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マスメディアを支配する闇の帝王は『電通』

“木走日記”と言うブログで、マスメディアに君臨する「電通」を告発していました。主要な点をまとめると
・日本のマスコミの最大のタブーは「電通」という一民間会社の暗躍
・広告代理店『電通』の批判記事を書けない
・捏造番組に平気で金を出してきたスポンサー「花王」と代理店「電通」
 の悪意満々の胡散臭い捏造番組利用・関わり
・報道されてまずいのは電通が巧みに仕掛けた視聴者には知らされて
 いない裏のカラクリ
・国民は政治や報道に「事実」を求めますが、オバケ代理店「電通」は
 事実などには無頓着なのです。 彼らにとって重要なのは「宣伝」

と言った内容です。このような事実を報道するのがメディアの役割のはずですが、現在の「市場」の構造では解決しない問題なのでしょうか!?

 以下は「4/10 マスメディアは絶対に報道しない「電通」というオバケ代理店の暗躍」より抜粋しました。
( 省略 )
 マスメディアの内情については、このI氏と某民放キー局の政治部の友人からの直接の聞き取り情報がとても勉強になっております。
 そして久しぶりにあったI氏からとても興味深い話をもらいました。
 彼の話に寄れば現在の日本のマスコミの最大のタブーは「天皇」でも「やくざ」でも「在日」でも「部落」でも「創価」でもない、それは「電通」という一民間会社の暗躍である、とのことなのであります。

 「広告代理店『電通』の批判記事を書けないという点だけは、朝日も読売も産経も日経も全国紙だけでなくもちろん地方紙も日本中の新聞は全紙共通している」というわけです。
 新聞がこの体たらくですから番組制作までたっぷり「電通」にしきられているTV局が「電通」批判などできるはずもないのだそうであります。
 電通社内には「新聞局」や「TV局」といった担当メディアごとにセクションが分かれています、そして彼らはメディア媒体のそれぞれの特性に合わせたしっかりとした公告ビジネスを確立しています。
 ですから、TVであれ新聞であれ日本の広告収入に頼る商業メディアの場合、主要スポンサーとのチャネルを事実上独占している大手広告代理店、中でも「電通」というオバケ代理店のご機嫌を損ねてしまうとそれこそ商売に直結してしまう大変な事態に陥ってしまうことになるのであります。

 「電通」という一民間会社の暗躍の例えばと言う例をI氏に尋ねたら、「「あるある大辞典」の捏造報道も、メディアは相変わらず関テレと下請け会社の制作姿勢批判に集中しているが、本当の問題は、そんな捏造番組に平気でカネを出してきたスポンサー「花王」と代理店「電通」の悪意満々の胡散臭い捏造番組利用・関わりにある」
 I氏は、捏造報道だけでなく番組で宣伝されるネタは、数ヶ月も前にそのネタに関わる製造業や流通業界にリークされ放送日には商流が準備されているのはTV局制作関係者には「常識」なのであり、通常そういったビジネスを仕切るのにスポンサー企業や電通を無視してはTV局単体では何もできやしないのだそうです。
 「「あるある」で本当に報道されてまずいのは捏造の事実じゃない、実は捏造してなくてもある種の情報提供番組はどこでも電通が巧みに仕掛けた視聴者には知らされていない裏のカラクリがあることの方なんだ」
 I氏は言い切ります。
 情報提供番組で取り上げるネタをスポンサーが電通を通して干渉し強要してくることは常態化しているし、ときには電通自らが仕込んでネタをTV局に提案することも珍しくはないというのであります。
 特にひどいのは休日の昼間などに放映されている芸能人がおのぼり気分で海外旅行や温泉旅行するいわゆる「旅行番組」なのであります。
( 省略 )
 しかし、旅番組などはまだ実害がないからいいでしょうが、「電通」の場合、何が問題と言えば「あるある」のような健康情報番組やときに「時事関係報道制作」にまでそのビジネス上の影響力を駆使して「捏造」まがいの番組によるネタの宣伝に深く関わっていることなのです。
 視聴者は番組に「事実」を求めますが、広告代理店である「電通」は事実などには無頓着なのです。
 重要なことは「いかに」「効果的な」「宣伝をして」マージンを得るか、その一点だけで番組の制作に関わるのです。
 ・・・
 今日では政党も広告代理店を活用して政党イメージを「効果的に宣伝」することに必死なのであります。
 I氏曰く、今日「電通」は政府中枢にも深く食い込み得意の公告ビジネスで巨額の利益をむさぼっています。
 電通の「官庁プロジェクト」では近年、年間約35億円もの政府公報予算を獲得してきました。
 年間約35億円の政府公報予算、すなわちこれ税金であります。
・・・
 マスメディアは絶対に報道しない「電通」というオバケ代理店の暗躍でありますが、私たち国民は彼らの暗躍をあなどってはいけません。
 問題はメディアだけではない広がりを持っています。
 国民は政治や報道に「事実」を求めますが、オバケ代理店「電通」は事実などには無頓着なのです。
 彼らにとって重要なのは「宣伝」なのであります。

向芳孝
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『暴かれた「闇の支配者」の正体 』ベンジャミン・フルフォード 著

『暴かれた「闇の支配者」の正体』 著者:ベンジャミン・フルフォード

●本の内容 「ブログ:神州の泉」参照

~前略~

>前半部第一章は、国富収奪の背景について説明があるが、その中で大半の部分を、植草氏が嵌められた国策的背景に言及している。また、章末には植草氏と著者との対談が載せられている。植草氏の無罪論に興味のある方や植草事件の政治的な背景をよく知りたいと思っている方々には必読の書である。フルフォード氏は私も寄稿している「植草事件の真実」という本もこの中で紹介している。

>第二章は「アメリカに翻弄されるメディアと政治家」、日本を売る国内エージェントの政治家の存在や、アメリカ支配に抗った政治家たちの末路などが説明されている。また清和会と経世会の暗闘やロッキード事件のことなど、戦後日本の暗部が語られている。

>第三章は「世界を牛耳る支配の構図」、

>第四章は「日本人よ、目を覚ませ」が書かれていてこれこそが著者のライフワークの真骨頂だろう。

>読後感は一貫して世界を支配する闇の侵攻が描かれており、その中で日本がその渦に巻き込まれ、植草氏などの良心的な識者が毒牙にかけられたことを説明している。

~後略~


猛獣王S

始原人類の生活に関して②~始原人類は極限生活

>投稿には初期の人類の生活について「住んだ場所は~洞窟~」「食料は骨の髄・頭蓋骨の脳味噌・コケ・虫・木の根など」「生きている動物は絶対に食べないということです」などという内容のものがあるが、初期の人類は洞窟以外でも暮らしていたし、死肉だけを食べていたわけではない。

