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踏み止まれるか、否か。

2-3ヶ月前のある夜、何気なくテレビをつけたらいきなりこわそうなオジイサンのアップが映し出された。

「付和雷同」

久しぶりに聞いた旧い言葉に何となく引かれて画面を見た。

「政治家をはじめとしてあなた方(インタビュアーであるマスコミのこと全般だと思う)も含め、みんなが付和雷同という感じになっている。何かあったときに『ちょっと待てよ』というのがない。これは非常に危険な状態だと思う」

このようなことを話していた。後で知ったのだが、80は優に過ぎたと思われるその老人は、引退したGという政治家だった。

知っているけれど使ったことのない言葉の響きに、改めて辞書を引いてみた。

付和雷同・・・自分に決まった考えがなく、軽々しく他人の説に従うこと。

ムムッ、耳が痛い。。。

>目先の秩序収束の潮流に乗って、支配層の3/4と庶民の1/2は小泉の誤魔化しのパフォーマンスに飛びついた。今後しばらくは、この誤魔化し充足の風潮にマスコミ(や一部の学者)が乗り、ますます根本問題の本質追求は捨象されてゆくだろう。(73071)

小泉さんに興味なく、ましてや郵便局が国営だろうが民営だろうが「(郵便物がちゃんと相手に届きさえしたら)どっちでもええ」というのが実感の私には、衆議院解散とか何とか全然わからない。なので今度の選挙も間違いなくパスする。政治的、社会的には付和雷同ではなく、傍観者なのだと思う。

仕事はさすがにそうは行かない。傍観者では何の活力も湧かない、そのことを直感的に知っているから、あらゆる局面で外圧を探し、それを内圧に代えて、次の場に突き抜けようとする。と言えばかっこいいが、要するに前しか見ていないということで、「何でもいいからやらないよりやったほうがマシ」という安直な気持ちがあることは認めざるをえない。

仕事の場面でも「何かあったときに『ちょっと待てよ』」と止まるのは、実はとても耐力がいる。2段階の耐力が要求される。

まず「何かある、ちょっと違う」と気づくということ(気づかないふりをしてやり過ごすこともできるのに、あえて気づいてしまう、・・・うっ、気づいてしまった)。そして次に選択する道、「とりあえず今はこれでしのいでおこう(泥沼化することも多い)」となるか、「うーん、このまま見過ごすことはできん。もう一度最初から考えてみよう」と止まるか。

ひとところに踏み止まるということは、前へ、次へ、と進みたい私にはかなり苦痛だ。が、やはり結果として、早目に手を打った方が「吉」と出るケースが圧倒的に多い。

「(小泉の誤魔化しのパフォーマンスに飛びついた)支配層の3/4と庶民の1/2」は付和雷同と化したひとたち、そして「どうでもええ」と冷やかに眺める残りの傍観者たち。いずれのひとたちもここで「ちょっと待てよ」と、踏み止まることができるか否か。

今、日本全体が本質追求の分水嶺にいる。



阿部佳容子 
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援助が貧困を生んだ

> しかし、経済援助と同じように、一方的に与えるだけの福祉やサービスを供給するだけでは、現実の社会を変えていくことは何もできないのだと思う。
(92809 東さん「『援助』は貧窮する国々を救えるか?」)

 地球上の最貧国の3分の2、寿命最短国35カ国のうち34カ国がアフリカにある。

 第二次大戦後、60年間で、先進国からアフリカには1兆ドルの資金が動いたといわれる。サブサハラ諸国には1970年からの32年間で2940億ドルの援助があった。
 国連、世界銀行、NGOなどが援助の采配をしてきた。

 しかし、1990年に2億3000万人だったアフリカの絶対貧困層は、2001年には3億1000万人に増えている。
 援助は、貧困を解決できなかったのだ。
 なぜか?

 ケニアのエコノミストであるJ.シクワチは、アフリカで競争力のあった農業、繊維工業が壊滅したのは、援助のためだという。

 それは、以下のようなプロセスをたどる。
 1、ある国で旱魃などで食糧不足が起こる。
→2、その国の政治家、援助機関が国際世論を喚起する。
→3、食糧、衣類が援助される。
→4、旱魃地域に届くのは援助物資の一部。
   残りは政治家が私物化するか、闇市場で安値で売却される。
→5、格安の商品が大量に流れ込むため、その国の農業、織物産業が競争力を失う。
(以下、1から5を繰り返す)

 国際援助を受けたアフリカの多くの国で、援助資金をネコババする政治家、官僚がその国の支配者になってしまった。
 例えば、コンゴのモブツ大統領、ケニアのモイ大統領は、4億ドルの国際援助資金を横領していた。

 2005年7月、イギリスのグレンイーグルズ・サミットで、アフリカ援助増額が決定している。
 これに対し、シクワチは、こう語る。
「それだけはやめてほしい。
 援助を多く受け取った国ほどダメになったことを、アフリカ解放後の四十年間ははっきり教えた。
 どうか我々の自立に手出しをしないでください。」

資料:「選択」8月号



阪本剛

今回も小泉パフォーマンスに引き寄せられるのか

>小泉の自己正当化の為の攻撃的詭弁とパフォーマンスに、支配層の3/4→庶民の1/2が飛び付いている。その世論を背景に、官邸による報道規制の圧力が強まっていることも容易に見て取れる。
これは、かなり危ない。いったい、何故小泉の支持率は高いのか?(73070)

今回の解散時のアンケートでは、内閣支持率は微増ながら上昇。民営化の中身がなんなのかよく分からないまま、評価している所はまさに中身がない。
年金問題の時のように勉強している人は当然少なく、郵政民営化は極端に言ってしまえばどうでも良いと思っているのではないだろうか。

衆議院で否決されたわけでもないのに衆議院解散(確かに参議院は解散できないが)は、自己正当化のための八つ当たり的なパフォーマンスである。
さらに反対派自民党議員(いわゆる造反議員)の選挙区に強力な対抗馬を立てる徹底ぶりである。
それをマスコミが面白可笑しく煽り立て、まさにお祭り騒ぎ化している。

>しかし、共認形成の場を支配するマスコミ(や政治家や一部学者)の発信内容が誤魔化し一色になり、国家破綻や社会矛盾が激化していくのに本質追求はおろか本質批判さえ出てこなくなった時、過半の庶民(と良心的な知識人)の間に、「何かおかしい」「これは危ない」という危機感と、発信者への不信感が広がってゆく。
その時はじめて、(なんで屋の共認運動を契機に)路上や仲間内での答え探索の潮流がはっきりと顕在化し、勢いを増してゆくことになる。(73071)

今回の選挙がパフォーマンス発になっているだけに、選挙後のデータ(投票率or開票速報番組の視聴率or造反議員と対抗馬の当落etc)が、庶民の意識が相変わらずパフォーマンスに飛びついたままなのかを測る良い材料になると思われる。

 


坂本日出夫 

マスコミの欺瞞共認か庶民の事実共認か

>大衆は、この戦いを冷静に見ており、これではっきりと旧勢力がいかに今までの権力の座にしがみつこうとしているか、そして今やマスコミよりネットの方が如何に大衆に指示されているかが明確な形となって現れるのではないでしょうか。(佐藤さん87920)

 先日、ある会社の社長さんについて、こんな話をうかがった。

 本業とは別に、社会的に意義のある事業をしているのだが、新聞やテレビなどマスコミからひどい扱いをされるのだそうだ。
 相手の悩み、弱みにつけこんだ悪徳商法であるかのような見方をされたり、事実の一面だけを取り上げて誤解を招くような表現をされたりで、本業にも支障が出るらしい。
 せっかく社会の役に立とうと始めた活力再生事業なのに、これでは踏んだりけったりである。

