思想に依拠しています。そして、その「報道の自由」を更に正当化しているのが「国民の知る権利」という概念です。この「知る権利」という概念は比較的新しく、憲法学者によって提唱されましたが、現在では人類が普遍的に持っているかのような支配共認となっています。

しかし、考えてみると「知る権利」を強く主張しているのはドグマ的な少数の人であり、普通の人は日々の生活において「知る権利」などを行使する必要などありません。マスコミは国民に頼まれている訳でもないのに、国民全員が望んでいるかのような「知る権利」なる概念を捏造して「報道の自由」を一方的に行使している訳です。

このように、マスコミには「自由」とか「権利」のような旧観念を巧みに操作している欺瞞性を強く感じます。



松井英仁

「解脱」とそのネタとしての「芸能」の行き詰まり

解脱に対する観念化が進んでるように思います。

例えば人を遊びに誘う場合でも、以前は「○○行こ」とか「○○しよ」とか一言で済んだのに、今じゃその気にさせるのに色々説明しなきゃいけなかったり、自分がする場合も、わざわざ尤もらしい理由を付けたりことさら楽しさを強調したり。

単なる発散に過ぎないのに、色々と講釈つけないと、集客力もなく、自分自身嵌れなくなってしまっている。

でも、「楽しけりゃいいじゃん」の世界でややこしいこと・難しいことを言い始めたら、自分で自分の首を絞めるようなもんです。

潜在思念では現実直視の認識収束がどんどん強まっている中で、あくまで現実逃避の解脱に拘るなら、離れていく心を引き止める為には観念で武装するしかありませんが、旧観念を使えば使うほど、人々からは(自分の潜在思念からも)見放されてゆきます。
(>一般的には充足収束⇒本源収束からズレた既成観念は捨象され、潜在思念の本源収束が進んでゆく。18423)
(>今後、代償物にすぎない様な感応観念が新しく登場してくることは、もはや無いだろう。18571)

芸能や解脱は、今やすでに、根本的な自己矛盾に陥っているのではないでしょうか。



西知子

「マスコミ」という現代の「宗教団体」

◆マスコミは何をしているのか?

 マスコミが日々行っているのは、観念を頒布して、人々に共認充足を与えることです。

 では、マスコミが登場する以前に、これと同じ事をしていたのは、何かと言えばそれは宗教です。
 権力支配から脱却できない人々に、超越的な存在への信仰を与えることで、宗教は強力な権力を獲得することに成功しました。

 「自分たちを信じさえすれば、必ずいいことがある」という宗教の論理は、そのまま、マスコミの論理と同じです。

◆「変わらない現実」こそマスコミの存在基盤

 説教師の言うことを聞けば、その場はなんとなく気持ちよくなりますが、現実が何か変わるわけではありません。
 むしろ、現実が充足できなければできないほど、その信仰にのめり込んでいくしかありません。

 マスコミがしているのも同じです。
 「あいつが悪いんだ」と誰かを批判する、「この情報でトクをする」と情報を売りつけることはしますが、実際には何も変わりません。

 逆に言えば、現実が変わらなければ変わらないほど、マスコミにとっては話のネタになります。「変わらない現実」こそ、マスコミの存在基盤なのです。

◆マスコミと同じ事をしゃべっていないか

 自分で何かを変えなければ、マスコミの言うことに耳を傾け、そこからかりそめの充足を得るしかありません。
 宗教団体の信者と同じように、マスコミと同じ事をしゃべって、言われたままに動くしかないのです。

 マスコミが新興宗教を批判するのも、実は自分たちが最大の新興宗教だからこそ、「異端攻撃」が好きなのです。
 人々は、気づかぬうちに、マスコミと同じ事をクチにしています。が、それは洗脳されているということです。 

 マスコミのロボットになるか、自前の認識を作っていくか。
 社会閉塞の現在、最も必要なことは、マスコミ「信仰」から、自分たちで答えを創造する活動へと、転換することではないでしょうか。



阪本剛

『傍観者であること』を専門の職業にしたのがマスコミ

この間のマスコミに関する投稿を読んで、マスコミの存在自体に対する犯罪性を強く感じました。今までのるいネットの議論の中でも言われてきたように、一握りの誰に選ばれたわけでもない専門家が、社会統合を担うのはおかしいってうこと。更に傍観者の立場では、何をしても非現実にしかならないということ。