次に食料に関してですが、「死肉”だけ”を食べていた」とは誰も言っていません。植物(根を含む)、昆虫類(シロアリ等)等も食料としていたでしょうし、死肉ではない動物類を食べていた場合も有り得ないことはないでしょう。

やはりここでも追求すべきは、「死肉以外を食べていたかどうか」にあるのではなく、始原人類がどのような外圧状況に置かれていたかにあります。

人類の「肉食起源」は、大よそ250万年前(初期原人=ホモ・ハビリス~ホモ・エルガステル)と言われていますが、当時の人類の遺跡から発見された動物の骨の化石が、ことごとく割られていたことから、骨髄を取り出して食べていたことが明らかになっています。
当時の人類は既に石器を使用していましたが、石を割っただけのごく簡易なものであり、肉食獣はおろか草食獣を狩ることもできません。石器は動物の骨を割り、骨髄を取り出すために使用していたと考えられます。

この「死肉食・骨髄食」は、北京原人、ネアンデルタール人の遺跡でも数多く確認されており、少なくとも5~10万年前までは、「死肉・骨髄」が人類の中心食料であったと言えます。(遺跡から出る動物の骨は、動物の”噛み跡”があるもの、年取った動物の頭等が中心)

先述したように、始原人類が死肉以外の食料を食べていたかどうかは問題ではなく、「髄を啜った骨」が数多く発見されている事実から、「始原人類は、他の動物が食べることのない「骨の髄」を啜るしかない状況にあった→食料を満足に確保できない極限状況にあった」ことが言えるのです。

なお、約18000年前沖縄の港川に住んでいた港川人(港川人1号男性)の化石は骨粗鬆によって骨が変形していました。骨粗鬆は極端な栄養不足によって起こるもので、当時の食料状況の厳しさを端的に表しています。既に狩猟用石器を手にしていた18000年前で、このような状況ですから、それ以前の人類の生存状況の過酷さは想像を絶するものです。

更に言えば、出土した人骨から推定された「縄文人」の平均寿命は、10代前半であったと考えられています。漁労・採取生活を営んでいた縄文人でこの寿命ですから、それ以前の髄を啜るしかなかった人類の平均寿命は更に低かったことは想像に固くありません。

 「外敵から隠れ住む洞窟生活」
 「他の動物が食べない骨の髄を啜るしかない食料状況」
 「極端な栄養不足と極めて短い平均寿命」

以上が、「始原人類の生活=極限生活」とする論理です。
現在解っている限りの事実(物証)から判断するに、この論理が最も論理整合性が高く、「洞窟以外でも暮らしていた」「死肉だけを食べていたわけではない」と言う理屈だけでは、全く反論・反証として成立していません。

西谷文宏

始原人類の生活に関して~始原人類は極限生活

>投稿には初期の人類の生活について「住んだ場所は~洞窟~」「食料は骨の髄・頭蓋骨の脳味噌・コケ・虫・木の根など」「生きている動物は絶対に食べないということです」などという内容のものがあるが、初期の人類は洞窟以外でも暮らしていたし、死肉だけを食べていたわけではない。

「初期人類」をどの時代までとするかの問題がありますが、(類塾の本格コースの内容に即して)ここでは、人類史に弓矢が登場する前後=1万年前~1万5千年前を初期人類=始原人類として話しを進めます。

まず、人類が洞窟に住んでいたとする証拠ですが、150万年前から100万年前に至る様々な人類化石が発見されている、南アフリカ スワートクランズ洞窟において、120万年前(ホモ・エルガステル)の火の利用跡(確認されている限り、人類史最初の火の利用跡)が確認されています。

北京原人(ホモ・エレクトス 50万~30万年前)の生活遺跡(火の使用跡)も洞窟(猿人洞)から発見されています。

昨年発見された、人類最古(10万年前=ホモ・サピエンス)の装飾品と考えられる加工された貝殻が発見されたのは、イスラエルとアルジェリアの洞窟でした。装飾品類は、南アフリカのブロンボス洞窟でも発見されており、こちらは大よそ7万5千年前のものと判定されています。ブロンボス遺跡からは、彫刻が施された土の塊も発見されています。

3万年前の生活跡と見られるドイツ南西部にある洞窟からは、マンモスの牙で作られた精巧な水鳥の彫刻が発見されています。

有名なラスコー・アルタミラ・ショーヴェ等の洞窟壁画は、3万年前(ショーヴェ)~1万5千年前(ラスコー)に描かれたものです。
なお、ラスコーの壁画には、「弓矢らしきもの」も壁画として描かれています。

上記のもの以外にも、120万年前~1万5千年前に至るまでの人類の「生活痕跡」の悉くが洞窟から発見されています。同様にアウストラロピテクスからホモ・サピエンスに至るまでの人類の化石が、洞窟から発見されています。
これらの物証が示しているのは、人類は火の使用・道具の使用と言う観念機能の著しい進化を遂げてからも、(更には弓矢と言う防衛力を手に入れてからも)洞窟で暮らしていたと言う事実であり、そこから「外敵から身を隠す為に相対的に安全性の高い場所=洞窟で暮らしていた→始原人類は凄まじい外圧に晒された”極限生活”にあった」と考察することは、何ら矛盾のない論理です。(洞窟外で暮らしていけるならば、光もなく、陰湿な洞窟空間を生活空間とすることに利点はありません。)

確かに、「化石」だけを見れば、現在最古の人類とされるサヘラントロプス・チャデンシスがチャド砂漠で発見されたように、洞窟以外で発見されている事例もあります。しかし、これらは「生活痕跡」ではありません。つまり「化石のある場所」はその個体が死をその場で迎えたということしか意味しません(動物に襲われそこで死を迎えるなど)。だから生活痕跡のない化石の発見場所をもって「洞窟以外でも暮らしていた」とするのは、論理的に無理があると言うものです。
洞窟における「生活痕跡」の発掘が示しているように、初期人類(1万5千年前以前)が、「洞窟で生活していた」のは紛れもない事実です。事実を事実として教えることに、一体何の不都合があるでしょうか。