 このようなことは、この社長さんに限らず、意外と多いのではないだろうか。

 企業や生産者がマスコミの過剰なバッシングや誤報に苦しまされる例は絶えない。果ては、世論が誘導された結果、生活を破壊されたり、冤罪に泣く無実の人びとも少なくないと聞く。
 社長さんに言わせると、マスコミには、既に善悪などの価値判断があらかじめあって、その価値判断の枠組みに、取材した事実をあてはめているように感じるという。事実を見る以前に、既に見方が決まっているのだ。だから、その枠組みに都合が悪い事実は切り捨てられてしまう。

 しかし、「るいネット」は違う。
 問われるのは、事実認識、それだけである。
 マスコミのバッシングに泣き寝入りするしかなかった庶民にとっては、「るいネット」は駆け込み寺のような存在になりうる。

 実際、地道に蓄積されてきた「るいネット」の投稿群はかなりの影響力を持ち始めたということを聞く。マスコミに頼らない、庶民による共認形成が力を持ち始めたということだ。

 マスコミの欺瞞共認か庶民の事実共認か。
 その断が下される時は、遠くないと思う。


阪本剛 

二重の否定・不可能視

露店で話しをしていると、マスコミの論調をそのままトレースするような発言が多いのは圧倒的にオジさん世代の方々で、若者にはその傾向はほとんど見られないことに気づきます。
この点で、若者はマスコミにあまり毒されていないのではないか、と思っていましたが、間違いだったようです。

例えば、
現在50歳以上のオジさん世代について考えてみると、彼らは、全共闘運動のような、自らの時代的体験をもって社会(変革)を否定視しているのでしょう。言葉を変えれば、ある程度実感を伴って否定視できるのだと思います。
加えて、残存する序列意識が、その上位に位置するマスコミに対して反応し、無条件で一定以上の信頼を置いている。
すると、自らの社会に対する否定視とマスコミの否定・要求論調がフィットした部分に対しては、一種の共感を伴って「この情報は正しい」と鵜呑みにすることができる。オジさんのマスコミ情報鵜呑み発言には、こういう構造があるのだと思います。

一方、
先にも書いたように、若者にはマスコミの論調をそのままトレースするような発言はほとんどみられません。しかし、思い起こしてみると、確かに10代の若者あたりは社会に対する否定視が強いような気がします。
僕は今まで「これ(若者の社会に対する否定視)は、反抗期みたいなものだろう。」くらいにしか考えていませんでしたが、実は大きな間違いだったようです。

>その際たる原因の一つは、マスコミが「社会」に対して行う(答えの無い)否定的報道・情報の繰り返しにあるのではないか。(91339 瀬川さん)

現在の10代の若者世代は、自分たちが接する大人たちの実感を伴った社会への否定・不可能視に加えて、マスコミが流し続ける社会への否定・不可能視という二重の否定・不可能視教育を受けているのだと思います。
そして、そのような教育を長年受けてきたことによって、脳回路上も否定・不可能視が太く形成されているため、通常の思考パターンもそれに順ずるかたちになってしまう。

マスコミの論調を鵜呑みにした発言があるかどうかで、マスコミによる共認支配の度合いを図れないということがわかりました。
むしろ、上記のように長年かけて形成された否定・不可能視の方がダメージが大きい。

若者はよく「社会というものにリアリティを感じない」と言います。
その一因は、否定・要求の対象として描き出される社会に対して、潜在意識は「何か違う(否定・要求の対象ではないはず)」と感じているためではないか。つまり、現実に言われていることと潜在意識の間にズレがあり、しかし、そのズレが何なのかわからない(答えがない)ため、捨象もしくは忌避していることが、社会に対するリアリティを殺ぐ原因になっているのではないか、と思います。

多田奨 

テレビの歴史

1925 東京放送局(現NHK)がラジオ局を開局し放送開始
 テレビジョンが発明される
1926 公共放送局「NHK」(日本放送協会)が「テレビジョン放送」設立
1929 イギリスBBC放送局がテレビジョンの実験放送開始
1938 <日中戦争>
1939 日本発のテレビジョンの試験放送
   <第二次世界大戦勃発>
   日本初のテレビジョン受像機、日本ビクターより発売
1941 <太平洋戦争勃発>
1945 <広島、長崎に原子爆弾が投下され、終戦>
1951 ラジオ東京放送(→TBSラジオ)開局
1953 シャープより国産第1号の白黒テレビ発売(14インチ/175,000円)
   NHKがテレビジョン放送を開始
   日本テレビが、初の民放としてテレビジョン放送開始
   「第4回NHK紅白歌合戦」がTV初放送
1955 第27回衆院選挙でNHKがテレビ初の選挙開票速報
   民放第2局目(ラジオ東京テレビジョン→TBS)開局
1956 NHK、カラーテレビ実験放送開始
1957 人工衛星打ち上げ
1958 東京タワー完成、運用開始
1959 NHK東京教育テレビジョン放送開始
   初の民間教育専門局、日本教育テレビ(現・テレビ朝日)開局
   フジテレビジョン開局
   皇太子と美智子様のご成婚パレード中継(テレビ普及200万台突破)
1960 NHKと民放4局がカラーテレビの本放送をスタート(開始当初カラー番組は1日1時間、白黒番組が主流)
   ラジオ東京放送が東京放送(TBS)に社名変更、地方局でも社名変更相次ぐ
1962 史上初の“キャスターニュース”TBS「JNNニュースコープ」放送開始(初代キャスターは共に新聞記者出身の戸川猪佐武と田英夫)
1963 国産初のTVアニメ、手塚治虫の「鉄腕アトム」放映開始
   世界初の人工衛星によるテレビジョン中継放送
1964 国内2番目の民間教育専門局、日本科学技術振興財団テレビ局(東京12チャンネル、現テレビ東京)開局
   「東京オリンピック」のテレビ観戦中継
1966 日本のカラーテレビジョン放送、試験放送から本放送へと着手(実施)
1968 翌々年にかけてUHF局開局ラッシュ
1969 アポロ11号の人類初月面着陸の様子を38万km離れた月から中継
1970 日本万国博覧会開会式
   日本初の「人工衛星」打ち上げ
1972 NHK総合テレビが全番組カラー化
   連合赤軍浅間山荘事件(NHKと民放4ネットワークが生中継)
1973 民間教育局制度の廃止によりNETテレビと東京12チャンネル、一般局に移行
1974 石油ショックの影響により、NHK、民放各局が深夜番組を自粛
   NHK初の大型ニュース番組「ニュースセンター9時」放送開始(キャスター磯村尚徳)
1977 NETテレビが全国朝日放送(テレビ朝日)に社名変更
1978 日本テレビが全国規模としては初のテレソン番組「24時間テレビ・愛は地球を救う」を放送
   日本テレビ、NHK、フジテレビ、TBSが音声多重放送開始
1981 東京12チャンネルがテレビ東京に社名変更
1983 「放送大学」が首都圏の第16チャンネルで“開講”
   民放TV局が100局の大台に
1984 NHKが衛星放送の試験放送を「NHK衛星第1テレビ」として開始
1987 TBSとフジテレビ、24時間放送開始
1988 朝日放送が史上初のハイビジョン生中継(試験放送)
   NHKもソウルオリンピックにおいて初のハイビジョン生中継
1989 昭和天皇崩御NHKと民放5ネットワーク、同日と翌日に渡り特別編成を実施(民放はCM自粛)
   NHK、衛星(BS)放送本放送スタート
   「朝日ニュースター」など多数の専門CS局が都市型CATV向けに放送開始
1991 民間で初の衛星放送局「日本衛星放送」開局(「WOWOW」ほか)
1993 「マルチメディア放送」を目的とした「CS」(通信衛星)放送事業者が衛星放送に参入
1995 <阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件>
1998 テレビの地上電波(専用機器)とパソコンを使ったテレビ番組受信システム「ADAMS」、「BitCAST」が販売開始
1999 とちぎテレビ開局、地上波民放TVの新規開局は127局目の同局で“打ち止め”に
2000 「BSデジタル放送」を東京キー局の各社が開始
2003 テレビ朝日、正式社名を「全国朝日放送」から「テレビ朝日」に変更
   NHK、民放一斉に地上波デジタル放送開始
2004 BSデジタル放送、地上デジタル放送の全番組にコピーワンスの著作権保護技術を適用開始
2011 地上アナログ放送廃止(予定)


