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「演者=傍観者」の大転換

>学者でも役者でも、もっぱら表現することに頭を使っているけど、当事者として現実と対峙してる訳じゃない表現者って、これこそが傍観者の親玉なんだと思う。(34549 立石裕美さん)

な、なるほど~。
演者が傍観者の親玉だなんて、ちょっとびっくり、でもとてもすっきり!

私が就職時に「芝居から足を洗う」ことにした理由は、「片手間に働いてます、芝居してる私こそホントの自分」というのがどうしても、一緒に働く職場の人に対して失礼なスタンスだと思ったからだった。
そして私が芝居の世界に戻らなかったのも、それが現実の活動なのに、現実逃避であることをなんとなく嗅ぎ取っていたからだろう。

けど、もう、なんとなくじゃない。
認識が与えられれば、はっきりわかる。

演劇が、人々に夢と希望を与えるエンターテイメントでありえた時代は、終焉を迎えつつある。
人々には非現実の一時しのぎの夢など、もはや不要だ。
現実に、はるかに大きな可能性が開けた。目をそらす必要はない。

演劇が、人々に解脱充足を与えることができないのならば、もはや演劇はその存在意義を失い、無用となる。あとに残るのは、あとは演者の自己満足のみ。

なるほど、これは衰退するなぁ。ちょっとしみじみしちゃうけど、そう思う。


藤岡聖子
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演者こそ傍観者の親玉、観客は二乗の傍観者

>演劇は、演じる者と観る者がいる。当然だがあれは演じる(あるいは創り上げる)方が断然充足する。観るだけ、というのは明らかに解脱であり、代償充足だろう。
>いずれにせよ、観るにしろやるにしろ、今の商品化された演劇は代償充足。

観るのは当然、観客=傍観者だけど、演じるのは当事者?
学者でも役者でも、もっぱら表現することに頭を使っているけど、当事者として現実と対峙してる訳じゃない表現者って、これこそが傍観者の親玉なんだと思う。で、それを見ている観客は二乗の傍観者(それとも、傍観者の子分?)。
私権不全から社会不全に変わったっていうのは、それだけ大きな転機なのに、相変わらず社会不全から目をそらして、非現実の世界を演じるなんて、充足になり得ない、衰退していくしかないんだと思いました。

あと、中野さんが34346で言ってたけど、私権時代の解脱が共認不全、共認非充足からなら、いかに認識形成サイトが、本物の解脱の側面「みんな充足」のあたりをカバーできるかも鍵となっていくのかもって思いました。ここで、頭を使うのは大変!でも解脱も必要?ってところが残る課題??




立石裕美

代償充足のひとつ、演劇の衰退

近鉄劇場の閉鎖が発表された。これは、関西の演劇関係者や演劇ファンにとっては、扇町ミュージアムスクエアの閉鎖に次ぐ事件である。

扇町ミュージアムスクエアは、劇団☆新感線など、数多くの劇団を育てた関西小劇場演劇の拠点だし、近鉄劇場はかつて夢の遊眠社や第三舞台、劇団四季なども公演した。併設の近鉄小劇場では400席という適度なキャパもあって地元中小劇団のみならず、関東の劇団の公演も多かった。

しかし、両劇場とも、「老朽化」を第一の理由として閉鎖される。企業側が新たに建て替えてまで劇場を存続させる気がないのは、もちろん採算が取れないからだ。つまり、観客動員数の低下が、真の理由であろう。

>だから、現実の可能性が開かれた以上、頭の中で代償充足するための感応観念が『無用(不要)』になったのと同じように、代償充足に過ぎない解脱様式も今後どんどん『無用(不要)』と判断されてゆくと思う。(34335 西知子さん)

演劇は、演じる者と観る者がいる。当然だがあれは演じる(あるいは創り上げる)方が断然充足する。観るだけ、というのは明らかに解脱であり、代償充足だろう。若者が中心である小劇場演劇の観客が減るのも当然の流れだ。現実に本源充足の可能性が開かれたのだから、若者は観るだけの観客の立場には、もう満足しない。

あるいは、こうも言えるかもしれない。本源潮流の高まりによって、芝居は観るよりやる方が充足することが、誰の目にも明らかになってきた。だから、「なんで君らの充足のために、わざわざ私がただの観るだけの人となって、しかもお金まで払わなければならないのか?」と、今までは感じないような思いが、表面化してきた結果だと。

いずれにせよ、観るにしろやるにしろ、今の商品化された演劇は代償充足。
今後は衰退の動きももっと明確になってくるのではないかと思う。


藤岡聖子

代償充足の衰退

スポーツ・芸能・旅行などの解脱や、宗教・小説・近代思想などの認識は、自我or本源に関わらず、全て代償充足なんじゃないかと思った。

>観念が捨象されてゆくのは、貧困や抑圧の消滅によって旧観念が単に輝きを失ったからというだけではない。現実に(特に仲間関係では)、本源充足の可能性が開かれた以上、その可能性の実践的な模索に収束するのが当然で、その代償観念にすぎない感応観念(価値観念や規範観念)はもはや無用となったのである。(18571『前夜の意識状況3 無用となった感応観念(価値観念や規範観念)』)

だから、現実の可能性が開かれた以上、頭の中で代償充足するための感応観念が『無用(不要)』になったのと同じように、代償充足に過ぎない解脱様式も今後どんどん『無用(不要)』と判断されてゆくと思う。



西知子

寒々しさの中身~「ワールドカップ」フィーバー考察


>先に触れたマスコミ主導の「ワールドカップ」フィーバーに感じる寒々しさも、その土俵上での最先端の感覚である。

このサイトに参加されている多くの方も、同様な実感を持たれていると思います。それはどこからきているのか、少し考えてみました。

結論から述べますと、
人々の意識の深層が私権不全から社会不全へと逆転したにも拘らず、「何の新しい認識も提示できずに、相も変わらず芸能スポーツネタを垂れ流し、愚民化路線を続けるしか能のないマスコミに感じる寒寒しさ」、とりわけ「安易な解脱に流れやすい大衆に弱点に付け入り、経済波及効果=市場の延命を目論むマスコミへの嫌悪感」ということになろうかと思います。

マスコミは、連日「W杯は国民的行事であり、日本人ならこの祭りに参加すべし」という大衆操作をおこないました。テレビや新聞での「熱狂的な」サポーターの報道や、「驚異的な」視聴率の公開がそれです。
その効果は、始まったばかりのころはさほど興味がなかった人も「参加していなければまずいのではないか」と思わせ、ろくにルールも知らないにわかサポーターを急増させている現状からも窺い知ることができると思います。
そして、その人数に比例して、「経済波及効果が上昇、景気回復に貢献。」という欺瞞が語られることになるはずです。

彼らの存在基盤が市場である以上、マスコミの行為は「必要か否か」という我々の判断機能をとことん鈍らせる方向に働きます。
彼らの思惑に飲み込まれる前に判断機能をフル回転させる必要を感じます。


大森義也

非日常の解脱充足から現実の認識収束へ

私が普段本を読むと言えば、小説か戯曲か詩集。
そこには、平和に毎日を過ごしていては得られない、感情の起伏がある。
なんだか心理的にまったりと行き詰まり感が高まってきたら、小説や戯曲の世界の中へと入り込み、感情を高ぶらせると、なんだかすっきりした気分になる。女の子がよくやる、「行き詰まったら泣いてすっきりする」というのとまぁ、同じかな。
でも所詮は解脱なので、別にそこから何も生まれはしない。ちょっとすっきり気分になれるだけ。

それに対して、るいネットを読んでるときは違う。

るいネットはほぼ毎日見るけど、読み方にも2種類あって、「新しい認識を理解するぞ」という気合の入った読み方と、「なにか面白いこと言ってる投稿ないかな」という、いわば広場に顔を出す気分での読み方。後者は「読む」というより「見る」と言ったほうが正しいかもしれない。

でも面白いことに、集中して、頭を論理的に使って「読んで」いるとき、顔出し程度に「見て」いるとき、そのどちらとも、ある瞬間に、思考はネット上から現実の課題へと飛んでいくことがある。
現実課題を共にする、あの人この人の顔が浮かぶ。仕事でお話した人々の顔が浮かぶ。そして、「あの時はこうすればよかった」「今度はこう言ってみよう」などと次々に考えが浮かび、ふと我に返ると、10分近くもぼーっと思考の旅に出ていたりもする。

そんなとき、「あー、面白かった」「いやー、いいこと教えてもらった」という気になり、とても充足する。さっき考えたこと、さっそく明日からやってみよう、と思ったりもする。

つまり、ネットには、「変化する現実そのもの」としての面白さがあるだけではなく、私たちが潜在思念で欲しがっている「新しい認識」「現実を切り拓く可能性のある認識」がいっぱい詰まっているから、こんなにも面白いのだと思う。

毎日変化して、現実に役立つ認識が詰まってて、しかもそこに参加も出来る。そして、もはや私たちの感じている不全が、今までの解脱では解消できない社会不全であり、それを解消するためには「答え」を見つけるしかないのだとしたら、テレビより音楽より本より映画より、「認識形成サイト」が面白いのは、当然なのかもしれない。