また、100歩譲って、仮に洞窟外の「生活痕跡」が発見されたとしても、その発見がもともとの投稿者の言わんとした趣旨である、始原人類の”極限生活”を否定する物証とは成り得ません。
追求すべきは、洞窟以外でも暮らしていたかどうかにあるのではなく、始原人類がどうのような外圧状況に置かれていたかにあります。

繰り返しになりますが、弓矢が発明された一万5千年前近くに至っても「洞窟での生活痕跡」が数多く物証として確認されていることは、それ以前の野生動物に対抗できる武器を持たなかった”始原人類は、外敵から隠れ住む必要のある極限生活にあった”ことが容易に類推されるでしょう。

~②につづく~

西谷文宏

短絡的な思考回路としか思えない

東部ニューギニア強姦殺害・人肉食事件についてのリンクを読みました。
読んでいて目を覆いたくなる報道内容です。だけど、この報道された記事はどこかバーチャルの世界のようにも感じられました。
事実として本当にこのような残虐な事件があったのでしょうか?事実を追求した結果の記事なのでしょうか?記事を書いた人は現実に目を向けているのでしょうか?疑問の念が出てきます。
「面白ければよい。話題になればよい。」という自分発の感情で記事を書き、それはまるでゲーム感覚で記事を書いたような印象を受けました。
さらに、この記事を書いた記者の思考回路が短絡的に犯罪をしてしまう人の思考回路と似ているように感じられました。


<記者>
退屈だ。ネタがない。→もっと人々の注目を集めたい。→センセーショナルな見出しを付けて、捏造記事を書けばいい→注目が集まって売り上げが伸びればいい。


<短絡的に犯罪をしてしまう人>
(退屈や親和欠乏など)不全を抱えている。→親や周囲の人間の注目を浴びたい→人を傷つける行為をする(殺人や放火を簡単にする)→世の人々を騒がして、自分の存在を知ら示めたい。


両者の思考回路はどこか似ているように感じられてなりません。


この記事の執筆者は対象性が欠落し、一面的な視点しか持ち合わせていないから、ゲーム感覚で歪曲した記事しか書けないのでしょう。
1つの記事に対しては、それまでの取材相手、資料に関わった人たち、そして記事を読む人々というように必ず対象が存在するはずです。
執筆者はその対象性を見失って、状況判断は自分だけになってしまうから、自分の利益第一で、捏造・歪曲も平気となってしまうのでしょう。


事実追求もせず、自分勝手な解釈で「シナリオ」を書き上げ、世を騒がそうとするマスコミに「ペンの暴力だ、これはテロだ」と批判が集まるのはこのような所以だと思いました。

佐藤麻衣

戦争の起源時期について

>「人類が殺し合いを始めたのは、たった6000年前からです」などという内容のものがあるが 、戦争の起源や初期の人類の生活についてはいろいろな説がある。根拠があやふやなものを断定的に伝えることは問題
(朝日新聞社週刊朝日 質問状)

ウバイド後期と呼ばれる6200~6000年前頃のメソポタミア地方において、集落入口を防御する軍事施設や土製投弾などの武器が、5500年前には明らかに防衛のためと見られる、集落全体を囲む城壁跡が発掘されています。

これ以前の時代に人類同志の戦闘があった可能性として、①約3万年前に、ネアンデルタール人がクロマニヨン人との生存闘争で滅ぼされたのではないかとする説、②複数の石鏃で傷つけられた縄文人の骨が発掘されていること、③約9000年前のイェリコというヨルダン地方の遺跡に集落の囲壁が発掘されていること、などが「るいネット」でも指摘されました。

しかし、①については戦闘行為の跡はなく近年では両者の混血説もあること、②は、出土した人骨は集団間の戦闘と言えるほどの個体数ではないこと、③は、その形態から見て防御用の城壁ではなく低地における防災用の囲壁である可能性が高いことが、様々な資料調査の結果分かりました。

これらの根拠から、現時点の考古学的成果から言える、「戦争」と呼べる本格的な集団間の戦闘行為は、約6000年前のメソポタミアを最古として良いと考えます。これらの検討に対して、より確からしいと考えられる事例、あるいは反証事例があれば、お示し頂きたいと思います。

なお、引用された元投稿の文意が、戦争の起源を○○年前と「断定」するためのものでないことは、150380の方のご指摘の通りだと思います。

>「人類が殺し合いを始めたのは、たった6000年前からです」などという内容のものがあるが 、戦争の起源や初期の人類の生活についてはいろいろな説がある。根拠があやふやなものを断定的に伝えることは問題
(朝日新聞社週刊朝日 質問状)

ウバイド後期と呼ばれる6200~6000年前頃のメソポタミア地方において、集落入口を防御する軍事施設や土製投弾などの武器が、5500年前には明らかに防衛のためと見られる、集落全体を囲む城壁跡が発掘されています。

これ以前の時代に人類同志の戦闘があった可能性として、①約3万年前に、ネアンデルタール人がクロマニヨン人との生存闘争で滅ぼされたのではないかとする説、②複数の石鏃で傷つけられた縄文人の骨が発掘されていること、③約9000年前のイェリコというヨルダン地方の遺跡に集落の囲壁が発掘されていること、などが「るいネット」でも指摘されました。

しかし、①については戦闘行為の跡はなく近年では両者の混血説もあること、②は、出土した人骨は集団間の戦闘と言えるほどの個体数ではないこと、③は、その形態から見て防御用の城壁ではなく低地における防災用の囲壁である可能性が高いことが、様々な資料調査の結果分かりました。

これらの根拠から、現時点の考古学的成果から言える、「戦争」と呼べる本格的な集団間の戦闘行為は、約6000年前のメソポタミアを最古として良いと考えます。これらの検討に対して、より確からしいと考えられる事例、あるいは反証事例があれば、お示し頂きたいと思います。

なお、引用された元投稿の文意が、戦争の起源を○○年前と「断定」するためのものでないことは、150380の方のご指摘の通りだと思います。

 
田中素

 

バラバラの個人が収束する「共認支配の場」・小泉劇場2005年

>●しかし、マスコミが一方通行(統合階級の染脳機関)という形であれ、バラバラに分解された解脱個体を収束させた全く新しい社会的な共認形成の場(正しくは共認支配の場)を作り上げた事は、注目すべきである。