(参考)『テレビる毎日』リンク

 


矢ヶ崎裕

アメリカ支配とは、旧観念支配

アメリカ支配の本質は、旧観念支配にあるのではないでしょうか。

世界一の経済大国とはいえ、その内実は財政赤字、貿易赤字が膨らみ続け、消費体質の国家であり、決して本物の力(生産力、体力)があるとは言えないでしょう。また、軍事力は高いとはいえ、今や一国の軍事力で他国をどうこう出来る時代ではありません。
そのような状況の中でのアメリカ支配とは、他国がアメリカの言うことを聞いてしまう、従ってしまうということだと思いますが、そこでのアメリカの理屈は、「民主化」「自由化」であり、その根拠としているのは「自由、個人、人権」といった旧観念だと思います。

元々これら旧観念が広まっていったのは、市場という場によって、私権獲得の可能性が開かれた為に、その追求に都合の良い倒錯観念が、蔓延っていったのだと思います。それを最も強力に推進してきたのがアメリカでしょう。この価値観念は、元々が自我・私権を正当化するものであるから、この理屈を用いる限りは、自我・私権の強い者ほど勝っていくことになるのだと思います。

結局、アメリカの主張する旧観念に対して、他国の統合階級、殊にマスコミの拠り所もこの旧観念にある為に、暴君アメリカに追従せざるを得ないのが、現在の情勢ではないでしょうか。
この、アメリカの”唯一の根拠”たる旧観念を解体することが、アメリカ支配を打破することになるのだと思います。


馬場真一

社会に対する否定視

露店に行くとよく感じることですが、若者(特に10代)の「社会(変革)」に対する否定視(・不可能視)が非常に強い。
その際たる原因の一つは、マスコミが「社会」に対して行う(答えの無い)否定的報道・情報の繰り返しにあるのではないか。
そういったものの垂れ流しを小さな頃から延々見つづけてきた若者達の社会に対する意識は、大人が想像している以上に絶望的なものであると感じる。

それらが及ぼす影響の大きさ・重大性は、「子供に見せたくない番組」の比ではない。
そもそも、それら報道の目的は自らの利権確保のための共認形成とそのための大衆(≒利権に関わる大人)操作であり、子供に対する影響というものを今まで殆どイメージしていなかったのではないか。
一方的に批判・否定するのみ(答えを出せない)ということは、「それのみ」では済まず、否定・不可能視を強く刷り込んでいっていることを若者の意識に触れて感じた。

胡麻とOFF 

マスコミの共認支配がアメリカ支配を後押ししている

>金融市場を戦略的に利用する方法としてグローバリゼーションが立案されたこと<

金融市場のグローバリゼーション以前の状況はどうだったのか?
政治の状況まで含んで簡潔にまとめてある記事がありましたので紹介します。
「時事通信巻頭言 アメリカの戦略にはまった官僚バッシング」より

70年代
>沖縄返還交渉のとき、繊維をめぐる軋轢があり、日本政府は繊維産業を犠牲にして沖縄の返還を求めた。以来、鉄鋼、自動車、半導体、牛肉、オレンジ等が次々に交渉の種になった。日本の市場開放を求めるアメリカの敵は、日本政府、通産省を中心に機能する日本株式会社であり、経済官僚が標的になったのだ。経済規制と行政指導、官主導経済運営が最大の問題であり、アメリカは、交渉の都度それへの攻撃を強めてきた。国内産業の保護者を認ずる通産省は国益を賭してアメリカ政府と喧嘩し、アメリカをしてノートリアスミティ、悪名高き通算省とまでいわしめ、すっかり可愛げのない存在になってしまった。<

80年代~90年代
>個別品目の交渉では、らちがあかないと、80年代には、アメリカ政府は、日本の国内問題を持ち出し、そもそも、日米貿易不均衡の元には、国際ルールと相容れない日本的経済秩序があると、土地問題、公共事業、企業系列などを攻撃してきた。日米構造協議であり、日本の全役所、官僚とアメリカ政府の経済戦争であった。第一線の交渉の当事者は、アメリカが、弁護士であるのに対して日本政府は、通産省、大蔵省、外務省の代表であり、その後ろに各省庁の役人が大勢控えている構図。アメリカがいう、日本株式会社、その背景に官主導の規制があり、保護政策があるという理屈を象徴しているものであった。
交渉では、悪名高き通産省に代わって国際慣れしていない、ナイーブな建設省が格好の標的になった。日米建設協議は、経済問題より政治問題化して、日本的ルールがそもそも問題だと、指名競争入札や談合を槍玉に上げて、日本政府、官僚組織に攻撃をかけたのである。対日戦略として、官主導の経済運営を攻撃し続けることが目的であるから、日本叩きの交渉がエンドレスに続いてきた。そして今、バブル経済の崩壊、大蔵省の失政で日本株式会社の屋台骨が揺らぎ、アメリカが対日戦略の最大の敵と考えている、大蔵官僚と金融政策へ攻撃の標的が向かったのである。<

ここでの、日本的秩序や日本のルールは国際的に相容れないとは?
>アメリカが、他国に対して執拗に「民主主義」や「自由」を主張する、心理的背景には、この自らの犯した体験に対する強迫的な「タブー」、「後ろ暗さ」、周囲からの「白眼視」が存在します。
そのため、アメリカは、実情とはかけ離れた強引な民主化、自由化を、たとえそれが他者の迷惑であっても、強制しなければならない精神構造にあります。<13412

国際的に相容れないのではく、単に自らの国に相容れないから、自由化を強制してきました。

アメリカには、「民主化、自由化」という言葉を自らの略奪の正当化のために使い自らの醜さを覆い隠し共認を支配していく詐欺師のような構造があります。(現在では、その化けの皮がはがれて、底にある醜さが現れていますが・・・)
そこに、傍観者で旧観念にどっぷりと染まっている唯一の共認媒体であるマスコミが乗れば、人々の共認支配など、いとも簡単だったことでしょう。

70年に貧困の圧力が消滅し序列統合が意味をなさなくなり、政治家や官僚の力の原理が崩れ始めます。崩れ初めても政治家や官僚は相変わらず、力の原理にしがみつき社会が共認原理へと移行していることに目を向けません。同時にマスコミはアメリカの戦略に乗り、自らの共認支配力を強固なものにしました。そして今では、政治家や官僚をも支配できる立場になってきました。

傍観者であるマスコミとは、アメリカの代弁者でしかなかったのではないでしょうか。このゆがんだ共認支配の構造を変えない限り、アメリカ支配は終わらないのだと思います。





村上祥典

共認形成の場が独占されることが生んだ悲劇

> JR福知山線の事故からJR西日本が糾弾されつづけていますが、その報道のされ方が余りにも、悪者=JR西日本という図式一色に塗りつぶされているようです。
(90617 亀若さん「傍観者たることが第一義という姿勢」)

■なぜ情報は事前に出てこないのか?
 2005年4月25日に起こった脱線事故で、100名を超える乗客が亡くなり、死傷者は600人を越えた。

 マスコミは、連日、(行き過ぎだと批判されるほどの)強いバッシングを続けているが、その資格はあるのだろうか?

 マスコミには、リークも含めた様々な情報が集まってくる。その中には、JR西日本の社内事情や、事故の兆候となりうるような問題事象・報告があったはずだ。実際、事故直後から、かなり詳しく過去の情報の報道が始まっている。
 事故が起きる前に、マスコミには、事前情報に基づいた問題提起ができたはずだし、機会はいくらでもあったはずだ。が、そうしなかったのはなぜだろうか?