そしてマスコミは、正にこの両方を備えている構造にあるってことに気が付いた。というか『傍観者』であることを、専門の職業にしてしまっている。これでは、その仕事といったら「傍観者」の大量生産に他ならないって思った。

当然そこから発せられる言葉は、どんなに現実の事件を扱おうが、『ひとごと』以外の何者でもなく、正に傍観者そのもの。そしてそれを見る私たちは、更に二重の傍観者であることになる。以前、演者と観客の話があったけど、正にマスコミ対視聴者も全く同じ構造にあるって思った。

まずこの構造をしっかり認識する事。これが脱マスコミに不可欠だと思う。



森本亜希子

カブキ考③‥続:何故人々はヤクザ者に憧れたのか?

しかし、歌舞伎に対する人々の欠乏は、善悪の明快な物語よりも、もっと複雑で両義的なものを求めていきます。例えば、弁天小僧。博打の金欲しさに泥棒に身をやつしながら、劇的な父子の再会を経て最後は悲劇の切腹を遂げる。ここでは現世における悪であっても、善なるものが内在されているのだという「人に皆内在する良心」が作品のテーマです。男女ものでも離縁を告白して殺される女も実は、相手のことを思っての離縁だったのだというパターン(愛想づかし)が江戸大衆の注目を集めます。

ヤクザもの、白浪もの(泥棒もの)、愛想づかしもの‥。そのいずれもが「社会的悪事でも内面は本源的=人間的」という悲劇物語です。私権の現実を対象化したとたん、とても当事者として私権の現実を生き続ける事は困難であって、如何に知略をこらし私権課題と向き合っても虚しい=本源回路が充足しない。こんなことならさっさとこの私権の現実からドロップアウトしてしまいたい。その方が人間的なのではないか‥そんな人々の現実逃避欠乏を代償充足させるために生み出されたのがカブキという芸能なのです。

何故、人々はヤクザ者に憧れ、泥棒を英雄視したのか。それは私権時代において、私権課題を前にした人々が常にドロップアウト=現実逃避欠乏に苛まれた傍観者であったことの裏返しなのです。「社会的悪事でも内面は本源的=人間的」という芸能が提示する幻想観念はヒューマニズムの倒錯性の結晶であり、本質だといっていいでしょう。「現実において人間らしくあれないけど内面だけの人間性」を美化すること。それが私権時代の芸能の役割だったのです。

>「全てこの世は舞台、人は男も女もみな役者」(「お気に召すまま」シェークスピア)という言葉があるように、彼らが、結局、現実に対して、傍観者でしかなかったからです。 彼らは、人々の目を眩ます技術にこそ長けてきたのであって、だからこそ、市場社会の中で職業として成立することが可能になったのです。35152

近代以降、ゴダールをはじめとする前衛的な芸能作家は革命に急接近していくが、芸能の本質が現実逃避にあることを徹底総括して作品化に向き合った例を私は知りません。かつてはそんなごく僅かな可能性にかけて芸能の探索に余念がなかった。きっと優れた時代性を持った作家がなにか、現実のなぞを解き明かし変革可能性を提示してくれているに違いないと‥。しかし、傍観者/当事者論を手にした今、それは不毛な探訪であったと総括できる。

傍観者/当事者論は私の中に吹き溜まった芸能回路を解体してくれます。それは、芸能の観客=傍観者でありつづけることよりも、むしろ楽しく、可能性のあるプロセスです。芸能回路によって蓋をされていた本源回路の実現可能性への欠乏=当事者欠乏を解き放ち、当事者としてこの認識形成サイトに参加していくこと=皆の役に立つことははるかに現実的で楽しい。



山澤貴志

マスコミと人々の間にあるのは、発信力の差であって、認識力の差ではない

「情報には常にベクトルがかかっている」という、上手い表現を耳にしたことがあります。つまり、メディア情報には方向性と意図がある、ということです。
裏を返せば、「客観的なメディア情報など無い」ということで、マスコミが標榜する公正中立など、原理的に不可能であることを端的に教えてくれる表現です。

今までは、マスコミの正当性と権威性が疑われることは少なかったようですが、インターネットというオルタナティブ・メディアが一般化しつつある以上、マスコミは「極端に声(発信力)の大きい一市民」程度に捉えるのが実態に近いと思います。