2005年の郵政民営化を争点とした衆議院選挙は、まさに、「全く新しい社会的な共認形成の場(正しくは共認支配の場)を作り上げた」。

「郵政民営化イエスかノーか」、「郵政民営化法案に反対するのは抵抗勢力である-小泉は善で反対派は悪(抵抗勢力)」と言う単純なメッセージが、テレビのワイドショーと報道番組で頻繁に流される。
その上、法案に反対した議員の選挙区には、「刺客」としてテレビの絵になる女性キャリアを送り込み、その追っかけ報道が選挙報道の大半を占める。

まさに、マスコミ(テレビ)が、主婦や若者と言うバラバラに解体された個人を、小泉劇場に収束させた。その結果が、与党である自由民主党・公明党に衆議院の2/3の議席を与え、どんな法律も成立可能な権力を獲得させる結果となった。

村田貞雄

件の質問状に対して親の目(世間)から拝見させていただいた

>・投稿には「強くなった生物はなぜ絶滅しちゃうかというと、強くなった生物にとって今の環境でもう満足しちゃっているから進化する必要がないんです。だから環境が大きく変化しちゃうと適応できなくて絶滅するからなんです」「長期的な目で見るなら、もっと凄い大進化を遂げるのは弱者であり、逆境の中から可能性が生まれるのだから」など、自然科学の説明に「強い」「満足」「凄い大進化」「逆境」など道徳的価値判断を伴う用語が入っている説明をしているものが多数見受けられる。自然科学を使って人間の道徳を語ることは、人間に都合の良い事象だけを取り上げることに繋がる危険があるため、教育方法として問題があるのではないか。>投稿150312文中の記者の質問を引用

 強い、満足、凄い大進化、逆境、などの言葉は、元々の類塾ネットに投稿されたluckyさんの意図を汲み取ると、間違っても道徳的な使い方をしていない。単にそのおかれた状況を説明しているに過ぎず、実感しやすいよう使っているに過ぎない。むしろ、世間で流通している弱肉強食(こちらのもつ意味を社会生活に押し広げようとする価値観のほうが問題)という現象に対して、改めなければならないと結んでいる。

 記者の文章自体が前段と後段において分裂しているだけに、言いたい事とその事例に何のつながりがあるのか逆に疑問を呈するところである。おそらく、後段の事例はかつてのナチスドイツが進化論を悪用し、ユダヤ民族の虐殺を引き起こしたことを想定しているのかもしれないが、この事例では一切関連しない。

 更に言えば、人間とって都合のよい事象という捉え方自体、類塾ネットに対して、不見識といわざるを得ない。むしろ、それは、欧米を中心とする資本主義に当てはまる価値軸であろうことは、現代日本にいながら仕事をしている立場でも想像に難くない。そういう一面的な価値軸であるからこそこの閉塞した社会となっているのであり、物事の背景に潜む事実構造を突き止めようとすることが必要なのは言うまでもない。そのために科学思考を育てることが不可欠なのである。これこそが、これからの社会を背負う子供が獲得すべき能力なのであり、教科学習に窮している学校では対応できない部分でもある。

 この質問には、むしろ、子供の思考力が奪われたままで、いつまでも政府およびマスコミ、ならびに、文部科学省の検閲を通過して骨抜きにされた教科書を信じ続けろといわんばかりの時代錯誤を感じる。

匿名希望

マスコミ:現代の「異端審問所」

〈プロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)による観念支配こそ、時代閉塞の元凶 〉が、今回の〈週刊朝日〉の「質問状」によって実証された。
 万人による真理・真実・事実の追究の「圧殺」が、「専門家によると」の一言に集約されている。

 自由に研究・検証し、それを公開し、自由に論議することが学問本来のありかたであり、だからこそそれは路上で、その結節点である広場ではじまった。先日、テレビでヨーロッパ最古の大学が生まれたイタリアのボローニャの街の探訪番組があったが、現代の街路、広場の光景や人びとの語らい、議論の光景は、まさに11~12世紀の「学問の場」を彷彿とさせるものであった。

 特定の言説しか認めない、それ以外を排除・抹殺するといえば、キリスト教の「異端審問所」が想起されるが、実はこの存在が明確に弾圧装置として機能したのは、いわゆる「中世」ではない。既に「近世」と言われる15世紀以降のスペインにおいてであり、「魔女狩り」もまた「近世」-いわゆるルネッサンス・宗教改革・大航海ーの時代である。北アメリカの植民地の「サーレムの魔女」事件は新教徒の移民共同体での出来事である。すなわち、世界市場形成の時期であり、市場社会形成のための国家機関による「統合」の手段であった。

 現在は、その市場社会は行き詰まり、統合者は「起死回生」策を必死に模索している。行き詰まった時に創始期を振り返り、そこで採られた手段を再試行しようとするのは統合者の常套手段である。

 マスコミは今まさにその「異端審問所」の役割を演じ、、「魔女狩り」を行うとしている。

中村朋子

情報という商品の製造責任を果たせ

>そうすることで己は責任を取らず、第3者的立場、あたかも、まるで現代の神官のように振舞うことで、絶大な権力を享受し続けている。

「誰かがあんなこと言ってた。」
「専門家に言わせると○○らしい」

事実や根拠も確認せず、マスメディアという強大な共認力を行使して不確かな情報を流布するやり方は差し詰め現代の“魔女狩り”のようだ。あるいはマスコミがネタにする“学校のいじめ”と同じ構造だと思う。

考えてみればマスコミはマスメディアの行使という特権を利用した商業活動を行っているに過ぎない。

したがってあるマスコミは統合階級の発信内容に同調し社会共認の主流を作り出し商売をしているし、そこからあぶれた別のマスコミは仕方ないのでその否定をベースにして主流ではなく傍流を対象にして商売をしている。

そのくせ提供している情報に責任をとらないようにしている。

最近スーパーでも農作物の生産者紹介がされている。

マスコミも消費者に情報という商品を提供している以上、消費者が納得するような製造責任(情報根拠)を果たすべきだ。

そして欠陥商品を作り出すマスコミは、他民間企業がそうであるように即刻消えてもらいたい。


孫悟空

“記者の正義”は“権力者の横暴”

とある週刊誌記者のブログを見ていたら、“権力者が笑い、弱い者が泣きを見る・・・記者はそういう事実を暴きニュースにして、弱い立場の被害者の力になる。”と言う主旨が書かれていた。

なるほど、記者魂とは正義の味方というわけだ。しかし実際は部数を伸ばすために捏造記事や、個人のプライバシーを暴くゴシップ、スキャンダルで多くの取材対象を傷つけ、その痛みすら感じていない。