藤岡聖子

これからの外圧とは、人々の期待(から発する課題)

>することがなくなって自己表現(内面)に向かう

っていうのにはおぞましさを感じてしまいました。
今は、現にそうなってしまって苦しんでる人と、そうじゃなく意識を外に向けてゆく人とが、混在しているような状態なんだろうと思います。

マスコミでは前者が問題にされることが多いけれど、新しい統合NWの会議室では、「人々の外向意識」に可能性の焦点が当ってるところです。

生存圧力を克服した現代(orこれから)は、自己表現の為の「芸術」じゃなくて、社会統合の為の「認識」(社会的課題に対する答え)が求められるんじゃないかって、そんな風に状況を捉えてます。

21101『現代日本人の可能性』
22886『「癒し欠乏」の変遷にみる「答え欠乏」』
24049『考えることからくるエネルギー 』
24250『現実課題2 何をすれば良いのか分からない』
24648『社会収束2 私権圧力を超えた社会収束の顕在化』
24680『人から社会』
24700『認識の必要が顕在化する(2)』
24702『つながりの先は言葉』
24800『社会収束に向かう土壌が就職後の会社の一般社員にも出てきた』
24869『『脱・企業』『脱・集団』に同類圧力の兆しを観る』



西知子

マスコミによる擬似共認を越え、本来の共認へ。


>そもそも人々が求める共認というものが、いきなりマス的では無いとも考えておりますが如何でしょうか。<(斎藤さん)

人々が求める(はずの)共認は、五感を駆使し、対面で交感するものだと思います。ただ、日常にそのような共認の場を失った現代人(とくに都会人)は、マスコミに代替共認(充足)を求めざるを得なくなったのではないでしょうか。そのような需要がマスコミの盛衰を左右しているのだと思います。

マスコミによる一方的な発信内容でも共感できる部分があれば共認は成立したような感覚があります。それは一方向で完結してしまうので、その共認の感覚は飽くまで“擬似”ですが、疑似体験でも充足を伴います。それは差し迫った課題がないため飽くまで解脱止まりであり、集団課題を捨象した個人や家庭にとっては都合のいいものです。

都市部の拡大(本源性を残す農村の衰退)とともにバラバラの個人や核家族が増え、これにともなってテレビが普及し視聴時間が拡大していったのも、そのような共認の代替充足が求められた結果ではないかと思います。

そのような状況を背景として見ると、マスコミ(とくにテレビ)の歴史とは、より本来の共認に近づこう(それを求める人々の欲求に応えよう)としてきた流れとしてみることができるのではないでしょうか。

例えば、娯楽性の薄いニュース番組について見てみても、当初は静止した画面にアナウンサーの声だけが流れるスタイルでした。それがアナウンサーやキャスターと呼ばれる人がテレビカメラの前でしゃべるのが一般的になります。現在では、そのかたわらに相づち(合いの手?)を打つ女性や学識~タレントなどのコメンテーターがいたり、そのやりとりを見せるものが人気となっています。昨今では、キャスターが視聴者の思いを代弁すべく自分の意見(と思われるもの)を画面に向かってぶつけたりします。

そのような“演出”は、いかに本来の共認にせまれるか、あるいは、共認できたと“思わせる”ことができるか、という努力であるように感じます。

そういう流れを背景としてみた場合、ここにきてテレビを視聴する世帯が減少する(総世帯視聴率の低下)という兆候は、新しい流れ、すなわち、より本来の共認に近いものを求める動きと捉えることができるのではないでしょうか。



熊谷順治

マス・コミュニケーションと共認

>マスコミにとって深刻なのは、誰もマスコミを信用しなくなっているということでしょう。(熊谷さん)

マスコミに関する貴方との議論で私は、どちらかというとマスコミの問題と言うよりは現代社会がどの様な社会なのかということの方に関心が移りつつあります。そういう意味で貴方が指摘される「誰もマスコミを信用しない」ということは多くの示唆を含んでいるものと思います。(おそらく「マスコミ」という新聞やテレビなどのメディアの機能的限界というような議論は、それだけではさほどの広がりを持ち得ませんが、こと「億を数えるような人々が共通的に必要とする社会的な事実の伝達=マス・コミュニケーション」というものを想起した場合、そもそもそういったものを人々は本当に必要としているのか、そういうものが登場する社会とは如何なる社会なのか、人々の求める共認とマス的なるものはどの様に関係しているのかというような様々な疑念を生じさせます)。

人々にとって「マス的な共通性」と言った場合にまず想起されることは、政治・経済などの、国家や市場というマス的なものに起因する「人々が共通して帰属する社会的な集まり」における事柄と言うことになるでしょう。しかし現代におけるそういう事柄は人々それぞれの利益若しくは生活に少なからず影響を与えるという規制的な事柄がほとんどであり、そう考えると必ずしも人々が望むべき欠乏の対象というより、強制的に必要化されていることだと言えるように思います。そうした情報群がマス的であるのは、現在の社会そのものがマス的であることに他なりませんが、こうしたマス的な社会も、そうした社会に規制される人々とは全く別に、そうした社会でもっと大きな利益を得ることの出来る一部の人々によって形成されたと概観的にはいえるでしょう(人々は現代社会を共認していると果たして言えるのでしょうか。私はむしろ容認しているという程度に理解した方が良いように思います)。

マスコミが登場して以来、人々がマス・コミュニケーションを通じて得た共認とは何でしょうか。恐らく愛や自己実現やゆとりなどの現代的な個人主義的観念ということになるでしょう。しかしこうした事柄も人々が求める以前に、一方的かつ繰返し吹き込まれたのであり、人々は要するに無自覚的かつ強制的にその様な価値観念に洗脳されただけと言うことが出来るでしょう(人々がこうしたことを共認していると感じるのは,広く画一的に行き渡っている事による錯覚では無かろうかとさえ思います)。

この様にマス的なるものとして社会や観念を見渡したところで、マス的に共有されているものと人々が求める共認とは無関係で、であるならば、そもそも人々とマス・コミュニケーションというものが、結局当初からある断絶を孕んで決別しているものと言うことが出来るのではないでしょうか。熊谷さんが指摘される「誰もマスコミを信用しない」ということは、メディアであるマスコミの機能的な限界と言うことに加えて、マス・コミュニケーションと共認というものが、本質的には容易に結びつかないことがいよいよ露呈したことで生じるものと理解しております。

そして、そもそも人々が求める共認というものが、いきなりマス的では無いとも考えておりますが如何でしょうか。



斎藤裕一

ニュース不感症

私も、ニュース番組を見て感じることはいろいろあるのですが、あまりにいろいろなことがありすぎるせいか、たいていのことには驚かなくなってしまったというのが率直な感想です。さすがに、アメリカのテロ事件クラスの大事件になると、TVに釘付けになってしまったのですが、正直言って、日頃マスコミから垂れ流されるニュースには、またかという程度で、たいして注意を払わなくなってしまっています。この点は、皆さんの意見も聞いてみたいところですが、職場や仕事先での会話でも、みんな結構TVや新聞を見たりしている割にはニュースで報道されていることが、あまり話題には上がらないところから推察して、みんな似たり寄ったりの感じを持っているのではないかという気配を感じます。つまり、マスコミのニュースに対しては、殆どの人が傍観者であり、たいがいのニュースには(自分に関わる以外のことには)不感症になっているのではないかという気がします。

勿論視聴者の立場から反省すべき点もあろうかと思いますが、ここでは、マスコミの限界性という観点からこの問題を考えてみたいと思います。

この問題の背景には、視聴者のニーズとマスコミ報道との乖離という問題があるのではないかと考えています。簡単に言うと、マスコミ報道は面白くないのです。ニュースが面白くないと言うとやや語弊がありますが、少なくともマスコミは視聴者の知りたいことに応えてないのではないかと思います。視聴者の知りたいこととは、おそらく、閉塞感が増大するなかで、日頃嫌というほど報道されている犯罪や汚職や倒産などの事件の背後にある事実は何か?そして、そのことをみんなはどう考えているのか?現状を突破するような可能性のある現象はないか?ということだろうと思います。それに対して、マスコミは旧態依然と、事件報道を繰り返すばかりです。しかも、その尺度は、ご指摘のように、いかに売れるショッキングな特ダネ情報であるかということであり、その態度は、徹底的に傍観者です。毎日毎日こうも問題ばかりを見せられると、ニュースを見ている方は、暗い嫌な気分にならない方がおかしいくらいです。

再び、感想を言わせていただければ、最低なのは、ニュースキャスターや評論家が出てきて、もっともらしくニュースを「解説」するやつです。問題を掘り下げるでもなく、可能性を追求するでもなく、単に傍観者として評論しているだけの態度には、正直うんざりしてしまいます。それに対して好感の持てる番組は、事件の背景を丹念に追跡して事実を突き止めようとする報道特番であったり、余計な解説抜きにありのままの事実を伝えるドキュメンタリーであったり、街角の人々のインタビューを丹念に拾っている番組であったりします。