マスコミと人々の間にあるのは、発信力の差であって、認識力の差ではない。
であれば、マスコミの認識の全ては、普通の人々のそれと同様に「必要か否か」という価値軸に沿って”認識力”が評価される土俵に引きずり出されるのは必然ではないかと思います。



三宅秀和

敵意識

そういえば、学生の頃ニュースやワイドショーを見て、内容にうんざりするようになってました。なんだかくだらない事を、テレビの中のリポーターは必死になって追いかけていたりして、「何やってんだかなぁ。」って思ってました。そしてまったく興味が無くなってしまいました。

マスコミの過剰さも、ズレも、偽装も、今思うと、その頃もうすでに自分なりに感じ取っていたことにほっとしました。

事実を民間に伝えなければならないマスコミが、小細工をして、もともとは存在しないものを創り上げてしまい、あとから現実がついてくるような、そんな印象を受けます。
身の回りの人々が、テレビに夢中になってたりする姿をみると、
「この人も、偽りにおどらされてるんだなぁ」
なんて、がっかりしてしまうのです。

何が真実か。みんなをそれに向かわなくさせる遠回りな材料が、これほどにも世の中に溢れ、これほどにも中枢として存在していると思うと、なんだか敵意識が湧いてきます。

「こりゃぁ、放ってはおけんな」
と思うばかりです。



河野梨恵

メディア・リテラシー(1)

マスコミの問題性については異議なしで、最終的には不必要と断言できますが、メディア全体を即刻捨象するのも無理があると思われます。ではメディアに対し、当面はどう接していけばよいのか。一つの参考として、菅谷明子氏(主著に「メディア・リテラシー」岩波新書)のメディアに対する見解を紹介します。

NHK国民生活調査によれば、日本人のテレビ視聴時間の平均は一日3.5時間になり(ちなみにある塾の生徒アンケートでは、小学生3.0時間、中学生2,5~2.7時間)、生涯では十年以上をテレビを見て過ごすことになります。そこへ雑誌、映画、ラジオ、インターネットなどを加えれば、普通の人は人生の過半をメディアからの情報受信に充てていると言えます。

実体験よりはるかに多い、これらの情報によって我々は世の中の動きをキャッチし(したと思いこみ)、知らず知らずのうちに価値観の形成、行動の選択をもそれらに依拠してしまっているのです。しかし、メディアが伝える情報の性質や、それが送り出されるプロセスは、ほとんど知られていないのが実態です。そこで筆者は「メディア・リテラシー」の重要性を唱えます。

●メディア・リテラシーとは

「メディアの特性や社会的な意味を理解し、情報を主体的に読み解き、メディアを通して自らの考えを表現し、多様なメディア社会の実現に向けて、メディアと積極的にかかわっていく力」と定義されるメディア・リテラシーは「メディア時代の読み書き能力」とも言えます。

メディア・リテラシーのポイントの一つは、メディアが送り出す情報は現実そのものではなく、『送り手の観点から捉えられたものの見方だ』という点です。客観的と思われるニュースでさえ、送り手による取捨選択が介在し、「事実」の切り取りが行われます。つまり、メディアが伝える情報は、送り手の価値判断によって、現実を再構成した恣意的なものだということです。

筆者自身、アメリカで生活してみて、日本に伝えられるアメリカ人の生活像がいかに一面的か(アメリカの一部の現象が、まるで全米規模で起こっているように思われている)を知って驚いたそうです。

>まず真っ先にマスコミに対する監視圧力を高める必要があるのではないでしょうか。事実かどうか、必要な報道(番組)なのか、現実逃避の代償観念ではないのか、それが閉塞状況を突破する答えになっているのかetc・・・(岡本さん)

そこで、どんな立場から、どんな情報源を使って報道され、その理由は何なのか、などを積極的に読み解くことが重要になります。メディアに欠けている視点は何か、どんな人たちの声をより多く取り上げ、どんな声を排除しているのか、など多様なメディアから多様な情報を収集したうえで、意見・批判などを積極的にメディアに向かって発信していくことが必要となるでしょう。



三ヶ本万州夫

新聞・テレビを見る時間を半分にして、るいネットを見よう

>噂話や中傷や批判・・・人々の代償充足の最たるものが「おしゃべり」であって、そういう人々の意識(現実逃避の代償充足)の先端に位置するのがマスコミなのだと思います。