この志と現実のギャップはいったい何なのだろう。多分彼らは何もわかっていない。すでに自分たちが権力者であり、弱いものを泣かせて高笑いしている存在であることを。

「権力は腐敗する」。自らの腐敗に気づかぬまま能天気な正義感で社会を窒息させている張本人が現在のマスコミである。現実が見えない者に事実を暴くことができるはずがない。正義をつらぬくのならマスコミ人は早速社会から退場するしかない。


阿部和雄

「口コミ」の変化

「口コミ」というと、どんどん尾ヒレがついて、些細なことがとんでもないことに化けて伝わる、というのが昔の常識だった。ex)「豊川信用金庫事件」(リンク)

 ところが、統合不全の状況に置かれている現代の人々は、答えを探して事実収束している。だから、「事実収束」のフィルターを通すことで、「口コミ」は逆に浄化されてゆく。中身や根拠のない情報は、口コミを経るごとにどんどん無内容化・無毒化されていき、最後には中身のない薄いものになっていく。そんなしょうもないネタを喋り続けることに、普通の人はエネルギーをさかない。

 人々の意識潮流は、それくらい急速に変わっている。昭和30年代には150万部を売り上げたと豪語する週刊誌が、そんなことにも気づかずに、相も変わらずゴシップ記事や捏造ネタを載せつづけていることに、マスコミのおかしさを感じる。

 
みに とまと 

我々は「思想」を持たないと信じて疑わない厄介な「思想家」たち

まず、考えてもらいたいのは思想というものは何かということである。

「思想」…考えられたこと。かんがえ。

もし生まれてきてからこれまで一度も「考えたことがない」という人がいるならその人は思想を持たない人といえる。

ある思想(考え)があり、その思想(考え)に対して様々な考えを持つ人々がいる。人々が「その思想(考え)」に対して様々な考えを持ったまさにその時「思想」が生まれるはずだが、現代人の多くはそう思っていないらしい。

「私は思想を持たない」といのは、その人が考えた「結果」である。それでも思想を持たないと思いたければ宗教団体「私は思想を持たない教」でもつくるしかない。かなりの信者を集めるかもしれない(すでに多くの「考えることの出来ない人々」が集まっている)。思想を持っていながら持ってないと信じている人は自分が信者になったことさえ分からない。


「私は思想家ではない」という宗教家みたいなことをいう人々に教えてあげたい。

人々は全て思想家である。思想家でない人がいるならそいつはあほだ。

 
匿名希望

情報と認識の違い、必要性

>超国家・超市場論23 『必要か、必要でないか』という真っ当な判断の土俵が出来てゆく

情報は、他人を堕し抜く為にある。(中身問わず)
認識は、他人と繋がる為にある。(事実を問う)

情報は価値を操るとこさえ出来れば、一面的でも嘘でも問題ない。ゆえに当然、限界性を伴う。“お金第一”“自分第一”という私権観念が崩壊した以上、今や無力に近い。

逆に現実の圧力の中、充足可能性を探る過程で生まれた認識は、普遍的。拡がることで更なる可能性を持ち、使われることで活きていく。


二力
 

対米追従路線は日本のエネルギー資源確保の点で極めて危険な選択

 かつて(現在でも?)、世界の石油産業を牛耳るのは、セブンシスターズと呼ばれる、米英資本の石油会社というのが常識だった。しかし、現実は、かなり異なる。

■石油・ガス企業の生産量、埋蔵量
(単位 生産量=千バレル石油換算/日、埋蔵量=百万バレル石油換算)
1 サウジアラムコ(サウジアラビア)10277/300579
2 ガスプロム  (ロシア)     9550/190061
3 NIOC   (イラン)     5216/293818
4 エクソンモービル(米国)     4323/ 22636
5 ペメックス  (メキシコ)    4302/ 18693
6 ロイヤルダッチシェル(米英)   3914/ 15278
7 BP     (英国)      3659/ 18657
8 PDVSA  (ベネズエラ)   3214/104229
9 ソナトラック (アルジェリア)  3123/ 37133
10シェブロンテキサコ(米国)    2574/ 12205
11ペトロチャイナ(中国)      2550/ 18345
12トタール   (フランス)    2516/ 11299
13KPC    (クウェート)   2358/108911
14NNPC   (ナイジェリア)  2287/ 40052
15ペトロブラス (ブラジル)    2060/ 11772
リンク
 上記の表に見るように、現在、石油・ガス生産のうち、米英資本の占める割合はごく少ない。
 しかも、上位にある、サウジアラビア、ロシア、イラン、ベネズエラ、ブラジルといった国々は、現在、既に反米路線を明確に打ち出しているか、またはアメリカの世界戦略に対して反対の立場にある。
 
 要するに、現在の石油生産の主軸は、反米国が握っている。
 しかも、埋蔵量の点では、さらに反米国の石油資本の割合が増える。

 日本は、米国の同盟国との立場を強めているが、それは、エネルギー・資源の確保という点において、極めて危険な選択であることを意味している。

阪本剛

日銀は、戦後すぐにアメリカの傀儡になっている

戦後の日銀総裁に法王と呼ばれた「一万田 尚登」氏がいた。
彼は、就任後すぐにGHQへ挨拶に行き、その後GHQの力をバックボーンに権力を思いのまま揮っていたらしい。

>現在の米国占領支配体制を形作っている官僚独裁体制を打ち壊すには、政権交代がなければ実現は不可能である。日本国民のほとんどはいまだに米国に占領されていることにすら気付いていない現実は、官僚とマスコミによる洗脳工作が巧みだからだ。憲法第九条と日米安保がある限り日本が独立国であるとどうして言えるのか。

私は経済問題を論ずる時に、日銀を攻撃目標にしている。日銀こそがアメリカ政府ならびにFRBの出先機関であり、日本の経済は日銀のサジ加減一つで、景気不景気が左右されるのは、日本の失われた十年を見ても明らかだ。

戦後間もなく日銀の総裁の一万田尚登氏が経済の法王として君臨した。バックにはGHQがひかえていたからである。ちょうど現在の日銀体制と同じである。1942年に制定された日銀法においては、日銀は大蔵省の下に入っていた。それを日銀はアメリカと結託して日銀法の改正圧力をかけた。その結果日銀法が改正され1998年から施行された。この事を見ても日銀がアメリカの出先機関であることが言える。日銀の法王と言われた一万田氏はアメリカ大使になっている。