おそらく、マスコミというのは、第三者として事件を報道するという枠は越えれないのだろうと思います。しかし、そうであるにしても、倒錯した余計な観念抜きに、事実を丹念に正確に伝えるという姿勢に徹すること、問題事象ばかりでなく、もっと新たな可能性のありそうな事象に目を向けることができれば、もう少し視聴者のニーズにも応えることができるのではないでしょうか。そこから先、マスコミの限界を超えるコミュニケーションをどう築いてゆくかというのは、我々の課題だと思います。



雪竹恭一

新聞が面白くない理由

というタイトルの本を最近読んだ。
そこでは新聞記者や新聞社が、便宜供与やサイドビジネスの陥穽にはまり、ペンの力が鈍っているといった趣旨が様々な事実指摘と共に述べられていた。
こうした見方は一面的を得ているように見える一方、何処か違和感を感ずる。はたして便宜享受や副業をやめて、清廉潔白になれば新聞が面白くなるのだろうか。
残念ながらそれだけの問題とは思えない。
新聞が面白くなくなったのは時代を切り開いて見せる新しい認識を提供できなくなったから、云い替えれば先見性という最も大切な機能を殆ど失ってしまったからではないか。
本、新聞、テレビ、ネットなどメディアの種類を超えて、状況認識の質こそが今最も問われている時だというのに。





高橋克己

マスコミ、企業、消費者の三すくみ。

マスコミの共認支配は目に余るものがありますが、マスコミは企業(スポンサー)に背くわけにはいかず、企業は消費者を敵に回すわけにはいかないという構造になっていると思います。

そうなるとマスコミは間接的に消費者(大衆)の思いを後押しするように共認内容(観念)を流布していると見ることができます。その結果、消費者は自分の思いを代弁し、補強してくれるマスコミに積極的に追従するという「マスコミ⇒企業⇒消費者⇒マスコミ」という三すくみのような構造になっているということになります。

それが支配観念を強化してきた循環構造だと思います。そして、この循環の推進力となっているのが市場経済(資本主義経済)です。

貧困の消滅からバブル崩壊へ、市場経済の活力は衰弱し、上記の循環も滞るようになりました。その結果、

>そのようなマスコミ論調には、人々ももうあきあきしていて、マスコミの言うことをたいして信用しているわけではない<(雪竹さん)

というのは私も感じているところです。

>市場の絶対視から抜け出すためには、マスコミを超える共認形成を図る必要があると思います。<(雪竹さん)

確かに、その通りです。
もう一つの可能性として、上記の循環を用いて、個人が企業に変換を促し、マスコミを変えてしまえば、新しい共認の循環が始まるという可能性も見出せます。



熊谷順治

ところで、マスコミは?

>「国・政府の言いなりに研究するのではなく、社会問題を追求することこそ研究者にとっての社会的正義では無いのか。」

自分で投稿しながら、よく聞く話だと思ったら、むしろ学者が言われているよりも、マスコミが良く使うフレーズだった。

ところで、一部の良心的な科学者が、その良心に従って現在の偏った環境問題について警鐘・反論を試みているが、これらの行動が一般大衆の目に触れないことは、社会問題を追求してゆく上で、大きな損失だと思う。
さらに、これらの問題追求を、学会という閉鎖された場から、大衆の前に公開し、本来の社会問題の追求に向かわせることこそ、マスコミが本来担うべき課題では無いのか?

マスコミが社会正義を言うのであれば、このような問題こそ社会的使命に従ってとりあげるべきではないかと思った。
思ったけれど、よくよく考えると、研究者と同じ構造にマスコミもある。

企業の広告収入に頼るマスコミが、反企業の報道を出来るのか。
購読者を控えて、彼等にとって耳の痛い報道が本気になって出来るのか。

こちらもあまり期待できない構造のようです。



小西康雄

「河原乞食」が相手にした「観客」たち

 久し振りに「河原乞食」という古風な表現(16391>中村朋子さん)に接しての雑感です。
 
 >この「開放空間」の「危険性」に気付いたのが、徳川支配体制です。(中略)「能」は武家の式楽として取り込まれ、芸能ー歌舞伎・浄瑠璃は「芝居町」に、遊女は「廓」に囲い込まれたのです。自由な開放空間ー「まつり」の場としての「河原」は失われ、芸能は個的な遊興にされ、演者と「客」は社会的に明確に分断されました。<

 この捉え方については異論があります。

 社会体制がそれなりに安定した結果、一般大衆の享楽志向の上昇に目をつけた「河原乞食」が、芸能ネタやゴシップ情報を生活の糧にすることができるようになったのがこの時代です。「河原乞食」自身が「観客」を相手にした「プロ」であり、権力側が「演者」と「観客」を分断したのではないはずです。

 また、彼らが活躍した「河原」は本源的な「まつり空間」からは程遠いもので、すでに「観客空間」と化していたと考える方が妥当です。余談ですが、現代のスポーツ選手やタレント(≒芸能界)やジャーナリスト(≒マスコミ)の起源がこの「河原乞食」ですが、「士農工商」の中で最も身分の低い商人からも「賎」と蔑まれるような最下層から、現代の「憧れの職業」が生まれ育ったという点も見逃せない事実だと思います。

 そう考える根拠と補足は以下の3点です。

 1.徳川支配体制の気が付いた「開放空間」の「危険性」とは、それまでの支配体制の埒外にあった最下層から人々の「堕落欠乏(≒圧力が無ければ安易な充足に四六時中ウツツをぬかす習性)」に火がつき、秩序が緩み支配体制にひびが入ることと生産力が低下する(=搾取できる物量が減る)という危険性だったと思います。

 2.幕府が被支配階級の「観客化」の流れを阻止しようとしたのは、社会統合上は(≒その既得権を彼らに譲り渡さないために)当然のことです。しかし、実質的に生産を支えている農民を除いてすべての階層で「堕落欠乏」は肥大しているから、「河原乞食」の活躍の場は全社会的な広がりを見せます。元々「観客」として努力(=参加)せずに消費と享楽に明け暮れる特権を手にしたのが支配階級ですから、この流れは新しい支配階級の母胎とも考えられます。したがって芸能人やマスコミが相手にしている「個人」や「家庭」は現代の権力者とも言えます。

 3、近代以前と言えども、すでに都市化したエリアの「開放空間」を「まつり」の場として説明するのは誤りです。それはすでに本来の「まつり」が「観客化」や「堕落欠乏」に侵食された事例に過ぎなません。なぜなら、享楽だけをむさぼりたいという「堕落欠乏」に突き動かされて、「観客」が次々と集まってきたのが都市の正体だからです。

 (* 本来の「まつり」とはやはり「社会統合」という課題がないと成立しないこと、縄文時代までは社会=単一集団だったから「集団統合」を課題として「まつり」が成立していたことなどを、自分なりにあらためて確認できました。)



土山惣一郎

観客化、市場化と「いつでも充足」

 15730「 犯罪報道に対する違和感と観客化」でも触れましたが、観客化することで、人は単にそれを見る(楽しむ)だけの無責任な存在となってしまいます。つまり匿名存在の基礎となる顔無し、名無しの無責任存在へと人々が堕してしまう原因の一つが観客化にあるといえそうです。

 >テレビなどのメディアの発達は、この解脱充足をいつでも実現可能にしてくれた…。個室化を推し進めることを可能にさせたのは、この【常時充足】を実現したメディアの発達を抜きにしては考えられないのではないでしょうか。(吉国さん、16258)
 仰る様に観客化を、極限まで推し進めたのがメディアと言うのは、良く理解できます。 
 
 しかし逆にこの人々の常時解脱の欲求=いつでも手軽に充足したいという欠乏こそが、限りない観客化と匿名社会化を推し進めた有力原因とも言えるのではないか、と私は思います。
 
 実際市場社会の本格化とともにこの「いつでも解脱充足」出来る装置が拡大してきました、古くは新聞、本、映画、さらにレコードやラジオ、そしてそれらの集大成がテレビというメディアでしょう。
 これらはより手軽に、より感覚刺激を強めるベクトルで進化してきました。これらの媒体は一方的であり元もとの解脱にあった(お喋りにさえある)、参加充足は殆どありません。しかし、大衆は明らかにより手軽にいつでも解脱充足を楽しめると言う方向に選択を行ってきた事を意味します。
 
 さらに遡れば、人々が観客化した原因は、参加充足の場=「まつり」の場の崩壊←共同体の崩壊(村落共同体ではまつりは解脱の場として既に矮小化されかつ、非日常のものになっていましたが)にあり、その原因は市場による侵蝕にあります。
 
 ところで市場が登場する事によって、金を持つものは、生産(という苦労)をしなくても「いつでも消費充足」出来るというそれまでの自給自足とは全く異なる構造が生まれました。
 つまり考えてみれば、この市場そのものも、「いつでも(解脱or消費)充足」という欠乏=需要を母胎として発展し拡大したという事さえ言えるかもしれません。