盆休みになって、普段見られない時間帯のテレビを見ました。各局とも視聴者である専業主婦をターゲットにしたワイドショー的な番組ばかりで、どうでもいいような辟易するような内容ばかりでした。
あんな現実逃避の代償充足の番組を一方的に垂れ流していれば、まともな人間も洗脳されていくだろうなと感じました。

家族が核家族化し、家庭が密室化していくことによって、家庭そのものが社会から隔絶されてきたからなのでしょう。家庭から社会的な課題が無くなった故に人々は本来の充足も奪われてしまったのだと思います。
このことは会社に勤めているサラリーマンも単なる雇われ人として、ルーチンワークをこなすだけで何の充足も得られない構造と根っこは同じように感じます。

>いま、マスコミが垂れ流す中身のない「おしゃべり」に違和感を感じる人たちが、現実を直視した(不全を対象化した)「おしゃべり」をるいネット上で交わしています。そして多くの人がそこにひきつけられています。

遅かれ早かれ、代償充足では何も現実を変えられないと気づいた人々がテレビを見捨てて、認識(答え)を求めて、るいネットでのおしゃべりに参加してくることになるのだと思います。



山上勝義

ゴミよりたちの悪い「言い捨て」

御盆休みもあって久しぶりにテレビを観る時間が多くありました。観るものはニュースが多くなるのですが、ニュースキャスターや論説者の言葉が悉く「言い捨て」であることに唖然とさせられました。

例えば住基ネットの個人番号通知の封筒が透けて見えることを取り上げて、そこの首長は何を考えているのかと言うだけ。他にも「じゃぁ、あんたはそもそも何が問題と考えてるの?」と思うことばかりでした。突つくネタを取り上げては解説や批判をするだけで「言い捨て」以外の何ものでもないと思いました。

日常の仕事関係では「言い捨て」だけの人間など、何の役にも立たず見放されていくだけですが、ことマスコミの場合は「言い捨て」が当たり前で、ただ言葉が面白くさえあればもてはやされます。所謂、毒舌などがその典型かもしれません。久米宏なんかはCM前の言い捨てを売り物にしている節さえあります。

次から次へと「言い捨て」のネタを探してはばらまいて大衆に話題を提供し、それがまた大衆の無為な言い捨てとして広がっていく。捨てられたものが繁殖するので、ごみ以上にたちが悪いと思いました。





石橋直樹

三文脚本家としてのマスコミ

新聞社の公式のHPにQ&Aのページがあり、「どんな人が記者に向いていますか?」の問いに新聞協会は次のように答えている。(子供向けだけにストレートに答えている)
>記者には「やじ馬根性」が欠かせない。やじ馬は人の知らないことを見たり、聞いたりして第三者に伝え、「へぇー」とか「すごーい」という反応に接して満足する。
記者は出来事や話題ものを取材して、紙面を通して一般の人に情報を伝達する。したがって、やじ馬根性、つまり好奇心がおう盛であることが求められる。もちろん、責任感と正義感を備えたやじ馬(??)であることが必要。(以上リンク)

一瞬唖然とした。しかしよく考えれば確かにそうなのだろう。今でこそ社会の公器を名乗る彼らだが、歴史を遡れば新聞あるいはマスメディアの起源は瓦版に遡る。それ以来今にいたるまで、一貫して記事やニュースの中軸にあるのは「対立と異常事件」である。(つまり火事と喧嘩である)
もちろんこれが中軸にくるのは、最も人の耳目を集めやすいからであろう。つまり面白おかしい、おしゃべりのネタとして、それらが最適であるからだ。
それだけではない。とりわけ対立については、政治的対立から始まって夫婦喧嘩の暴露ネタにいたるまで、対立や喧嘩にはどちらが勝つかというゲーム的要素がある(古代ローマの奴隷の決闘と同じ)。かつ喧嘩に近い対立では、自分が心情的に肩入れしているものが気に食わない相手をやっつけてしまう快感がある。あるいは泥仕合の最中にある双方が互いを貶めあうことに対する、自分にもある人間の醜い部分を見ることによる(おそらく自我の)倒錯的充足がそこにある。
一見まともなニュースに見えるものも、よく見るとこれらの要素がいたるところに散りばめられている事に気がつく。つまりマスコミとは単なる現実の傍観者で在るばかりではなく、もっと性質の悪いことに、現実の一部を切り取ってそれを面白おかしく針小棒大に語る、三文小説的脚色家なのだ。