そのほかにもエリート官僚の多くはアメリカに留学し、アメリカのエージェントとして日本の官僚組織の中枢を握っている。このように強固な官僚組織を打ち壊すには、アメリカのエージェントとなっている官僚を首にする必要がありますが、自民党政権では無理だろう。自民党議員の中にもアメリカのエージェントがたくさんいるからだ。

私自身は日本経済が上手く行っているのならそれでもいいと考えていましたが、冷戦崩壊以降のアメリカの対日政策の転換に早く気付くべきであった。1985年のプラザ合意以降アメリカは日本の経済的資産の収奪を実行してきた。その尖兵となったのが日銀であり官僚組織の中のアメリカのエージェントたちだ。ビックバンを実行させた榊原英資などいい例だ。

日本が独立国であるのなら金を貸す場合、自国の通貨で貸すのが常識だ。しかし日本はアメリカへドルで貸している。そのおかげで240円で貸した金が今は120円になっている。ドルが紙切れになれば日本は丸々損をすることになる。このような馬鹿なことがどうして起こるのか。日本がアメリカの植民地であるからだ。

日本には民族主義政党が存在していない。自由民主党はアメリカのCIAによって作られた政党であり売国政党だ。だから憲法改正すらする事が出来ない。自民党より右の政党が存在しないと言うことは何が原因か。文部官僚により学校教育で徹底的な反日思想教育が行われたからだ。東京裁判史観は歴史教科書に色濃く反映されている。(「株式日記と経済展望」)

政府・マスコミが牛耳られ、日銀も戦後すぐにアメリカの言いなりになっている所を見ると、日本経済への支配共認のすり込みは、相当巧みにされている。

塩貝弘一郎

「答えがない」って何?

「答えがない」のは、「答えを与えられない」からか? それとも、「答えを出せない」からか?

同じ「答えがない」不全ですが、この意識の違いは大きいと感じます。

前者は「答えは誰か(統合階級)が与えてくれるもの」という傍観者の意識。
後者は「自ら答えを出そうとしている(が出せない)」という主体(当事者)の意識。

マスコミによる共認支配の怖さとは、自ら答えを出そうとしている主体(当事者)の意識さえもが悉くつぶされている(=傍観者のままに留まらせている)、この点にこそあるのだと気付きました。


浅見昌良

短絡脳の進行化

☆テレビの普及による短絡脳の進行
与えられた情報が全てで、という意味では1960年前後に既に普及率9割になったテレビの影響も大きい。テレビによる思考停止はるいネットの投稿にも数多くあるが、70年全共闘運動を出発に思想が見放され運動がお祭り騒ぎ化していった事も短絡脳の産物といえる。

☆親和欠損による同化能力の低下→短絡脳の進行
1970年以降の短絡脳化は、貧困消滅による規範の崩壊、父権の崩壊→母親の自己中化の進行が大きい。観念以前の現実を察知する本能、共認回路は乳幼児期の母親との親和充足によって真っ当に形成されるが、母親の自己中化による家庭の教育機能の崩壊が、目先の観念だけが思考の全てになってしまう短絡脳を生み出している。90年代に急増した自己中殺人(オームや酒鬼薔薇、幼児虐待等)はそれが極端に進行した現象だろう。

☆統合不全の顕在化による短絡化の進行⇒どうする?
2000年以降、私権の崩壊による心底での統合不全の顕在化は、答え探索の気運を生み出したが、短絡脳の進行化も相まって答えを出せずにますます短絡的に与えられた観念や目先の秩序に収束している。

このように見てくると短絡脳の進行化という現象は観念進化で適応してきた人類にとって致命的ではあるが、その一方で統合不全を心底に漸く本気で観念回路を作動させ答え探索を始めたという意味では、新しい観念を吸収していく可能性基盤にもなり得る。

問題は、与えられるその観念が的確に現実を切り社会統合に導く道具なのか、それとも欺瞞や矛盾を覆い隠し滅亡へと導く旧観念なのかが、今後短絡脳の進行を食い止めて行く鍵になるのは間違いなさそうだ。

喜田育樹

市場経済は搾取し続けることはできるか?

先日のなんでや劇場において、資本家による労働者からの搾取や、先進国による後進国からの搾取は今も続いており、その構造が変わらない限り、搾取→貧困と飢餓は再生産され続けるのではないか?(つまり貧困は消滅しないのではないか?)との疑問が提起された。

搾取という手垢のついたマルクス用語を止めて、正確にその中身を見てみると、力の原理による略奪、序列原理にもとづく収奪、そして市場における騙しとにその方法論を分類することができる。しかし、今やストレートな略奪や収奪は、先進国間はもとより後進国に対しても不可能である。また市場経済を通じての騙し、それもあからさまなバブル→バブル破壊→売り逃げという仕掛けは通用しなくなり、巧妙な共認支配(情報操作)による騙しへと追い込まれつつある。147574

しかし、世界の反米潮流は止めようがないし、もはや先進国内に新たな市場人口を生み出すことが難しい以上、後進国に投資し、全体として後進国の生活水準を引き上げていこうとする流れ(多極主義)が資本家の中にもある。つまり大局的には「搾取可能性は閉ざされつつある」とみるべきだろう。

では、どうして価格格差という騙しは成立したのに、情報操作という騙しは成立しないのか?

価格格差という騙しが成立した背景には私権時代固有ながら、世界的には普遍的な「性欠乏→解脱欠乏→快美欠乏」の存在をあげることができる。この普遍的欠乏を万人が求めたが故に、市場経済という騙しは成立してしまった。しかし、時代は共認原理へと転換した。共認支配(情報操作)は人々の共認欠乏を利用しようとするものであるが、共認は(期待と応望という)双方向性をその本質としており、本質的に支配できるものではない。また万人を統合できるものは事実だけであり、グローバル化(世界レベルでの価値の共有)と騙しは真っ向から対立する。このように共認原理の構造に照らしてみれば、市場経済による搾取可能性は原理的にもありえないということになる。

鍵は共認形成の場を情報操作機関であるマスコミから奪取できるかどうかにあるのではないか?