 どうも結構この「いつでも充足」の問題は根が深そうです



北村浩司

犯罪報道に対する違和感と人々の観客化

犯罪や喧嘩は非日常の出来事であり、非日常(異常)への危機意識が人々を注目させ、それが情報の需要を作っているという側面がある。しかし同時に言える事は、これはお喋りネタでもあるという事である。

そこで取り上げられる「話題としての犯罪」は、興味本位からくる注目が半分以上を占めている。つまりこんな酷い、あるいは馬鹿な事をしでかした奴は、「一体どんな名前」で、「どんな顔をした奴か見てみたい」という野次馬根性。あるいは馬鹿なことをした奴等を心の中で蔑んで溜飲を下げたいという倒錯した充足。そのような下司な欲求がその背後にある。

以前少年犯罪における実名報道を擁護する議論があった。その議論に私は少し違和感が残った。何故なら犯罪に対する責任を問うのであれば、彼らは地域の生活空間では既に誰がやったか知られており、実名で報道しようがしまいが、犯罪者であるという共認は形成されている。また法廷ではもちろん実名は公開されている。もちろん少年法という特別な法律で罪を軽くするのはおかしいという議論はあると思うが、それと実名で報道することを是とすることには、議論の飛躍がある。 

実名の公開を要求する大衆の欲求の背後にはおそらく、上記した大衆のグレーな欠乏がある。本来犯罪にたいする裁きとは、集団や地域共同体の中でなされるものなのであろう。そこでの裁きの主体、同時に更正の主体は、その地域であり集団である。

そのような空間では、人々は犯罪とその裁きに対して責任をもっている。ところがマスコミで繰り広げられる犯罪報道は、単なる見物者のそれであり、大衆のグレーな欠乏を表現の自由と言う御旗でくるんだ無責任な一方的裁断の場である。しかもそれによって刑罰をはるかに越えて1人の人間を社会的に抹殺する力さえ持っている。しかもその後は、その人物にたいしての更正責任はもちろん、社会的抹殺についても、何の責任も持たない。

共同体の崩壊がもたらした人々の観客化は、かくも人を無責任にする。


北村浩司

マスコミと観客化の捉え方

社会統合・社会共認という地平からもマスコミなどのメディアの問題はとても重要だと思います。

>マスコミ的に今の社会を見れば、確かに、一部の有名人(文化人、政治家、芸能人など)と、その他大勢という関係があり、ここでは、その他大勢は匿名存在の観客です。<(15594、岩井さん)
>ところで、ここでいう「有名人」の出自は、明治期の文士たちの世界に見られるのではないかと想像しているのですが、彼らは従来の制度からの離反者、現実からの逃亡者であったわけです。<(15594、岩井さん)

私は、なぜ一般大衆が観客化(匿名存在化)するのだろうとすぐ思ってしまうのですが、大衆の欠乏の側で捕らえなおす必要もあると思います。日本のマスコミ(新聞)の原点は、江戸時代の瓦版に求められるでしょう。瓦版のネタはなんといっても「事件物」。めったにない事件は今でも新聞紙面を飾りますが、猟奇的な事件とかの非日常性を感じるものほど記事になりますね。

マスコミを新聞と捉えると共認形成を図る統合階級とすぐに結びつけて考えてしまいます。実際に読売新聞第一号(明治7年)では、布告・新聞(今の社会面)・説話・広告の4欄のみに分け、官令と通達、社会雑報、解説、教訓的記事を掲載していたようです。明らかに大新聞は支配階級の側からの社会共認(強制共認)という色彩が強く出ています。

ところが、瓦版はもともとは庶民の中から生まれた号外であり、これは明らかに庶民の解脱(充足)ツールの位置にあると思います。江戸時代の春本のたぐいの性(または擬似)充足と合わせて、この非日常的な事件をのせた瓦版は江戸庶民にとって、よっぽど面白かったことでしょう。そういえば、火事とケンカは江戸の花と言われていましたね。こんなところにも観客化(野次馬)の原点があるのではないでしょうか。





吉国幹雄

‘私権権力vsマスコミ権力’という図式から「闇空間」を考える

 三ヶ本さんが15207で、マスコミの世論操作という「闇空間の演出」を的確に指摘されていますが、普遍的に捉えても、「闇空間」というのは、共認内容をある特定の人間ないし集団にとって、都合のいいように捏造したり歪曲させたりするために登場したものと考えられます。

 その証拠に、「闇空間」で共認されるものは、本来の正当な共認内容に対しては、ほとんどすべて‘ウラ’や‘アンチ’という色彩を帯び、事実からは大きく掛け離れたシロモノになっています。

 この「闇空間」の起源は、実現論にも書かれているとおり、規範破りの略奪婚が集団婚的な性規範に対するクーデター(=共同体集団の破壊)として登場した6~7千年前に遡ることもできると思われますが、三ヶ本さんが例に挙げているマスコミの件は、単に集団統合の次元を超えた社会統合の次元の「闇空間」です。

 皮肉なことに私権時代は、この私権統合という様式の象徴である罰則規定などの法秩序(≒私権権力)が、この「闇空間」(≒自我の発現)を取り締まっていたのですが、マスコミの存在基盤とも言える「個人」や「家庭」が、私権の衰弱によって手の付けられないほどの聖域と化すことで、「闇空間」が全社会的な広がりを見せ始めたことは、やはり着目すべき事実だと思います。

 大衆社会やマス社会とよく言われますが、それは、「個人」や「家庭」が私権権力をしのぐ強大な力を手にした社会の呼称のように思えてきました。そして、マスコミが現在の「闇空間」を支配している先兵だという見解は、極めて重要だと感じます。




土山惣一郎

「朝まで生テレビ」な人達。

>説明する・説得するという思考そのものが、自我や思弁・詭弁・欺瞞・ごまかしを引きずり出す

ここ数年、感情むき出し系の討論を売りにしたテレビ番組が増えているけれど、見ていて非常に後味が悪いです。果して出演者達は、一体何のために議論しているのか?何かを解決する為に、とは到底思えない。勝つか負けるか、ただそれだけです。
相手を叩きのめして優越感に浸る。周りから、「あいつはキレ者だ」という評価を得る。しかしそれら全ては自己満足であり、そこから新たに生み出されるものは何一つない様に感じます。

議論=勝負にこだわればこだわるほど、現実から遠く離れてゆくような感覚って、感じたことありませんか?




根木貴大

素人の社会活動11 マスコミの共認支配

A.村落共同体(深く広範な共認充足)を失った大衆の解脱欠乏⇔テレビ(前身は、新聞・映画)
●マスコミは、バラバラに分解された大衆の解脱共認欠乏を土壌にして成長してきたが、同時にマスコミの成長はますます大衆を解脱個体化させ、更にはこの解脱箱なしには生きてゆけないブロイラーの如き存在にさせた。
●マスコミは、解脱情報を武器にして、大衆を支配観念一色に染脳し続けてきた。それは単にニュース解説etcによってではない。娯楽作品そのものの中に支配観念が様々な形で美化されor正当化されて発信されることによって、大衆は染脳され続けてきた。
☆しかし、今や支配観念と娯楽作品は、新しい価値を生み出す力を、全的に喪失した。
●しかし、マスコミが一方通行(統合階級の染脳機関)という形であれ、バラバラに分解された解脱個体を収束させた全く新しい社会的な共認形成の場(正しくは共認支配の場)を作り上げた事は、注目すべきである。
注:そこでは、素人は与えられた番組や芸能人に対する受動的な評価主体としてしか、存在していない。(もちろん、何がしかの繋がり充足や癒し充足や発散充足を得ているが、それら全ては与えられたものでしかない。)




岡田淳三郎

社会統合組織の史的総括 市場と演場

B.市場
安定した社会で解脱収束(=統合力の弱体化)を強めた人々は、自由な性闘争と性市場を増大させ、それを母胎として私益競争=市場が繁殖(拡大)する。

しかし実は、市場は統合組織足り得ない。
侵略も不況も精神破壊も環境破壊も、自力では何一つ処理できず、それら全ての課題を国家に押し付けることでしか存在できない存在であり、つまりは国家というモチに生えたカビに過ぎない。

にも拘らず、国家の私婚共認や観念共認への依存収束により、武力<資力<性権力となった以上、性権力発の市場の意向に国家は従わざるを得ず、国家は市場の下僕となる。

市場は、国家と私権に立脚しつつ、性闘争や自我を美化・正当化する近代思想によって、より邪心を拡張する方向に脱却したとも言える。


b.演場=教育機関・マスコミ(新聞、テレビ)
性市場や商品市場は、恋愛・自由・個人・権利という、受け入れ易い欺瞞観念で人々の邪心収束を促すことによって、繁殖していった。