マスコミは市場の拡大と共に勢力を拡大する。つまり市場拡大によって破壊され、喪われた村落共同体の体感共認に対する代償充足の欠乏を栄養源とする。芸能や演劇がその中でも喪われた本源欠乏に代償充足を与えたのに対して、ニュースはおしゃべりのネタ、つまり面白おかしく現実を脚色して発散するという形で、肥大する自我の発散欠乏に照準を当てることから始まっている。



北村浩司 

マス・コミの問題は人々を傍観者にする構造にある

>マスコミはどうして本当の不正を正し、社会統合の透明性を実現してくれないのか、かえって社会統合を「難問化」させているだけではないか。という不満を抱えています。(山澤さん)

もっとも端的に言ってマス・コミというものは、ネタから分析・論評までのほぼ全てが「借り物」でしかない究極の傍観者であり、不正を正すことや透明性の実現などはもともと出来ることではないと言うことでしょう。

そもそもマス・コミが登場する必然性は、個的な存在と化した人々が無数に暮らす社会における共認不全を背景とした情報伝播にありますが、情報を扱うだけでいいというような仕事は、どこまで行っても「ひとごと」でしかない極めて特殊な仕事です。

問題はマス・コミが大衆に迎合的あるいは共認的(さらには民主的)かどうかではなく(そうした意味の迎合やごまかしは構造的に当たり前であって)、マス・コミの登場により人々が急激に傍観者化したことではないでしょうか。当事者でないマス・コミが扱えるものは比較的当たり前の規範的な価値観でしかありません。こうした「ひとごと」のような旧観念に触れることが、傍観者の論理を学ぶことなのであり、それだけで人々を傍観者へと変えてしまうことの恐ろしさを、我々は強く認識しなければなりません。




斎藤裕一

「芸術」は私権の共認が生んだ観念の一つ

> しかし、市場社会では、商人階級の(コンプレックスの裏返しとしての)社会的評価をたかめる手段として「文化」が用いられた。
> だから、「芸術」は商人階級というパトロンの思惑の下で発達してきた。パトロンなしには発達できなかったと言ってもいい。

 この「芸術」という概念はいつ生まれたのでしょうか?

◆「オリジナリティ」や「創造性」は自然や神にしかない

 もともと「芸術」(art、ars)という言葉には、「技術」という意味しかありませんでした。
 大きく捉えても「芸事」「おけいこ事」くらいで、要するにその修練が大事だったのです。

 「芸術」には、ことさら「オリジナリティ」「創造性」が強調、重要視されていますが、「オリジナリティ」(originality)の元の言葉である「origin」=「万物の源泉」の資格や、物事を「創造」(creation)する能力は、神や自然のものであって、人間には絶対認められていませんでした。

 また「芸術」(art、ars)ということに必要とされていたのは、自然をまねること=学ぶこと、過去の優れた達人をまねること=学ぶことであって、ひたすら優れたものを模倣することが尊ばれていたのです。

◆「所有権」の絶対視が人間を創造主に仕立てた

 では、いつ現代的な意味での作者の個性を重視する「芸術」の概念が生まれたのかといえば、それは18世紀のことです。

 この頃、重農主義によって、自分が畑を耕してその作物が市場での富を生み出すことが広く行き渡ります。
 そして、富の源泉は、自分の労働にあって、その成果である富は、自分の所有物であるという所有権の観念が発達しました。 

 それまで、富を生む「もと」は、「自分以外」の何か、誰かにあって、決して自分ではなかったのです。
 
 所有権が万物に認められるようになると、それまでは一つの技術でしかなかった「芸術」の概念が転換します。
 つまり、自分の芸術作品の源泉=オリジナリティーや、創造性の在処=「所有者」としての自分の個性ということが絶対視されるようになり、「芸術」の概念自体も何事からも束縛されない=自立した絶対的概念へと変化していったのです。

◆原始・古代の「芸術」は錯覚でしかない

 かくして、万物の源泉、創造主としての資格を持っていた自然や神の座に、個人が収まることになりました。
 しかし、この個人のオリジナリティや創造性は、人工的に作られた、ごく新しい概念です。

 例えば、「原始・古代にも芸術があった」という見方はたかだかこの200年間の間に生まれた観念を過去の歴史に当てはめた錯覚にすぎません。
 なぜなら、原始の人類の生み出した傑作群には、オリジナリティや個性、ましてや所有権の絶対視はなく、ただ万物の創造主、源泉としての自然への畏敬の念があるのみであって、決して近代の「芸術」概念とは相容れないからです。