山澤貴志

囚われ続けたパラダイム

>性の私的選択に基づく私権文明の全体が、その私的な性選択の必然として現在の支配共認を生み出し、その支配共認に囲い込まれて全面閉塞状態に陥り滅亡してゆく。040104

自由や平等や平和といった言葉にそれほど強いこだわりはなくても、「性の私的選択」はかなり根深い部分でその絶対性やこだわり(=それがないと生きていけない)をもっているのが現代の意識ではないか。

一番わかりやすい事例が自由恋愛を否定したり、職業の自由を否定したりしたとたんに、それはファシズムであり、全体主義であり、専制主義だと敬遠されること。自由の反対は強制であり、自由を放棄すれば強制しか選択枝が残らないと考えてしまう思考の狭さこそ、私権時代5000年のパラダイムに囚われている証左だろう。

しかしその以前500万年にわたり人類は、期待と応望の同類圧力を生命源として生きてきた。
私的選択が絶対→自由絶対でもなく、私権闘争絶対→力の序列支配(=強制共認)でもない社会がはるかに長い間営まれ続けていた。

こういった史実にふれることで、これまでの思想や観念がいかに古く、役に立たないばかりか、可能性を閉ざしていることに気づく。

 
野村徹

外交下手は本源性が残っているから

>一時的には国内的不満が高まることもあろうが、むしろ、国際紛争や環境破壊など、山積する課題が一国だけの問題にとどまらない現在、”日本的外交”-共認外交とでも呼ぶべきもの-がより高次に問題を解決する場面があるのではないだろうか。


日本が外交下手であるとはよく言われている。

しかし、外交下手とは、換言すれば「自分(自国)さえよければ良い」という私権に染まることができなかった、つまりは本源性が残ったから。

アメリカ、中韓の外交姿勢に嫌気がさしているのはどの国でも共通ですし、国際紛争や環境破壊に対する危機感の高まりは顕著。であれば、日本がいち早く私権パラダイムからの脱却を表明し、共認社会の理論パラダイムを提示できれば国際世論(アメリカ発でしょうが)など怖くはない。むしろ私権パラダイムの牢獄でもがいている発展途上国は選択肢が増え、むしろ追従の姿勢を示し国際世論は味方する。

バブルを経験し私権が最も衰弱している日本、本源性が残された日本は、滅亡へと突き進む私権パラダイムから脱却できる大きな希望なのではないだろうか。


斎藤直

アメリカの汚いやり方は、昔から変わっていない。

るいネットにもよく引用されている、「暗いニュースリンク」の右フレームの下の方に、「アクセスの多い記事」というコーナーがある。そのいちばん上にある、

「隠蔽されたヒロシマ:いかにして陸軍省のタイムズ記者はピューリッツア賞を勝ち取ったか」byエイミー・グッドマンリンク

を、ぜひ一度読んで欲しい。長いけれど、一気に読めてしまう。ヒロシマ・ナガサキの事実を、いかに自国に都合の良いように歪めてきたか。その片棒を担いだ記者にピューリッツア賞を受賞させ、事実が明らかになって以降もそれを剥奪することなく平然としていられるマスコミが、どれだけ狂っているか。

このときにしたこと以上のことを、現在イラクで行っていることは、想像に難くない。60年前よりも、より汚く分かりにくいやり方で、多くの人々を苦しめているに違いない。

匿名希望

テレビカメラの放列を前に、誰に詫びて頭を下げたか

 テレビカメラの放列を前に、社長連が深々頭を下げまくる姿は日本列島の風物詩となった。禿頭では社長にもなれない。先日などは気象庁の予報官までが、桜の開花予報のズレ位のことで、深々と頭を下げている。鶯の初音や桜の開花の話ではないか、頭を掻いて済ませば良い。
 
 しかし大いなる疑問は、誰に詫びて頭を下げたかだ。
 今日の新聞によれば、鹿児島県警本部長はでっち上げの冤罪事件をマスコミ(カメラの放列)には詫びた。しかし、当事者の12人には頭を下げないと云う。『耐え難い苦渋を強い続けた12人には、頭を下げない』。これは全く本末転倒、怪しからん話だ。そもそも長閑な20軒の山村集落に百万円もぶち込む選挙が元が取れないこと位、素人にもわかる。
 
 これらの構図はマスコミが第一権力であることを如実に示す。
 絵になる様に深々頭を下げるまで(トップの首を差し出すまで)、追及の手を緩めないマスコミ権力を思い知っているからだ。


持国天

不全感がマヒしてきている?これはヤバイ!

>この場に参加されている多くの方々も、現代社会の行き詰まりと大転換の予感があるから

西暦2000年前後は今よりも、ものすごく不安感が強かったような気がする。終末的な、変な事件や災害、倒産などが相次ぎ、漠然とした不安感が強かった。
現在も、漠然とした不安感がないわけではない。けれど、当時よりも表出度合いが弱い気がする。
ニュースを見ても「またか」という感じだったり、なんか慣れてきた?のかもしれない。
これってけっこう怖いことなんじゃないか?

不全感がマヒしてきたのか?

ひょっとしたら、目先の秩序収束や家族収束を強めるうちに目先の安心感に浸って、ますますものを考えられなくなってきているのでは?
ますます、観念支配が強まり、考えようとしなくなってきているのでは?

 
かなめんた 

理論パラダイムの構築が滅亡から再生への唯一の可能性

>しかも第三に、その様に人々の意識を私権信仰の中に囲い込みながら、私権圧力の衰弱に応じて労働活力や関係耐力の衰弱、あるいは性欠乏・物的欠乏の衰弱etc.当の私権活力は衰弱する一方である。かくして、性権力とその支配共認=囲い込み共認は、人類を全面閉塞の牢獄に閉じ込めて終った。それは同時に、性権力とその支配共認自身が、全面閉塞状態に陥ったことを意味する。今や人々は、支配共認に囚われた牢獄の中で、ただじっと死を待っているだけである。(実現論4_1_02)

活力衰弱、全面閉塞している庶民の目は、その統合階級への批判に転じている。マスコミにしろ、政治家の不正疑惑にしろそのネタにはことかかない。しかし一方で、引責辞任しようが何をしようが何も変る気がしないというのも庶民共通で感じるところでもある。

小泉前首相が「ぶっ壊す」ことを掲げたのに共感する庶民が多かったのは、その政治体制そのものというよりは、自分の観念を壊して欲しかったのだろうと思う。壊したとしてもそれに代わるものは何もなかった。まさに、上記の牢獄の中でもがいているのを象徴している。

この流れはなにも日本のみならず、先進国は多かれ少なかれ抱えている。これまでは、アメリカやロシアの大国が経済大破局後に暴徒化したら呑み込まれて滅亡ルートかな、と考えていたが日本が先んじて理論パラダイムを示すことができるならば、それに同調する土壌はあるように感じている(夫々の国の庶民階級もまた牢獄、反アメリカの潮流など)。それが滅亡から人類の再生へと転換できる唯一の可能性なのだと思う。