新聞は、元々近代思想の教宣手段として作られたものであり、市場の意に沿った国家機関たる教育機関もその役割を果たしている。

また、市場の拡大(=村落の喪失)によって日常的な解脱欠乏が肥大した結果、知人とのおしゃべりが主要な親和様式となり、そのネタ(=共有情報)としての芝居や歌や映画etcの娯楽市場が拡大してゆく。

人々に解脱収束を促す娯楽商品は、それら全てが性闘争と自我に立脚しているが故に、近代の解脱収束とは邪心収束とほぼ同義であり、娯楽作品と欺瞞観念もほぼ同義(同内容)である。

そうして、新聞を引き継いだテレビは、今や支配観念の砦(=共認支配の第一権力)となった。




四方勢至

「芸術」がこれからの社会にできる事

「芸術」がこれからの社会にできる事
 「1758 :心の時代」を読んで、「心の充足」を得るために「芸術」が道具になっていると、言い返せば「芸術」が根底からの充足を生み出していないように述べられている。がしかし、私にとっては「芸術」とはこの現代において新しい可能性を開き、観念機能及び想像力を育む古来より人類にとって最も必要なものと考えている。よって、「芸術」の持つ可能性を述べたい。
 今日グローバリズムが台頭し、人々の文化の記憶を破壊しつつある。世界の均質化が進む中で、人々は孤立し、心理的な鬱状態に陥っているように思われる。こんな状況は歴史上これまで無かった事だろう。つまり、20世紀に大衆社会が完成されたという事である。生活様式が均質化し、人々は古くからの農村に在ったような共同体を失い、孤立化に陥っている。そこから極端に感情的結合を求めるファナティシズム(狂信主義)が生じる恐れを、特に日本などではオウム事件を通じ人々は感じ取っている。そこに芸術が果たす一つの役割があると思う。
 私は建築を専攻している事もあってよく劇場や美術館に足を運ぶ。その中でいつも感じるのだが、演奏会などでの聴衆は、家に帰ればバラバラの寂しい群衆であるが、演奏に耳を傾けている間、非常に緩やかな連帯を感じているはずである。皆が一斉に感動し、自然に拍手がわく。昔の村や教会のような固定的な集団ではないにせよ、それは一つの救いになるはずではないだろうか。
 それらの中で、グローバル化がかってあった「小さな村」を壊してしまった。「小さな村」は境界に仕切られていたが、内部には自由があった。その破壊の一つの現況は或る意味においてインターネットではないだろうか。これらは情報をもたらす。情報は知識と違って断片的で、前後の脈絡は弱く、無秩序に人々を襲い不安にさせるところがある。しかし、情報を拒否する事は不可能だし無益でもある。むしろ情報を想像力でまとめていく以外に道はない。想像力を授けてくれる教育の場が芸術である。芸術の想像力こそ理性と感性の中間にあって、現実にまとまりを作り上げる事ができると私は信じている。
 人類は太古の昔から、神話がそうであったように隠喩としての言葉、言葉の「いのち」を用いながら苦悩を乗り越えてきた。これを儀式、儀礼として繰り返す事が、人間を救うための手段となってきた。ところが、グローバル化の中で言葉の豊かさが失われ例えば三角形のシンボルを見ても、そこから何か別のものを想像する力が衰えてきている。芸術を通じて人間は失いつつあるその力を、甦らせる事ができるはずではないだろうか。
 文化・芸術は儀礼性そのものである。儀礼や作法の中で人間は動物的感情を形式によって飼いならす。文明はそう言う儀礼を作り上げてきたが、二十世紀は、一方では感情をただただ解き放ち、他方では機械的な合理性を発達させてしまった。こうして破壊された文明を回復させるために芸術は役に立つ。文化の想像力を回復しなければならない。つまりそれは不安や閉塞間で膨れ上がった社会に対し、人々の観念機能作動に少なからず繋がっていく事だろう。
 又、それにつけて浮かび上がってくるのは人間の身体性、つまり人間は体を持っているという事である。情報化社会でも人が劇場や音楽会に行くのは、身体から直接発せられる何かを受け止めるためである。身体には、想像力を刺激する特別の回路があるようだ。そして、人々は出会いによってお互いに刺激を受ける。記号や情報が氾濫するこの世界に、身体の出会いの場を回復しなければならない。そういう場を提供するのも芸術なのであり、そのような場を増やす事が建築における真の宿命ではないかと僕は考えている。





江岸元 

署名も批准もするな! TPP署名式の直前に国連が各国政府にたいして異例の呼びかけ

日本語の正文もないのに協定に調印するとは、これでは国益を守れるはずがない。
だからこそ、極めて異例ではあるが国連機関は「署名拒否」「批准拒否」の要請をおこなっていた。
百々峰だより(リンク)より引用します。
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 国連人権理事会の「独立専門家(Independent Expert)」であるアルフレッド・デ・サヤス氏(Alfred de Zayas)は、TPPの署名式が直前に迫っている2016年2月2日に、関係各国政府に署名も批准も拒否するよう要請しました。
 国連機関がこのような「署名拒否」「批准拒否」の要請をおこうなうことは極めて異例のことであり、TPP「環太平洋連携協定」と呼ばれている貿易協定が、いかに人権と国家主権を踏みにじるものであるかを如実に示すものとなりました。

 しかも、この協定の正文は英語・スペイン語・フランス語のみで作成され、5000頁をこえるものなのに、日本語で正文が作成されていません。ですから、与党の国会議員どころが日本政府の閣僚も、ほとんど内容を知らないのです。にもかかわらず、彼らはこれに賛成し、署名と批准に狂奔・邁進しています。
 カナダはTPP協定書として英語だけでなく仏語のものも正文として作成するよう要求しました。これはケベック州が英語だけでなく仏語を公用語としているからです。ところが日本はアメリカに次ぐ巨大な経済力をもち、日本が脱退すればTPP協定が成立しないにもかかわらず、日本語による正文作成を要求しませんでした。

 安倍政権は選挙スローガンとして「美しい日本をとりもどす」と叫んでいましたが、日本語による正文なしの交渉では国益を守れるはずはありません。「豊かな日本を売り渡す」ことになるだけです。このような姿勢は、大学院博士課程までも日本語で教育できるにもかかわらず大学を「英語化」しようと狂奔している文教政策と瓜二つです。

 それはともかく、以下は、人権・健康・環境に巨大な悪影響をおよぼす危険性があるとしてTPPの「署名拒否」「批准拒否」を呼びかける、国連人権理事会「独立専門家」アルフレッド・デ・サヤス氏の声明文を、私が翻訳したものです。リンク

英語原文は下記URL(国連人権高等弁務官事務所)にあります。
リンク




佐藤晴彦

急落する欧米マスコミの信頼性


印刷やTVメディアが真実を伝えると信じているアメリカ人は葯32%。

マスコミに載らない海外記事より以下引用です
リンク
急落する欧米マスコミの信頼性
Paul Craig Roberts
リンク
最新のギャラップ世論調査では、わずか32%のアメリカ人しか、印刷やTVメディアが真実を伝えると信じていない。

18歳から49歳の共和党員と、無党派の人は、メディア信頼度が更に低く、それぞれ、14%、26%と、30%だ。

マスコミを依然信じている多数派を形成する唯一の集団は民主党員で、印刷媒体とTV報道への信頼度は、51%だ。次に信頼度が高いのは、50歳以上のアメリカ人で、信頼度は、38%だ。

高齢の民主党員たちが、かろうじてマスコミを信じている集団として唯一残っているという結論だ。この間違った信頼は、教化のせいだ。高齢の民主党員の政府に対する信頼は、共和党員の福音派キリスト教信仰に匹敵する。高齢の民主党員は、アメリカを大恐慌から救ったのは、フランクリン・D・ルーズベルトの指揮下にあった政府だと固く信じているのだ。21世紀の印刷メディアとTVメディアは、政府と歩調をしっかり揃えているので、政府不信が、政府に仕えるマスコミに波及しているのだ。この神話に洗脳されている民主党員の世代が亡くなるにつれ、民主党員の信頼度も、共和党員レベルに急落するだろう。

マスコミに対する信頼がなぜ崩壊したのかを理解するのは困難なことではない。我と、々が、またしても繰り返す瀬戸際にありそうな、腐敗したクリントン政権が、d多少は多様で、独立していたメディアの90%が、6社の超巨大企業に買収されるのを認めた。その結果、報道や論説の独立性が消滅した。

大企業による所有と、利益を目指す衝動という制限が、ジャーナリズムの自由に科され、資源が減らされて、マスコミは、政府や大企業プレス・リリースの反芻という、常に最も安価で、あたりさわりない報道をすることになる。

不動産税によって、ジャーナリスト社主家が、ジャーナリズムから追い出され、わずかに残った新聞は、若くて美人の妻やら、希少なフェラーリのような、入手対象となった。amazon.comのCEOで創設者のジェフ・ベゾスが、2億5000万ドルの現金を支払い、ワシントン・ポストを買収した。ジェフは、e-コマースの天才かも知れないが、ジャーナリズムということになると、彼はジェフ・ボゾ(=マヌケ)と呼んだ方が良いかもしれない。