■マスコミと鉄道会社の関係
 一つの大きな理由は、マスコミと鉄道会社の関係にある。
 マスコミは、自らの商品(雑誌、新聞、テレビ番組)の広告媒体、小売先として鉄道会社に大きく依存している。
 車内の中吊り広告は、費用対効果の高い広告媒体だ。また、駅のキオスクは週刊誌、新聞の大きな販売ルートである。

 もし、マスコミが鉄道会社の批判記事を書けたらどうなるか?
 報復として、鉄道会社側は、キオスクから批判記事を書いた出版社の商品を引き上げるだろう。例えば、1994年に週刊文春がJR東日本を批判した際、JRは週刊文春をキオスクから引き上げ、損害賠償を求めて訴えた。結局、文春側は謝罪、和解金を払うことになった。マスコミ側の敗北である。
リンク
 つまり、マスコミは自分の利益を守る為に、批判することができないでいる。
 その(滅多に訪れない稀な)例外が、今回の事故だった。

■共認形成の場が独占されることの生んだ悲劇
 今回のような鉄道会社側の落ち度による大惨事、大事件が起こったとき、待っていたとばかりに、大キャンペーンを張り、これまで出せなかった情報がどっと出てきたのは、そのようなマスコミ自体の事情があったからだ。共認形成の手段を握る二つの勢力のいがみあい、という事情である。

 このようなことは、別に鉄道会社に限ったことではない。
 マスコミは、広告費をもらっている企業=スポンサーに都合の悪い情報は基本的に出さない。広告費=自分の利益を失いたくないからだ。
 重要な情報が出てくるのは、いつも事件・事故が起こった後、被害者が出てきた後になる。スポンサーからは、普段は貰えるものは貰えるだけもらっておいて、後からバッシングするわけだ。

 しかし、これは異常な事態ではないか?

 本来、共認形成の場は庶民みんなのものだ。その中で私利私欲に関わるからといって、事実が明らかにできないのでは、庶民は常に被害に受けるばかりだ。ましてや社会を統合することなどできない。
 共認形成の場が独占されている限り、今回のような悲惨な事故は何度でも繰り返される。そのことこそ、総括されるべき中身だったのではないだろうか?



阪本剛

着実に進行している米国支配

外資系企業の日本市場参入での動きをマクロな視点で見るために、日本の資本収支状況を調べてみた。

●資本収支:8兆1,320億円 (前年比16兆6,095億円増)
・投資収支:8兆5,995億円 (前年比16兆6,554億円増)
 直接投資 : -2兆5,958億円 (前年比   2,933億円増)
 証券投資 :-11兆4,561億円 (前年比 1兆6,925億円増)
 その他投資: 22兆0,471億円 (前年比14兆3,282億円増)
●外貨準備増減:21兆5,228億円 (前年比15兆7,319億円増)

(財務省ホームページ「平成15年度中国際収支状況」より抜粋)リンク

ここで注目は資本収支が日本からの流出超から流入超へ変わっていること。それだけ外国に日本が買い取られていると見て取れる

また外貨準備といってもその大半が外国証券であることを考えると、「日本政府は外国人に低利の貸付でカネを貸す→日本を買収させている」という構図が見えてくる。

どうして、ここまで日本の経済は歪んだ構造になってしまったんだろう?

小泉総理は2003年5月の訪米でブッシュ大統領と「日米投資イニシアティブ」を合意した。これはアメリカの対日経済略奪戦略と小泉構造改革の整合性を確認したものである。

合意書が示す中身を要約すると、

①日本の銀行の不良債権査定を厳しくして、国有化を促進する。
不良債権処理の名の下に、厳しい業務改善命令で日本の銀行を窮地に追い込み国有化に追いやった上で、米資本へ邦銀を売り飛ばすことを可能にする。

②株式の日米国際交換を促進する→M&Aの導入
日米経済の株価格差(アメリカの株価は超バブルで日本の100倍)を利用して、「米企業が輪転機を回しながら、日本企業を買収する」ことを可能にする。

③保険、医療、介護等のサービス産業の規制を緩和する
この分野は国民の命に関わる分野でいわば国家の聖域。しかし小泉首相は国民の命を支える産業までアメリカに売り渡そうとしている。

④労働市場を開放する。
日本が産業の空洞化に悩まされている中で、今なお世界一の供給国でいられるのは日本人の頭脳に負うところが大きいことにアメリカが着目。人件費の安い外国人労働者と技術力の高い日本人労働者とをトレードしようとする意図。

⑤不動産取引における取引条件の簡素化する→REITの促進・活性化
これは邦銀や企業が持て余す不動産を厳格な査定で不良債権化し、簿価でアメリカ資本に売り渡する。

『構造改革』の名の元、上記関連の74法案が上程され、既にそのほとんどが国会を通過している。

(前回も書いたが)例えば、2003年6月に成立した新商法の成立。これによって、三角合併が可能になり、 日本の銀行・企業は、すでに内堀まで埋められてしまった。

2002年10月の時点でNY株式ダウ=1万ドルで、東証日経平均=1万円。アメリカ企業の株価は日本の企業の100倍になった。株券を印刷すれば、日本の企業を簡単に買収・合併できることを法制化したのだ。このシステムは長期信用銀行買収で実験され、そのシステムをより強固にしたものが三角合併である。

(※ちなみに、アメリカファンドのリップルウッドは長銀(現新生銀行)を日本政府からたったの10億円というただ同然の上に「ドロボーに追い銭」の瑕疵条件付(買収後2年間に損失が出た場合政府が保証する)までつけて買収させてしまった。「日米投資イニシアティブ」報告書では、この米ハゲタカファンドの代表リップルウッドの例を見本として紹介している。報告書P27対日投資事例参照)リンク

また、2005年以降は管轄大臣の許可がなくても自由に敵対M&Aを掛けることが可能になった。自社の実勢価格分の株式を用意しなければならない日本企業vs印刷代金だけのアメリカ企業の買収戦争となる。

要するに小泉首相が行っている『構造改革』の主たる内容は、アメリカ企業による日本企業の買収を促進することである。

普通の人が冷静に考えると非常にむちゃくちゃなことが、『構造改革』という美辞麗句のもとで堂々と展開されている。


 


にっすぃ~ 

ライブドア問題考①~政府はアメリカ追従をいつまで続けるのか?

>これまでアメリカ企業の日本金融市場支配の障壁として機能してきた、株式持合や談合といった日本独特の商慣習が次々と改悪され、アメリカによる日本企業の買収リスクが日増しに高まっているが、今後、この流れは一層加速するのか、否か。「前稿~ライブドアが巻き起こした喧騒の後に」

アメリカの圧力による日本金融市場改革は、平成5年の宮沢-クリントンで合意された「日米間の新たな経済パートナーシップ」に遡ることができる。極めて日本に不利な通商関係の改変を受け入れざるをえなかったのはバブルの痛手が大きく、ここでアメリカという最大の輸入相手国からそっぽを向かれてはまずいという政策判断が働いたからだろう。しかし、そもそも何故、バブルが起きたかといえば、アメリカの言いなりになって内需拡大策=日本経済成長維持のための国債投入を続けたからである。アメリカは自国の貿易赤字の原因を、日本の輸出過剰に求め、日本にアメリカと同じような贅沢を追い求めることを強いてきたのだ。しかし、アメリカの貿易赤字=輸出よりも輸入が多い原因は、アメリカの技術力が日本よりも劣るからである。実際、バブルになろうが、バブルがはじけようが、アメリカの赤字構造には何の変化もない。