斎藤直

マスコミ=無料というごまかしが、社会変革を阻害している。

>次代の活力源=圧力源が人々の外向収束⇒認識収束に基づく認識闘争=評価競争であり、それらを収束させる『認識形成の場(統合サイト)』こそ、次代の人類の最先端機能(つまりは新たな社会統合機構の中核)となる

>祭りであれ、集いであれ、認識形成サイトであれ、何であれその場が、社会空間において物的な快美収束と同等以上の収束力を持つとすれば、人々はその場にお金を使う。

人々の意識は、確実に快美欠乏を脱し、認識収束に向かっている。しかし、まだまだ社会全般に認識にお金を払うという意識は低い。

有用な認識に、お金を払おうという機運が高まるのを阻害しているのが、無料を装って無益な情報を垂れ流す、マスコミ=テレビでは無いか。

直接お金を支払わなくても良く、スイッチを入れるだけで情報が流れてくる気軽さから、認識収束した人々の殆どは、まずマスコミに吸収されていく。

強大なマスコミが無料で情報を垂れ流すことで、有益な情報に積極的にお金を払おうという機運は確実にそがれていく。巨大資本がダンピングで市場を独占し市場を操作するように、マスコミは無料を装って情報市場を独占している。

さらに、よく考えるまでも無くテレビは無料などではなく、購入する商品の代金の中に宣伝費として含まれ、全て国民が支払っているのである。

そして残念ながらマスコミが提供しているのは、無料だから見る程度の質の低い番組であり、相変わらず古臭い個人主義思想に固執しており、認識収束した人々の欠乏に答えられるはずも無い。

その結果、人々は答えを出すことに展望を失い、認識収束の潮流は行き場を失って潜航してしまう。

野田雄二

マスコミの流す雰囲気によって変わる内閣支持率

実態や中身を考えれば、小泉前総理も、安倍総理も、中身が無い事には変わりありません。

では、安倍内閣と小泉内閣の違いは、何か?

146472『安倍内閣の人気がでない理由』で挙がられた理由以外のもので、重要だと感じるのは、安倍晋三総理(と内閣)が、「アメリカから信用されていない」ところです。
⇒安倍政権はアメリカから疑われ監視されているリンク

では、誰を使って、監視と抑止を続けているのか? 間違いなく”マスコミ”です。
閣僚の不祥事、耐震偽装疑惑などがこの時期に一気に噴出するのは、誰かがマスコミにリークしたとしか考えられないからです。

そして、(マスコミの報道を見ていると)「何となく」安倍晋三総理には期待できなくなっていっています。
【↑ここがポイント】
ですから、左系のブログも右系のブログも「何となく」安倍晋三総理には期待していないし、批判的です。
つまり、現在の「安倍内閣への期待薄→支持率低下」も、マスコミが誘導している可能性が高いということです。

マスコミが流す雰囲気によって、世論が揺れ動き、支持率が大きく変動することの方が問題としては重大だと感じています。

内藤琢 

「自分に累が及ばなければ・・・」の方がマスコミにとっては好都合

>反応が鈍いのは“自分”に累が及ぶかどうかが判断軸になっているところか。

非常に興味深いアンケート結果だと感じました。

マスコミ不信は、この間の捏造問題、偏向報道を通じて明らかに高まっていると身の廻りや露店でも実感するところです。

ただ、マスコミ不信が高まってきたからといって安心はできません

よく耳にすることに「自分はテレビをみない」「メディアリテラシーが大事」があります。

これらは己を防衛するという発想=自己中でしかなく、社会にどのような影響を及ぼしているかという思考は見受けられません。

むしろこれらの発想がここまで広まっているという事態は、マスコミ(=個人主義の喧伝機関)による染脳が確実に進んでいると捉えるべきです。

一部の人がマスコミの不正に気付こうと、マスコミにとっては痛くも痒くもない。
共認形成の場を握れている限り、統合階級に都合のよい共認支配はいかようにも可能です。
むしろ、自分のことしか考えない傍観者になってくれることの方が自らの立脚基盤を脅かされることがないので好都合です。

「自分に累が及ばなければ・・・」

その発想そのものがマスコミの染脳の結果であることを発信していく必要を強く感じたアンケート結果でした。

清水昌広

マスコミの二重の妨害

現在は、社会系のブログが多数存在する事実や社会問題を取り上げた書籍が売れるということから、社会収束、認識収束の潮流は無意識というレベルを超えつつあると思います。

そうした状態でも、マスコミや政治家、学者の垂れ流す、「答えのない認識」に付き合っているのは、やはり他に答えがないという状況故だと思います。しかし、認識収束は進んでいて、マスコミ批判もどんどん顕在化していることを考えると、社会問題について語り合う仲間が身近に存在しないということの理由のほうが大きくなっているのではないでしょうか。

我々は、共認動物ですから、何であれ新たに獲得した言葉(観念)は使ってみたい(共認充足したい)ものです。

その「使う」→「共認充足を得る」という場の必要度はどんどん上がっていると思います。
その邪魔をしているのが、マスコミが垂れ流す私権観念群(自分収束やしがらみに囚われた観念群)だと思います。マスコミは「答え」を目くらますだけでなく、我々の共認充足の場も奪っているのだと思います。

しかし、社会系ブログの広がりから考えると、マスコミに見切りをつけた人たちが、新たな認識収束の場=認識形成サイトへ参加してくるのも時間の問題だと思います。

鈴木龍也 

本来の社会の姿って?

社会は、人々の共認によって成り立っている。
その共認内容が、一部の偏った人に作られたモノだとしても、私達は無意識に、彼らに影響されている事が多い。

だけど、
>傍観者に過ぎない特権(知識)階級が供給する情報をひたすら消費してきた読者・観客は、当然のことながらもっとひどい傍観者に成り下がってゆく。

を読んで、無意識に影響されてしまうのはまさに、社会に対する意識が「傍観者」だからなんだ!という事が分かった。

統合階級も普通の人も、「社会」という同じ空間に一緒に生きている。
だから、「社会」=自分たちの生きる場であり、本来なら一人一人が考えるべき課題。

ならば、そもそも情報を「発信する側」と「受信する側(傍観者)」という位置づけが生まれている状況自体、本来ならあり得ない事だし、これによって社会が成り立ってしまっている現状も、実は極めて危険な状態なんだと思った。

吉岡由香里