阪本剛

共認闘争としての芸術の幕開け

「演者=傍観者」という視点に関する一連の投稿を読んでいくと、「演者=傍観者」が内に秘める問題点は、演劇のみにとどまらず、現代の諸芸術のあり方そのものの転換を迫っているように感じます。

傍観者としての演者による演劇が、他の人々を引き付ける求心力を失っている現状を考えると、現代社会を切り離した次元で成立する、自己表現を主目的とした芸術が、もはや表現者(演者)の自己充足以上の力を有していないことを示しているように思います。

しかし、現在表面化している演劇の衰退は、演劇そのものに対する否定ではなく、傍観者としての演者による演劇の否定であり、演劇のみに限らず、傍観者の親分としての表現者と、傍観者の子分としての聴衆という、現在の諸芸術の根底をなしている構造そのものに対する否定であるように思います。

こうした、自己表現としての芸術に向けられた現代の否定のまなざしは、共認闘争としての芸術の幕開けを感じさせます。共認を深化させていく上で、人々の精神に直接訴えかける芸術の果たす役割は大きく、今後求められる芸術は、共認への意志を呼び覚ます芸術。共認をベースとしたうえで創造された芸術であるように思います。当然表現者は共認を意識する人々の厳しい目による激しい共認闘争をしいられ、この厳しい視線によって、芸術と称して生まれる多種多様な作品群の氾濫を抑え、万人によって必要とみなされた本物のみが産み落とされる環境が築かれるのではないでしょうか。




KOU

「解脱」の中身を問う

>あと、中野さんが34346で言ってたけど、私権時代の解脱が共認不全、共認非充足からなら、いかに認識形成サイトが、本物の解脱の側面「みんな充足」のあたりをカバーできるかも鍵となっていくのかもって思いました。ここで、頭を使うのは大変!でも解脱も必要?ってところが残る課題??(34549 立石さん)

必要なのは、「解脱」の中身を問うていくことではないでしょうか。
そもそも「解脱」とは、不全から来る欠乏に応えることが出来なければ、意味を無しません(機能しない)。

例えば、始原人類やネイティブの世界などの本源社会においては、自然圧力や生存圧力による本能不全→親和欠乏に応えるための踊り、性などの解脱。皆と親和し、皆と繋がることで、迫り来る外圧に対して立ち向かう力(活力)を得ます。ここにおいては、私権時代に見られるような現実を捨象するための解脱と言うよりも、現実に立ち向かうための活力源としての解脱という意味が強いと思います

これに対して、私権時代の解脱とは、抑圧された現実からどれだけ「逃げられるか」に意味が置かれています。TVもゲームも演劇も(更には古代宗教や近代思想も)非現実の世界であり、全ては、私権不全=共認不全を捨象する(忘れる)ために存在します。現実から目をそらして、「充足した気分になる」からこそ、「代償充足」なのでしょう。
少し違う見方をすれば、TVドラマの内容や、演劇の内容、あるいは流行歌などを特定の人と共認することによって、共認不全→欠乏を充足しているとも考えることができるかもしれません。どちらにしても、現実を捨象した代償充足であることに違いはありません

私権不全が社会不全に転換した現代においては、このような(共認不全の)代償充足である解脱スタイルでは、全く充足できないのは立石さんや藤岡さん、中野さん、西さんの言われるとおり。ならば、「必要な解脱」とは、この「社会不全」から来る欠乏=認識欠乏に応えることのできる「解脱」であると思います。
認識形成サイトに参加して、認識を紡いでいく、あるいは獲得することがそれに値するのは間違いありませんが、より突き詰めて考えれば、個々人が認識形成に参加することが充足となるのではなく、私権統合が崩れ、全く先の見えなくなったこの社会(現実)をみんなで切り開いていくことが「答え=充足」になると感じます。
それは、「(皆と)つながる」「(皆で)共認する」「(皆で)認識を紡ぐ」と言う、本能・共認・観念全ての欠乏を満たす解脱となるのではないでしょうか

最終的には、あらゆる代償充足は廃れ行き、認識形成の場(=同類闘争の場)と解脱の場が一体化していくと感じます

参考:新しい潮流3 社会不全⇒認識欠乏の蓄積 四方勢至(24982)



西谷文宏