しかし、アメリカ一辺倒の日本政府は、アメリカの言われるままに、市場開放、すなわち外資の日本参入を受け入れる準備を続けてきた。平成6年に対日投資会議という組織を発足
(リンク)。平成8年には外資によるM&Aが進まないのは日本における企業統治の特異性(株式持合いや安定株主の存在)が障害となっているからであり、株主重視への経営転換、株式持合いの解消等が必要であると主張されているが、その後一貫して、株式持合いは悪であるかのごとく世論は染め上げられてきた。株主重視・利益重視の経営姿勢こそよしとされ、逆に終身雇用、従業員重視の姿勢≒日本的、共同体的経営も世界水準からみて遅れた制度として批判され続けてきた。そして小泉政権となって、よりアメリカ一辺倒の政策運営が続けられ、平成16年には「有価証券報告書の厳格化」「米国流の社外取締役制度の導入」が挙げられている。そして実際、「有価証券報告書の厳格化」が西武鉄道の売却に「米国流の社外取締役制度の導入」がソニーにおける外国経営トップの就任につながったのである。

今、日本に今必要な政策はアメリカ一辺倒の国際関係を脱却しアメリカと心中しないですむ関係の構築である。現に欧州はそうした方向を強く進めているし、アメリカの仕組んだバブルショックを経験した東南アジア諸国もそれを求めている。言い換えれば、日本に今求められているのは、脱アメリカ覇権主義の時代へ向けた、世界的な共認形成力・発進力であり、そのための認識の中身そのものである。(パラダイムを共認経済学へ転換しさえすれば「共同体的経営の推進」や「物的消費から類的供給への転換」「活力再生事業の活性化」等、打ち出せる中身はいくらでもある。)逆に今、アメリカ追従路線を転換できなければ、有能な日本企業の技術も外資に買い叩かれて、国内活力の衰弱(堀江社長の下で働いて活力再生できる人がいるとは思えない)、そしてまさにアメリカの属国と化してしまう(そして先進国全体が活路を見出せなくなってしまう)、ひいては最悪の可能性=滅亡もありえることになってしまう。


山澤貴志

飯を喰らう事が第一義課題の発信階級は、もう要らない!

マスコミによる支配が恐ろしいモノだと気付くには、傍観者ではなく当事者にならなくてはいけないのだと改めて感じました。私は嘗て、完全にマスコミなどの社会統合階級に観念を支配されていました。悩み事(例えば恋愛)の答えも、歌の歌詞や、バラエティー番組から見出そうとしていたし、マスコミが良いと言ったものは正しく、そうでないものは誤っていると、疑いもなく確信していました。

 何故、そのような考え方になってしまったのでしょうか。やはりそれは、社会統合階級の発信する情報を殆ど大部分の日本人が受容して、共認しているということを認識していたからでしょう。それしか、理由は見つかりません。

 社会統合階級の恐ろしさは、彼らが発信する、実態とはかけ離れた(しかも、あたかもそれが正しいかのような)情報自体にもありますが、共認を形成し得る場、そのものを全支配している所にもあります。情報の中味も、発信する場さえも、全てを支配してしまっているのです。大部分の人は、それらを受容することしか出来ず、完全に支配されて迷走しています。

 『実現論』や『次代を読む』を読んで、今までにない可能性を自分が感じたこと。そして、周囲も自分と同じ様に、これまでマスコミからは得られなかった、実感に基づく答えを受容できていること。この時に初めて、気付くのです。本当の答えはここ(支配階級の発信物)にはない。…と。

 本当の答えに出合うまで、つまり、自分が当事者になろうとしない限りは、一生旧観念に支配され続けたのだと考えると、とても怖くなります。これから私も、当事者、そして答えの供給者として、周りに気付きと充足を与えて行きたいと、心底感じました。

清水志保

単に情報を垂れ流す“だけ”というマスコミの犯罪性

毎日、どこかで殺人事件が起きている。幼児虐待・家庭内暴力・無差別短絡殺人etc...そのケースはさまざまで、その殺人事件が起こることはあたりまえにすらなりつつある。

先日、朝、たまたまニュースをつけたら、幼児の無差別短絡殺人事件を報道していた。逮捕された男性は、「殺せ……と耳鳴りが聞こえた」というようなことを自供しているらしかった。男性は仮出所した後、更生施設に入所していたが、そこを抜け出したのだという。そのような施設があることも知らなかった。更生施設では、何が行われているのか?そこで何かが起こったからいられなくなったのか?あるいはいたくなかったのか?いろいろと『なんで?』が溢れ出したが、そこは、一方的な発信だけのマスコミ。単に情報を垂れ流すだけ。。。

そのニュースを見ながら、吐き気と眩暈がした。
「こんなの子供にみせられないな。。。」

『こんな事件が起こりました!』『みなさん、大変です!』みたいなマスコミの報道は、常に、私たちの不安を煽る。そして、そこから「なぜなのか?」という問いに対する答えは生まれない。私達の『じゃぁ、どうしたらいいの??』っていう思いは宙に浮いたまま。。。そして、その不安がまた新たな類似事件を生む。

>恐ろしいのは、ネットやテレビなどの情報を過度に得ることで、あたかもそれが社会なのだと錯覚してしまうことです。(85611)

繰り返し報道される情報を受信し続けていると、それがあたりまえになる。原因の追求なしの単なる情報“だけ”では、何の役にも立たないばかりか、“害”になると、痛感しました。

>このような不気味な事件が増えていくことに加え、批判するだけで答えを出せないマスコミ(⇒旧観念勢)に対する反感と不信⇒旧観念支配に対する庶民の反感が顕在化していけば、自我教育の“おかしさ”に人々が気づき始めるのも、時間の問題だと思う。(73921)

答えが出せないのに、発信階級に居座るマスコミ。犯罪的です。

久保田彰子

平和教育(20代後半)

>「“貧困”や“奴隷”を生み出した張本人が戦争なのに、戦争が始まってから現代に至る5500年間、誰も本気で戦争の原因構造を追求してこなかった。」

小学校低学年の時、夏休み中の登校日に決まって映画「はだしのゲン」を見せられた。溶けた人、焼けた人、蛆のわいた人…描写がすっごく怖かったし気持ち悪くて、夢に出そうだった。アウシュビッツの絵本もショッキングで、1週間は一人で寝れなかった。戦争ってそれら映画や本のイメージが強いから、ひたすら怖い!って思う。

っていう話を人にしたら、すごくびっくりして「それも思考停止の洗脳教育だ!」って言われました。
「怖い!」ってトラウマに近い感覚だけが植え付けられて、条件反射で「怖い、ごめんなさい」って気持ちになる。「あんな怖いことは嫌だ、だから平和がいい…」ってなる。

思い出してみると、戦争が起こる原因も、どうやったら戦争をなくせるかも、全然考えなかったし、学校でもそんな教育はしてなかった。
ショッキングな戦争の話に、友達もみんなしんと静まり返って「だから平和は守られないといけないんです」って先生や語り部さんが締めくくる、そんな感じでした。今考えると、何かおかしい。

同年代の子達と話をしていたら、みんな同じ体験をしていて同じように「怖い、嫌だ」って感情しか残ってないって事が発覚しました。

>これが、力の序列を追共認している=戦争という都合の悪い現実を捨象し、頭の中だけを充足させるための架空観念「平和」に洗脳→支配されてきた、現在日本人の思考停止=“平和ボケ”の実態ではないでしょうか?

原因構造を追求せずに安直に「平和」観念に飛びつくのは、恐怖から「戦争」を否定視しちゃってるからだと思います。
学校っていう場で、否定視だけを大量生産した結果が、思考停止…戦争より怖い現実に気づきました。


中野恵 

2,3日のマスコミ観察日記

1・某新聞紙上で財形の専門家はこう語る。
「これからは国も行政も力を失う、年金も福祉も公共サービスも今後は確実に低下して行くだろう。市場は縮小し企業活動は減衰していくだろう。」

「だから自分の財産は自分で守らなければいけない。それが右肩上がりではない成熟した社会であり欧米諸国では日本に先行して真剣に個人個人が財形に取り組んでいる。(続きは全略)」

この専門家はおそらく現実を良く見ていない。しかも自前の理論ではなく学者の理論を自分たちの都合の良いように商用にアレンジしたのだろう。なぜなら自分(たち)で考えたならば、そのような傍観者的なコメントはしないからだ。

本来なら、国も行政も力を失うのはなんでだろう。それは国民に活力が無いからではないのか。国民が活力を失うのはなんでだろう。(決して私益=活力ではなく)それは今一番必要な仲間活力が無いからではないのか。とすれば財形とは個人の財形ではなくみんなが参加できるみんなの社会の財形なのではないか?