9月12日、ワシントン・ポスト記者のシンディー・ボレンが、ワシントン・ポストを、スーパーで売っているタブロイド紙、ナショナル・エンクワイアラーのレベルにまで貶めた。編集者は一体どこにいたのかと、問うべきだろう。酔っぱらっていたのだろうか? ワシントン・ポストは、実際“その信用と博覧強記で定評があるナイジェリア人医師のベネット・オマルが”、ヒラリー・クリントンの明らかな健康上の問題は、プーチン-トランプ陰謀で、彼女が毒を盛られたせいである可能性があると結論付けたと報じた。
リンク

記事が、イギリスの捜査による状況証拠が、プーチンをリトヴィネンコ毒殺に結びつけているという根拠の無い主張を繰り返している以外は、シンディー・ボレンと、ワシントン・ポストの編集者は、オマル医師とつるんでいると結論できそうだ。

言い換えれば、まずリトビネンコ、今ヒラリーなのだ。

もし、状況証拠が、ワシントン・ポストの指針であるなら、政府の高い地位という好都合な場所にいて、連中の覇権戦争を、中東で始めるため、新たな真珠湾を切望していたネオコンが、9/11の犯人であることを、状況証拠が示唆しているのは明らかだ。

ところが、ワシントン・ポストは、陰謀論を貶めることが職務の専任記者を抱えており、 ワシントン・ポスト自体が世紀の陰謀論をぶち上げている。「プーチンと、トランプの陰謀で、アメリカ民主党大統領候補者に毒を盛った。」リンク

もしアメリカ人の生活に、知性、あるいはおそらく、ニュースを調べる十分な時間があれば、真実がこれほど欠乏することはなく、ワシントンによって、ロシアや中国との紛争に追いやられて、一体どのような利点があるのかを、アメリカ人も良く考えるようになっていた可能性がある。

我々全員死んでしまうだろうから、戦争で勝者などないのはまず確実だ。

Paul Craig Robertsは元経済政策担当の財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者。ビジネス・ウィーク、スクリプス・ハワード・ニュー ズ・サービスと、クリエーターズ・シンジケートの元コラムニスト。彼は多数の大学で教えた。彼のインターネット・コラムは世界中の支持者が読んでいる。彼 の新刊、The Failure of Laissez Faire Capitalism and Economic Dissolution of the West、HOW AMERICA WAS LOST、The Neoconservative Threat to World Order.が購入可能。

記事原文のurl:リンク
引用終わり




志水満

堀潤氏が明かす「僕がNHKを辞めた本当の理由」


NHKの後ろ向きの姿勢に嫌気が差し、2013年に飛び出したのが、元アナウンサーの堀潤氏だ。堀氏は現在、市民投稿型ニュースサイト「8bitNews」を運営。開かれたNHKへの改革を、外から働きかけている。そんな堀氏に公共放送のあるべき姿について聞いた。

■誰もが使えるNHKに

公共財って使えるものですよね。図書館や市民ホールもそう。でも公共放送は違います。視聴者は見るだけで使えません。

実は海外の公共放送は違うのです。市民が持ち込んだ動画を放送で流す「パブリックアクセス」という権利が認められています。米国にはCNNやABCなどのテレビ局と並んで、パブリックアクセス局のチャンネルがあります。僕は米国に留学した際、自主制作した映画をそこに持ち込んだらどうかと言われました。パブリックアクセスは米国だけでなく欧州や韓国、台湾でも導入されてきた権利です。

公共放送という冠が付いている以上、NHKはみんなが使えるNHKであってほしいと思っています。だから僕は退職して、外からNHKを変えていこうと考えました。NHKは公共放送という意識が薄いような気がします。

受信料を支払っている視聴者一人一人のための放送局であるはずのNHKが、残念ながら政権の方を向いているように感じます。この10年間はメディアの変革期でした。ネットやSNSが普及して大きく様変わりをする中、政権から送り込まれたNHKの会長職はずっと非メディア系の企業人が務めてきました。これでは柔軟に対応できません。

その間、中国国営放送のCCTVはネットを活用した海外向けのプログラムを手広く展開しています。アジア発の情報はすべてCCTV経由という事態になりつつあります。国益を考えると、日本からの発信力が弱いという状況でいいのかと思いますね。

■公共放送と政権との距離感

NHKに限らず、公共放送の宿命として政権との距離をどう取るのかという問題があります。これは世界的な問題です。英BBCグローバル部門トップのジム・イーガン氏にインタビューした際、彼は公共放送と政治権力の関係は世界共通の課題だと指摘しました。その上で重要なのが、公共放送としてのスタンスを明確にすることだと。BBCはイラク戦争で米国に加担した反省からトップを公募で選ぶようになりました。

韓国のKBSもセウォル号沈没事件が発生した時、大統領府から政権に批判的な報道をしないようお達しがあり、幹部が圧力に屈しました。でもそれで終わらず、公共放送は視聴者のための放送局だというスタンスを明示して、労働組合が大規模なストライキを起こしました。

オーストラリアの公共放送でも政権からの圧力で製作費を削られ、記者らが反発する動きがありました。政治が揺らげば、混乱や不安のタネは大きくなる。そこで政権はメディアに対するコントロールを強めたいという欲求が高まりますよね。

■つまらないテレビ局は潰れた方がいい

この間、高市早苗総務相が電波を止める可能性があるという趣旨の発言をした際、ジャーナリストが一斉に反発しました。メディアが国にモノを申すというのは日本のテレビ局に欠けていた部分なので、歓迎すべき話ではあるのですが、僕はイマイチそれに乗れなかった。

と言うのは、テレビ局は電波を特別に使っていいと認められている側にいます。そんな利権を謳歌しながら国に対して権利を奪わないでと言うのに違和感があった。海外では電波は開放され、みんなが使えるものになっています。そういう観点から見れば、ひょっとしてつまらない放送局は潰れた方がいいのではないかとちらっと思いましたよ。

米国では電波を自由に売買する電波オークションも始まりました。日本では総務省が一時導入を検討しましたが、実現しませんでした。

電波オークションのような劇的な感じで日本が大きく変わる可能性は低いでしょう。でもテレビ朝日とサイバーエージェントが手を組んで、「AbemaTV」という24時間配信サービスを立ち上げました。ドラスティックに変わらないかもしれないけど、じわじわと「メディアの公共化」は進んでいるのではないか。そんな期待を僕は持っています。

僕が番組を持っているTOKYO MXでも新しい試みが始まっています。彼らは「堀さん、パブリックアクセスやりましょう」と声をかけてくれ、視聴者から寄せられた動画や僕が運営する「8bitNews」経由の動画をニュースソースとして活用するようになった。

国内でできないことは海外に出て挑戦する。そうして徐々に実績を作りながらメディアの公共化を浸透させていけば、いずれは僕たちがNHKにコンテンツを納入する、という形も現実になるかもしれません。

引用:リンク





中 竜馬

ロシアではなく、平和こそ、アメリカ権力にとっての本当の脅威

怪物のようなアメリカ軍事予算は、木を見て森を見ずという諺の典型例だ。圧倒的に大成長しているがゆえに、いつも見過ごされてしまうのだ。

近年、アメリカ政府軍事支出の平均は、年間約6000億ドルだ。これは、教育、医療や社会保障予算を超えて、アメリカ政府の総裁量支出の半分以上だ。1.7兆ドルという全世界の年間軍事支出の三分の一を遥かに超えている。

1961年に、ドワイト・アイゼンハワー大統領が退任演説で警告した初期の軍産複合体は、実際、アメリカ社会と経済の中心的かつ決定的特徴となっている。アメリカ経済の余りに多くが、政府が資金提供する軍国主義に完全に依存しているのだから「アメリカ自由市場資本主義」などという話は、とんでもない撞着語法だ。

別の言い方をすればこうだ。他の国々に合わせて、もしアメリカ軍事予算が何らかの形で劇的に削減されれば、全能の軍産複合体と、我々が知っているアメリカという国家は崩壊するだろう。時間とともに、何かより良いものが出現するだろうが、既存権力の権益に対する影響は壊滅的であり、それゆえ徹底的抵抗を受けるのだ。

このロシアとの冷戦緊張エスカレーションという文脈の中で、今週ルーマニアにアメリカ・ミサイル・システムが配備された。8億ドルのいわゆるミサイルの盾はポーランドに拡張予定で 今後二年で、最終的にギリシャから南スペインにいたる全ヨーロッパをカバーする。

アメリカ政府とNATO幹部は、イージス対ミサイル・ネットワークは、ロシアを標的とするものではないと主張している。アメリカが率いる軍事同盟は、システムは、イランの弾道ミサイルや、他の特定されない「ならず者国家」からのものに対して防衛するものだと説得力のない主張をしている。ヨーロッパは、いかなるイラン弾道ミサイル能力の遥か射程距離外であり、昨年、テヘランとP5+1列強との間で国際核協定が調印されたことからして、「イラン・ロケットに対する防衛」という根拠は信じ難い。