また財形の根拠になっている老後の心配だが、自殺原因を探っているサイト(リンク)があったので引用した。

>そもそも、経済問題ををすぐに自殺に結びつける報道には問題がある。というのは、日本以外で、そのような傾向が指摘されたことがないからである。極く自然に考えれば、日本社会の「ゆがみ」に由来するのであり、経済問題ではない。(リンク)

つまり(個人的な)財形をしても自殺は減少しないと言うことである。

2.「自殺は月曜日が多い?」 By 学者

曜日別に自殺の人数を統計した学者がいた。テレビ報道された。その学者はこう述べた。

「自殺が多いのは月曜日だから日曜日の過ごし方が大事なのです。日曜日は好きなことをしてリラックスするのが一番です。」

生産課題に取り組んだり、社会課題に取り組んだりして、いい汗流して疲れた人は日曜日の過ごし方が悪いからと言って自殺などしない。逆に日曜日にリラックスしたぐらいで自殺が減っているならとっくに解決済みのはずである。以前は週休1日、今は週休2日なのだから。

もし月曜日に自殺が多いと言うことが事実ならば日曜日に何かが起きていると考えるのが自然ではないだろうか。言い換えれば家庭の外と家庭の中でのベクトルの和が自殺に向かって伸びていると言うことではないだろうか。なぜ生産と生殖の分断に気がつかないのだろう。

とにかく癒しの問題ではないと言うことではないだろうか。

この2,3日だけを観察しても、マスコミ・マスメディアから得られた誤った情報は枚挙に暇が無い。逆に誤った情報のサンプルを得たければテレビや新聞を観察するのがベストである。そして彼らの情報源は大抵「学者・官僚・政治家・マスコミ」なのである。

佐藤英幸

「無意識」

今日のなんでや劇場のテーマは、
「プロによる観念支配こそ、時代閉塞の元凶」だった。
そこで聞いた印象深い言葉。

「我々は、無意識のうちに観念支配されている」

無意識に・・・恐ろしい!!
例えば、「個人主義」や「個性」。
露店などでもたまに「個人主義」について議論になることがある。

「個人主義ってダメなんですか?」
「今はまだ個人主義が実現されたとは言えない。」
「自分が幸せにならないと、他人を幸せにできない。」
「自分らしさを出さないと、社会で認められない。」etc…

そもそも、こういう議論になるのは、
我々の頭の中に「個人主義」という観念が、
「無意識に」刷り込まれているから。

普通に生活していると、そのことに気付かない。気付けない。
支配されている自覚なんて、全くない。
それを当たり前だと思っている。

だから、『自我ではなく、共認こそ原点である』(2772)
という話をすると、何か違和感を覚えたり、
「そんなのおかしい!」「やっぱり「自分」は大事!」
などという反論が生じるのだろう。

しかし、事実は『自我ではなく、共認こそ原点である』(2772)。
それを受け入れられなくさせている元凶は、明らかに「観念支配」。

>「自分らしく~」「自分の~」という教えは、最初から対象を捨象させ、思考を自分の頭の中だけに閉塞させる。
観念が急速に発達する幼児期に、このように教え込まれれば、
対象を欠如した観念が発達して当然だと思う。
僕達の観念は発達段階から頭の中に閉塞させられているのだ。
(51185 西谷さん)

「人と違う意見を言いなさい」
「真似をしてはいけません」
「自分らしさを大切に」
「あなたの好きなように生きなさい」
そんな教育が、多くの子どもを苦しめ、
時代をどんどん閉塞させていっている。

「我々は、無意識のうちに観念支配されている」

このことに気付くだけで、様々な観念から解き放たれる。
観念について思い悩む必要も全くなくなり、
不毛な議論もしなくて済む。
そして、純粋に実現可能性へと向かうことができるのだ。


井上緑

団塊の世代の女達の悲痛な叫び

最近の親子収束の潮流を考える上で、この現象は、団塊の世代の母親に育てられた子世代に顕現したものとの観点で捉えられた、以下の投稿に、同世代の当事者として大いに考えさせらるものがありました。

>「自分を大切にできない人は、他人を尊重できない!」
「まず自分が幸せにならないと誰も幸せにできない!」
いづれも先日のなんでや劇場で団塊世代のお母さんが主張された内容です。(84369 平野さん)

に対して、

>「大切にされなかった私は、他人を尊重できない(大切に思えない)!」「不幸せな自分は、人の幸せを願うことができない!」
と言っているに等しく、さらに突き詰めれば、
「私を大切にして!」「私を幸せにして!」という心の叫びと捉えることもできそうです。(84594 阿部さん)


 団塊の世代とは、戦後のベビーブームに生まれ、高度成長期とともに育った世代のことを言います。一家庭に子供が3人~5人は普通。学校も一クラスが50人位の鮨詰め状態。従って何をするにも競争で、勝者になるためには「自分以外は全て敵」「他人を蹴落としても自分が大事」は当然。そうでなければ、またたくまに敗者になってしまう。・・・・・そんな時代でした。

 更には、戦後、怒涛の如くに入ってきた民主主義。学校教育では、「自我の確立」「個性の尊重」「男女同権」が金科玉条の如く謳われていました。通信簿の教師からの評価の欄にある、「個性的」「自主性がある」「自立心旺盛」などは、その子供への最高の賛辞だと思っていました。また、男女平等なのだから、女子も男子と同じように扱われなくてはいけないという主張もよく言われており、女性も大半は高校から大学へと高学歴を身につけていったのです。そして、このような教育を受けた我々団塊の世代は、上記の母親のように「自分が大切」「自分が幸せ」というように、思考の出発点は常に「自分」にあることが当然だと思ってきました。

 しかし、戦後民主主義の洗礼を受けて育った団塊の世代において、男性は社会へ出て、私権闘争の真っ只中を生きていく上では何ら矛盾を感じることはなくとも、女性が結婚し家庭に入り子育てをし始めた途端に、これまで受けてきた民主主義教育は、一挙に精神を破壊していくものとなって襲ってきました。子供の頃から男女平等・男女同権と植え付けられて育てば、出産・子育ては女だけが受ける負荷なものとして受け止めてしまう。また、その家庭は闘争から分断された生殖と消費のみで、何ら生産的なものはないわけです。

 当時、家庭という闘争や生産の場から隔絶された密室空間において、家事、育児のみを担う存在として「専業主婦」という言葉が生まれました。個人主義は最も最先端のものであり、「隣は何をする人ぞ」と無関心・無干渉。そうして専業主婦の母親達は、家電製品の普及ともあいまって、有り余るほどの余暇が生まれ、社会から隔絶された課題のない孤独な無圧力空間に放り出されたのです。上記の阿部さんが分析された「大切にされなかった私」「不幸せな自分」との思いは、このような状態を経験したこの世代の母親たちの悲痛な叫びなのだと思います。

 こう考えると、

>ところが、近代人は人格の形成を「自我の確立」と呼び、全ての学校で「自我の確立」を善とする染脳教育が行われています。これは、事実に反するとんでもない誤りであり、霊長類の命綱たる共認機能に対する極めて犯罪的な破壊行為でしょう。事実は、『共認の確立』こそが、あるいは象徴的に云えば『規範(意識)の確立』こそが、人格の形成なのであって、もし共認を捨象して自我だけを確立させれば(自我は決して確立など出来ませんが)、分裂病その他に発狂して終うに違いありません。(現代人が多かれ少なかれ狂っているのも、その様な自我思想や自我教育の所為ではないでしょうか?(2772 自我ではなく、共認こそ原点である )