新ミサイル・システムは、ロシアに向けたものではないというアメリカとNATOの否定を、ロシア政府は受け入れていない。クレムリンは、最近の配備を、自国の安全保障に対する脅威だと非難し、戦略的核の均衡を回復するための適切な対抗手段をとるつもりだと述べた。アメリカのイージス・システムは、NATO軍に、対ロシア「先制攻撃オプション」を可能にするものと当然見なすことができるためだ。

ここで、要点を論じる前に、いくつか明確にしておくことが必要だ。第一に、ヨーロッパ諸国は、昨年7月調印した画期的なP5+1協定の後、イランでの事業投資と市場を目指している。ドイツ、フランス、イタリア、イギリスとオーストリアなどのヨーロッパ諸国は、イランの巨大な経済的潜在力を活用しようと競っている。そのような有望パートナーに対して、イランが軍事的威嚇を考えているという発想は、ロシア当局者が指摘している通り、ばかげている。

第二に、ロシアに対して悪意はないというアメリカの主張は、常識に対する卑劣な侮辱だ。ロシアは、ヨーロッパにとっての攻撃的脅威だと指摘する、オバマ大統領やペンタゴン幹部を含むアメリカ政府幹部の無数の発言とこれは矛盾する。「ロシアによる侵略を抑止する」という明確な謙虚で軍隊、戦車、戦闘機、戦艦や、ロシア国境での軍事演習を増加して、アメリカ政府は、ヨーロッパにおける軍事支出を4倍増している。

言い換えれば、アメリカ政府によれば、ロシアは、最大のグローバルな敵、実存的脅威と見なされているのだ。だから、今週の東ヨーロッパへの、アメリカ・イージス・ミサイル・システム配備は、アメリカ政府の対ロシア好戦的政策と完全に辻褄があっている。アメリカとNATO同盟諸国が、ロシアに対する攻撃行進をしていないなどと結論するのは、理不尽で、馬鹿げたほど甘い考えだ。

ロシアを世界的な安全保障の脅威として描くのは、もちろんばかげている。中国、イランと北朝鮮に対する同じようなアメリカの主張もそうだ。アメリカが決めたそうした「敵」は全て大いに誇張されている。

欧米マスコミが執拗に強調する、ロシアがクリミアを「併合」し、東ウクライナを「侵略した」という欧米の主張は事実によって容易に反論が可能であり、それで実際、事実を曲げて伝えられている、キエフにおけるアメリカ政府による内密の政権転覆に対し、より正確にバランスをとることが可能になる。

ところが、絶え間のないマスコミ・プロパガンダによって維持されている欧米による恐怖利用は、これらの怪しげな主張を、ロシアが、ハイブリッド戦争で、全ヨーロッパを脅かしているという、より大きな構図に融合するのに一定程度成功している。これは、確かに、途方もないロシアという怪物の恐ろしいお話で、これには人種差別主義的な底流と、スラブ族の野蛮人として悪魔化した、ナチス・イデオロギーの前例がある。

しかし、このロシア悪魔化は、他のグローバルな敵と同様、アメリカ軍産複合体にとって、不可欠な小道具であり、アメリカ経済が機能するのに必須なのだ。

年間6000億ドルのアメリカ政府軍事支出は、ロシア支出の約十倍だ。それなのに、現実をひっくり返して、ロシアが脅威ということにされるのだ!

ストックホルム国際平和研究所SIPRIによれば、アメリカ軍予算は、続く世界の9大軍事支出国、中国、サウジアラビア、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、インド、日本と韓国の予算を合計したものより大きいのだ。

政府が助成している途方もなく巨大な軍事予算がなければ、ペンタゴン、大企業、ウオール街と、議会権益が支配している、我々が知っているアメリカ経済は、まず間違いなく消滅する。

構造的に、アメリカ経済は戦争経済で硬直化しており、アメリカがこれを維持する唯一の方法は、冷戦という形であれ、武力に訴える紛争の形であれ戦時体制を継続することだ。アメリカが現代国家として存在している240年の歴史で、アメリカが戦争や、海外で紛争をしていた時期が、95パーセント以上を占めることを歴史学者は指摘している。




柴田英明

ドナルド・トランプが911の真相を暴露したら世界はどう変わるか?

『575.ドナルド・トランプが911の真相を暴露したら世界はどう変わるか?』(福田元昭の「桜の木になろう」)リンクより転載します。
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(1)ドナルド・トランプの脅し

「528.池田真紀はサンダースを見習うべきではないか?」の(1)と「573.世論調査でドナルド・トランプの支持率がヒラリー・クリントンの支持率を抜いたのはなぜか?」の(6)で綴った通り、ドナルド・トランプは911の真相を暴露するぞと世界の支配層に脅しをかけている。528はこちらリンク。573はこちらリンク。

 ~中略~

(15)575.ドナルド・トランプが911の真相を暴露したら世界はどう変わるか?

★ケネディ兄弟暗殺事件と9.11事件の闇を暴露しそうなトランプ氏は暗殺される危険を察知して、それらの証拠を露プーチンに預けているのか
リンク

ドナルド・トランプが911の真相を暴露したら世界は激変します。既に、その兆候が出ています。CNNのキャスターが911テロを起こしたとされるアルカイダのことを「ヒーロー」と呼びました。「テロとの戦い」についてメディアはストーリーを変え始めています。

リンク

ドナルド・トランプが911の真相を暴露したら、ドミノ現象で今まで支配層に隠蔽されてきた事実が、続々と多くの人々に知られる事でしょう。敗戦直後の日本国民と同様にようやく現在の多数派が、敗戦前と同様に現在のマスコミも大本営発表だった事に気づくでしょう。それを指摘しマスコミが隠蔽する話題を中心に綴ってきた拙ブログは、その存在意義を失い終了となるでしょう。

ドナルド・トランプが911の真相を暴露したら、死の商人の極悪ぶりがあらわになります。そうすると戦争がやりにくくなりますので、平和な世界が実現します!

(16)日本の左翼は平和志向が強い

日本の左翼の皆様は、日本のマスコミの偏向捏造報道によって、ドナルド・トランプを嫌っている人々が多い。日本の報道が特に強調している面だけとらえると、トランプはレイシストで排外主義の極右となっってしまい、とても日本の左翼は好感をもちそうもない。

日本の左翼は平和志向が強い。ドナルド・トランプが911の真相を暴露したら、平和な世界が実現する可能性が高まります。ですから平和志向が強い日本の左翼はドナルド・トランプを応援すると、理想が現実化する可能性が高まります。

 ~後略~
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猛獣王S 

■「陰謀論」はCIAが発明して、マスコミ利用のプロパガンダで、相手を陥れたのが始まり。

ケネディ大統領は、複数犯でなく、たった一人の銃器携帯者に暗殺されたというウォーレン委員会の結論に異議の声を上げる多くの懐疑論者が多く出てた。そこで、その彼らの信頼を損ない追及をかわすため、CIAによって「陰謀論」が発明され、世間で使われるようになったのだ。

ウォーレン委員会報告を疑うことを、嘲笑と敵意の対象にするキャンペーンをマスコミを利用してCIAが成功したのが「陰謀論」の始まり。

9/11のような怪しい出来事の場合でさえ、人々の頭は“陰謀論変人”とあざ笑うよう、洗脳されて、証拠を破壊し、所定の手続きを無視し、捜査を遅らせ、それから、公式説明にお墨付きを与える政治的委員会を立ち上げられなくしているのだ。

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■あなたはマインドコントロールされたCIAのカモだろうか?
リンクマスコミに載らない海外記事より

誰かが、オーランド、サンバーナーディノ、パリやニースの公式説明に疑問を呈するのを聞いて、したり顔でほくそえんだことがおありだろうか?

9/11に関する疑問を投じた、2,500人の建築家やエンジニア、消防士、民間機や軍用機のパイロット、物理学者や化学者や元政府高官よりも、自分の方が優れていると感じておられるだろうか?

もしそうであれば、読者は、マインドコントロールされたCIAのカモの姿にあてはまっている。

“陰謀論”という言葉は、1964年、ジョン・F・ケネディ大統領は、一人の銃器携帯者に暗殺された。(犯人だと逮捕されたリー・ハーヴェイ・オズワルドも警察に拘留された際、訊問を受ける前に暗殺された)というウォーレン委員会の結論に異議の声を上げる多くの懐疑論者の信頼を損なうため、CIAによって発明され、世間で使われるようになったのだ。

CIAはマスコミ内のお友達を利用して、ウォーレン委員会報告を疑うことを、嘲笑と敵意の対象にするキャンペーンを立ち上げたのだ。このキャンペーンは“史上最も成功したプロパガンダ作戦の一つだった”。

ランス・デ・ヘイヴン・スミス政治学教授が、論文審査を受けた著書『アメリカにおける陰謀論』テキサス大学出版局刊の中で、そう言って、政府説明に異議申し立てする人々に対し、人々が、反射的、自動的に汚名を着せるようにするのに、CIAがいかにして成功したかを説明している。これは極めて重要で、読みやすい本で、『マトリックス』の世界から、読者を解放する力を持った、まれな一冊だ。

デ・ヘイヴン・スミス教授は、CIAの策謀を立案している原本のCIA公文書#1035-960を、情報公開法請求によって入手できたおかげで、この本を書くことができた。

官僚は、これほど古い文書が重要だなどとは思わなかったのだろう。文書には“不要になり次第、破棄すること”と記されているが、なぜか破棄されなかったのだ。CIA文書#1035-960は、本書中に複製されている。

CIAが、政府説明に対する懐疑論に汚名を着せるのに成功したことによって、9/11のような民主主義に対する国家犯罪 (SCAD)を調査するのを困難にしている。政府が証拠を破壊し、所定の手続きを無視し、捜査を遅らせ、それから、公式説明にお墨付きを与える政治的委員会を立ち上げることができる9/11のような怪しい出来事の場合でさえ、人々の頭は“陰謀論変人”とあざ笑うよう、洗脳されているのだ。

デ・ヘイヴン・スミス教授は、ケネディ暗殺や9/11などの出来事では、公式の警察や検察による捜査は決して行われなかったと書いている。出来事の解明は、政治的委員会に任されたのだ。

デ・ヘイヴン・スミス教授の本は、私が読者の皆様に書いてきたことを裏付けている。政府は、SCADが起きる瞬間に、公式説明を用意しておいて、そもそもの発端から論議を支配しているのだ。これによって、他の全ての説明が“陰謀論”になる。デ・ヘイヴン・スミス教授は、それをこう説明している。

“ミーム情報に対するSCADの手法は、CIAや、他の関与している可能性がある機関が、作戦のずっと前に、ミーム情報を作成しておいて、それゆえ、いかなる競合する概念が出現する前に、SCADのミーム情報が極めて迅速に現れ、広まってしまうようにするのだ。”

建国の始祖だったら、政府内部の権力の座にいる連中が、隠れた思惑に役立つ出来事の画策を可能にするのに、政府が関与している怪しい出来事と、見なしたであろうものに対する世論を支配するのに、CIAは成功しているのだ。9月11日の出来事は、ワシントンが支配する世界のための果てしない戦争という新たなパラダイムをうみ出した。CIAが世論の支配に成功したおかげで、支配層エリートの政治犯罪を捜査するのが不可能になっている。結果として、反逆罪が、アメリカ政府の公式政策になることさえ可能になっている。

デ・ヘイヴン・スミス教授の本は、アメリカ軍、CIAと、シークレット・サービスの人間によるケネディ大統領暗殺について語っている。ウォーレン委員会が、民主主義に対する国家犯罪を隠蔽したのと同様、デ・ヘイヴン・スミス教授は、なぜ我々は、9/11公式説明を疑うべきなのかを示している。そして、政府が我々に語るあらゆることも。

本書をお読み願いたい。薄い本だ。手頃な価格だ。現実を知るための準備だ。本書は、阿呆で、無頓着な、洗脳されたアメリカ人にならずに済む予防接種になる。CIAが、印刷された本書全てを購入し、燃やさないのに、私は驚いている。おそらく、CIAは、国民の洗脳に成功したことで、何の恐れもないとたかをくくり、アメリカ民主主義や、責任を負う政府が回復できるなどとは思っていないのだ。



猪 飼野

暴露!!消費税は全て”大企業減税”に充当されている!!そして外資に流れている!!


リンク
まず、下のグラフを見て欲しい

堤未果著 沈みゆく大国アメリカ<逃げ切れ!日本の医療>
51ページをスキャンしたものだ

お分かりになるだろうか

堤氏の記事を一部引用する

消費税が導入されたのは1989年
税率は3%だった
それから5%、8%と引き上げられたのだが
そのたびに法人税減税も同時に行われている

1989年から2014年までの消費税の税収は282兆円
セットで実施された法人税減税分は255兆円で
見事に相殺されているのだ
肝心の社会保障に関しては自己負担率がどんどんあがっているのを見れば、
その実態がわかるだろう

政府はこの消費税増税を、「高齢化社会の福祉のため」と大宣伝、
素直な国民はそれを信じ込んだ。
これについては1992年に、当時の加藤寛政府税制調査会長が、
「ああ言えば一般の人にわかりやすいからそう説明しただけ」と述べているが、
多くの国民には真相は知らされていない。

消費税がそのまま、法人税減税に充てられている事実は
そこそこの経済評論家なら、知っていることだ

たとえば、2016年6月1日放送の
おはよう寺ちゃん活動中(僕は毎日聞いている)の中で、
ゲストコメンテーター・三橋貴明氏もちょこっと触れている

「これね、消費税ってそもそも社会保障の財源じゃないんで
法人税減税の穴埋めなんです、基本的には」

リンク
23分あたり

実は、このことを複数の野党市会議員に告げたところ
彼らは、さらっと言ってのけた

「知ってますよ」

つまり、国会議員はおろか、市長会議員、経済評論家の間では
これは常識だというのだ

呆れて物が言えない

27年もの間ダマされ続け、
未だにほとんどの国民が知らされていないとは・・

これは、明らかに政府による詐欺だし
それを追求しない野党も信用できない

また、国民にその事実を教えないメディアも市長会議員も
はっきり言って、クズだ

そして、僕らの支払った消費税の行き先は
大企業役員報酬、株主利益(主に海外投資家)、
内部留保~海外投資、海外移転(タクスヘブン)

なんのことはない
僕らの消費税はグローバル金融に流れているだけなのだ

これを全国民が知れば
消費税不払い運動が起こるだろう

さて
僕は何度も書いてきたが
マスメディアに誘導されてはいけない、と

ブログやSNSで、マスメディアを批判しながらも
結局それに誘導され、情報発信?している人があまりにも多い

何度も言うが、NETで得られる情報は限られているし
真偽も不明

まるで、テレビを見ているように煽られている人たち

過去記事
“読書”で”脳の咀嚼(そしゃく)力”を磨こう!!
リンク
の中の堤未果氏の言葉を引用しよう

・一冊の本を読むことにより情報の咀嚼力が脳の中に培われる

・本を読む、活字を読むことで多大な情報がある中で自分が主体的に考える訓練になる

・流れて行くヘッドラインニュースは脳味噌の咀嚼力を殺ぐ

・活字を読んでいると映像(TV、NETを含む)を見たとき違和感を感じるようになる
 (なんか、このニュース変だ)
 それはジャンクフードばかり食べていると味が分からなくなるのと似ている
 それをやめてしばらくすると、急に添加物入りの食事をするとお腹が痛くなる
 それは、センサーが効き始めるということ

・映像もNETも1%が所有しているようなもの

・新聞もフィルターを通っているし、NETも二次情報である

・デジタルのNETは、簡単に検閲にかかる
(実際幾つかの記事やサイトが消されている)

・本は残された最後の聖域
 まだ検閲の手が回っていない 校正もあるし、出版社の責任もある

また堤氏は
できるだけデジタルでなく人間を介した情報をとろうと呼び掛ける

・人と会って意見をキャッチボールしよう

・メールは一方的

・現場からの情報をよく見る

くれぐれも
メディアにダマされないようにしよう!



谷田茂

安陪首相の唱える「攻めの農業へ」の欺瞞

■「攻めの農業」の欺瞞
日本の農業は補助金漬けで自立心が無く、いつまで経っても経営的に自立が出来ないと言われて久しい。
一方欧米の農業は大規模経営であり、経営的に競争力があり自立していると流布されて来ました。
しかしそれは事実では無い、という問題提起があります。
この記事を見るとTPPが、いかに米国による米国ための協定であることが分ります。
月間「三橋事務局」8/14号より引用します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「守る農業から攻めの農業に転換し、若い人が夢を持てるようにしていくよう万全の対策を講じていく。」
2015年10月9日、TPP総合対策本部の初会合で安倍首相はこのように発言しています。

残念ながら、この安倍首相の発言は『二重の意味』で間違えています。
まず1点目。
日本が守る農業をしているというのは真っ赤な嘘です。

(A)農業所得に占める直接支払(財政負担)の割合(すなわち、国がどれだけ農業を支援しているかの割合)を見ていただくとわかるように、
日本 15.6%
米国(小麦) 62.4%
フランス 90.2%
イギリス 95.2%
アメリカは品目によりますが、主要な穀物は手厚く保護しており、その割合は日本の約2~3倍。

フランスやイギリスに関しては日本の約6~7倍も保護されています。
この数値を見れば、日本の農業は保護されすぎているという論調が全くの間違いであることがよくわかります。

そして、2点目。
もし、この状態でTPPに参加し関税を撤廃したら、、、『全く保護されていない、持っている土地も狭い日本の農家』と『国に手厚く保護され、莫大な土地を持つ外国の農家』この2つが同じ土俵で戦うことになります。
(ハンデなどありません)

そのような状況で一体、どのように攻めの農業を実現するというのでしょうか?
                    以上引用終わり


荘家為蔵