 我々団塊の世代が、学校教育で受けた染脳教育である「自我の確立」という旧観念は、いかに精神破壊をもたらしたのかが改めて分かります。自我ではなく「共認の確立」こそが原点であることを、団塊の世代を生きた女たち(母親たち)の 悲痛な叫びがその証のように思えます。

大木康子

時代は一般市民が変えるもの

>この「社会統合は専門家(統合階級)にしかできない。社会を変えようとしたらプロになるしかない」という固定観念そのものが、観念支配の最たるものではないだろうか。庶民の社会統合課題の断念をいいことに、社会統合のプロたちは自らの特権的身分を確保してきた。

ところが、これがとんでもない間違いなのだ。実際、社会が全面的な行き詰まりを見せているのに、彼らプロたちは、何ら新しい認識や答えを生み出せていないではないか。

その上、新しい認識や答えを阻害していると言っていいと思います。彼らは、自由、個人、権利の観念を中核とする近代思想にどっぷり漬かり、もう這い上がる気配すらない。そんな彼らが、当面する社会の閉塞や危機に対応できる訳がありません。

今、誰もが何かおかしいと気づき始めた私権や私婚や市場拡大を正当化する観念を作り出して、一般市民を騙し強制共認をあたかも自主共認であるかの様に思い込ませていたマスコミ、学者等の発信階級は、過去の膨大なデーターを上手く使って、古い支配観念(恋愛、自由、個人、人権)を前面に押し出し、人々の意識を支配し続けている。このことが、社会を閉塞させ人類を危機的状態にしている。


上山昇良

社会統合で飯が食えるのは何で?

>大衆によって構成される社会は、当然、大衆(=素人)によって担われるべきであり、中でも決定的に重要な統合(とりわけ共認形成)の仕事を、「社会統合のプロ」が担っているのは根本的におかしいのではないか、その社会統合という仕事を大衆=素人の手に取り戻そうというのが、私の主張です。(6398)

統合階級(政治家、学者、マスコミ)は、何故社会統合を仕事に出来るのか(社会統合で飯が食えるのか)?

政治家は、私権存在である大衆の利益を差配することで受益者(=大衆)からの謝礼(献金や票)を受け、学者は、人類の知的追求の活動を代表、集中して行うことでより高度な成果を収めることを期待されて、しかるべき機関(大学や研究機関)から専任に見合う給料を受領している。マスコミは、放送・出版に付随する広告料収入と購読料・受信料を得ている。対して非(被)統合側の多くの人々はどうか。直接的な市井の需要に応える(=労働する、生産する)事で報酬を得ている。両者を比較した場合、統合階級の「飯の種」は極めて分かりづらい。

統合側は、公共的な統合や理論追求又は技術革新、情報伝達をあたかも大衆から預託されているよう見える。しかし、こうしたこと(統合課題)を職業化しようとする(もしくは出来る)根拠は何なのか?

かつての統合は武力支配である。武力支配国家が民主化を敢行するのは、異国との武力衝突が懸念される下での「近代化」故であり、事実として統合者は、世襲や、武力による討伐ではない公選制に移行している。その際、統合職を専任化=職業化したのは何故か?

商才や技能を持つものは、その才を生かして直接的に需要に応えればよい。問題はそうした生存の手法を持ち得ない人々である。彼らは生産にも労働にも向いていない。彼らは国家や社会が近代化する時代、労働者や生産者が大量に関係しあう社会状況における関係課題や近代国家として先鋭化される観念課題を己が職業として成立させる機会を得る。特に政府を司る究極の統合者は、国家レベルへ発展した私権闘争を根拠に、近代国家の統治者、指導者としてその職を得、御用学者や物書きもこれに追随し基盤を確保する。

確かに国家が国家である必然は、同種の闘争圧力の存在であり、小国に分断された国家は、それだけで国家間闘争の能力を低下させる。しかし、その際の統治者、指導者が職業化される必然は、専任による高度化期待を措いて他にはなく、寧ろそのこととは別に自らの存在基盤=権益を求めたとしたらどうか。封建社会が崩れ序列闘争の可能性が広がったその瞬間に、彼らが自らの権益を保持しようとしたとしてもなんら不思議は無いだろう。恐らくそうした権益化は高度化を理由に正当化(もしくは無視)されたものと考えられる。また、マスコミに至っては売れない物書きが、単なる広告媒体に身を窶した瞬間、その広告性故の世論操作(共認支配)が可能になり、脅迫的な権力を保持するに至ったものだと考えられる。

彼らが社会統合で飯を食えるのは、前時代的な仕組みとして、統合課題や共認課題が序列闘争下の「飯の種」として権益化=権力化されているからであり、言い換えれば自らの飯の種であるが故に元々大きな限界を孕んでいるのだと言える。社会課題は決して飯の種としてはならないのだと思う。



斎藤裕一 

広告のない雑誌

「暮しの手帖」という雑誌をご存知だろうか?

昭和23年に創刊され、現在も衣食住全般を扱う女性、主に主婦向けの雑誌(隔月刊)。厚さは通常の女性月刊誌の2分の1程度ながら価格はおよそ2倍(900円)。この理由は簡単で、この雑誌には創刊以来、広告が一切掲載されていない。スポンサーは読者なのだ。

創業者である花森安治は、広告をのせない理由を端的にこう記している。

>理由は二つある。
一つは、編集者として、表紙から裏紙まで全部の頁を、じぶんの手の中に握っていたいからである。・・・もう一つは、広告をのせることで、スポンサーの圧力がかかる、それは絶対に困るからである。

一つ目の理由は、実質的な創業者でありながら、社長職にはつかず、取材・執筆・表紙デザイン・レイアウト・カットをとり仕きる一編集長として生涯を貫いた、完璧主義者花森らしいこだわりようで、これに関してはここではふれない。問題は二つ目。これは昭和29年から定期的に掲載しているある名物記事に由来している。「商品テスト」だ。

>「商品テスト」は絶対にヒモつきであってはならない。

工業生産真っ盛りの中にあって、実名で商品を評価するという厳しい姿勢が、広告のない雑誌が作り出された源だと思う。

「商品テスト」でとりあげられた商品は

1.毎日のくらしに欠くことのできないもの
  ex.配給米、しょうゆ、石けん、タオル、鍋、かま

2.絶対必要ではないが、ひとによって家庭によってそれがあるとずいぶん便利になり、快適な暮しができるもの
  ex.換気扇、瞬間湯沸器、電気冷蔵庫、真空掃除機

3.必要なものであるか要らないものであるかわからないもの、それはたいてい新しいものだが、テストしてみなければどちらともいえないもの
  ex.食器洗い機

現在からみると、時代を感じさせる商品群だが、無数にあるモノを限りあるマンパワーでテストするという状況を考えると、花森の中に、単なる完璧主義者に止まらないリアリストの目を感じることもできる。

商品ごとに、どんな点をしらべるか、どんな方法でテストするか、どのように評価するか等についても、専門家・素人を交えて十分吟味検討した上で、営々と「商品テスト」は続けられている。

花森がそこまでの労をかけて、期待したものは何だったのだろうか?

>「商品テスト」の結果をよく知ることによって、商品をみる目をきたえる、というのもはかない幻影だろう。
昼となく、夜となく、私たちにおそいかかるすさまじい商品の洪水は、とっくに私たちの気持ちをつくりかえてしまっている。
~中略~
メーカーが、役にも立たない品、要りもしない品、すぐこわれる品、毒になる品をつくらなければ、そういうものを問屋や小売店が、デパートやスーパーマーケットが売りさえしなければ、それで事はすむのである。
なにもかしこい消費者でなくても、店にならんでいるものが、ちゃんとした品質と性能をもっているものばかりなら、あとは、じぶんのふところや趣味と相談して、買うか買わないかをきめればよいのである。
そんなふうに世の中がなるために、作る人や売る人が、そんなふうに考え、努力してくれるようになるために、そのために「商品テスト」はあるのである。

最後にこう締めくくっている。

>「商品テスト」は、じつは、生産者のためのものである。生産者にいいものだけを作ってもらうための、もっとも有効な方法なのである。

供給者発の発想・思考をメーカー=生産者に植えつけようしたとはいえないだろうか。

花森はオジサン顔にオカッパ頭でスカートを愛用した、という一種の奇人だったようで、ゆえに語録やエピソードには事欠かないひとだ。その中のひとつ。

>賢そうな顔をしていやらしいもの「朝日新聞」「NHK」「暮しの手帖」

これを目にしたときは、おもわず笑ってしまった。編集会議の時に出た発言で、最後の「暮しの手帖」というのは恐らくインテリ編集部員に対する手厳しい戒めなのだろう。1978年に死亡しているのでそれ以前の発言には違いないが、05年の現在を象徴している言葉でもある。

私は1年ほど前に、あるひとに教えられてはじめて、暮しの手帖と花森の存在を知った。興味をもっていくつか出版物を購読したが、いずれも知りたい情報がとことん提示されており(中身が濃い)、かつどのテーマも「生活に密着している=現実にすぐに役立つ」という切り口で語られていた。死後30年近くたっても、昔の刊行物とあまり変わらない肌合いを近刊も持ち併せており、それだけ花森の方向性が明確で普遍性が高かったということではないかとも思う。

広告(スポンサー)がなくても、価格が高くても、成立するマス媒体はある。大切なのは、権力者や消費者に対して、徹頭徹尾妥協・迎合をしないという強い志を持ち続けるということ、そのためには、伝えるべき中身、誰にとっても必要な認識を持ち、それらを明確に提示できるということ、ゆえに、その中身に対してゆるぎない自信(=共認回路に裏づけられた自信)を持ち得ているということ、ではないだろうか。


※引用はすべて、暮しの手帖保存版「花森安治~常識を非常識に一変させた生活思想」より


阿部佳容子

インフルエンザ脳症=プロによる犯罪行為。

みなさん一度はインフルエンザ脳症という病名を聞いたことはあると思います。
私も
>インフルエンザ脳症はインフルエンザウィルスにより脳が炎症を起こすもので、詳しい原因は解明されていません。インフルエンザ脳症の致命率は、約30%と言われ、生存しても、25%の症例に、後遺症を残すと言われています。(参考:読売新聞)<
(リンク)
と考えていました。

しかし、実はそれは真っ赤な嘘だと言うことを知っていましたか?
事実
>しかし、ウイルスが直接に脳を侵すのではありません。インフルエンザウイルスが、インフルエンザに罹った子供さんの髄液から分離されたという報告もあります(日本小児科学会雑誌1997:101:1063-1066)。
 また。インフルエンザ脳症で亡くなられた子供さんの、血管内皮細胞、腎蔵(糸球体内皮細胞)、肝臓(グリソン鞘毛細血管内皮細胞)に、ウイルス様の粒子が見出されたという報告もあります。神経細胞は、細胞質が膨化し、核は融解します。
 しかし、多くのインフルエンザ脳症の症例では、インフルエンザウイルスのウイルス抗原は、脳組織から検出されておらず、ウイルスが直接に脳を侵すのが、この病気の原因ではないようです。<
(リンク)
とあります。

インフルエンザ脳症とは、子供がインフルエンザや水ほうそうになり、熱が下がってそろそろ治って来たかなと思う頃に、突然、意識がおかしくなり、ケイレンを起こしたり昏睡し、肝臓の働きも悪くなって死亡することの多い病気です。約35年前にオーストラリアのライという学者が報告しました。
アメリカでは、解熱剤のアスピリンに疑いが持たれて調査を実施し、ライ症候群の子はアスピリンを使った子の割合が圧倒的に多かった。アスピリンを使った子はアセトアミノフェンという緩やかな解熱剤を使った子よりも16倍程度もライ症候群に罹りやすいことが分かっています。アメリカではアスピリンを徹底的に使わないようにした結果、ライ症候群はほとんど発生しなくなりました。
一方、日本でも以前から100人を超えるライ症候群が毎年発生していると推定されている。最近厚生省は「アスピリンの使用とは無関係にインフルエンザ感染それ自体か、あるいは不明の因子が加わることによって発症することがあるように考えられる」として、原因不明のまま研究を終了しました。

しかし、この解釈は大変疑問です。日本ではアスピリンはもともと使われず代わりにアスピリンよりも強力な解熱剤を使っています。欧米では子供には使わない強力な非ステロイド抗炎症剤です。自衛のためには、日本のライ症候群の原因として最も疑わしい強力な解熱剤は使わない方が賢明です。

つまりインフルエンザ脳症は、正しくは、「非ステロイド抗炎症剤がライ症候群の発症の危険因子であり」、「非ステロイド抗炎症剤がライ症候群あるいはインフルエンザ脳炎・脳症の発症とその後の重症化の危険因子」であると解釈すべきもので、そのように改められることが求められています。

では何故そのような客観的なデータがあるにも関わらず、医学の専門家たちや厚生労働省は病名の改名すらしていないんでしょう。
即刻に手を打ち強力な解熱剤の使用の制限やインフルエンザ脳症の病名を非ステロイド抗炎症剤がライ症候群あるいはインフルエンザ脳炎・脳症の発症とその後の重症化の危険因子と改名しないのか?

それは、インフルエンザに対して恐怖心をあおりたてて、ワクチンを打つにいく庶民を作るためではないでしょうか?
事実として87年、高橋晄正博士(東大医学部元講師)も著書『危険なインフルエンザ予防接種』(農文協)で、福見氏が同ワクチンが効かないという「抗原原罪説」(幼少時にあるウイルス株に初感染すると、それによる免疫抗体が(原罪)のようにその後の免疫機能を支配するので、新しい流行株に型合わせしたワクチンでは予防効果のある抗体が形成されないという免疫学者、T・フランシスの学説)が確立されていること、つまり有効でないことを接種制度提案以前に知っていたことを論証しました。そして、予研を「ワクチン会社の利益のために子どもたちを副作用の危険にさらしつづけようとするゴマカシ」の機関だと科学的に、かつ厳正に批判しました。

 被害児童の親たちも国家賠償を求めて提訴し、20余年間も悪戦苦闘しました。そして、ついに92年12月、予防接種禍集団訴訟(東京)の東京高裁判決で、原告が勝訴し、厚生大臣は陳謝しました。ひきつづき、93年12月、厚生省は「有効性がないことを理由に」(『毎日新聞』93年12月14日)、幼児・学童へのインフルエンザワクチン強制接種制度を廃止せざるをえなくなりました。

つまり、厚生省は、30年間も全国民の子ども、孫たちを有害無益なワクチン接種の犠牲にしてきたことを公式に認めたのです。つまり、インフルエンザの予防接種とは、製薬会社は金儲けの種がふえたといって喜び、国民モルモット化の状態でこのワクチンが推進されただけではないでしょか。

しかも県の福祉課や衛生課は厚生労働省との繋がりが深いとききます。(天下りに関係)

これは危険な薬剤を放置した犯罪的行為と言っても過言ではありません。私はタバコ発ガン説にしてもこのインフルエン脳症にしても
>彼らプロに任せていては、もはや「重大・深刻な問題=早急に答えを必要とする問題」ほど、「答えを出せなくなる」という認識が私たち素人には必要だと思います。<
(84170 中根さん)
と同様にその通りだと考えていますし、プロや学者や専門家やマスコミなどに対して怒りを感じています。

本当にもう傍観者の立場でしか物事を考えられないプロ(学者・官僚・政治家・マスコミ)はもういらない。我々現実の圧力を受けている庶民が事実を追求し、ガタガタになった社会を直していくことでしかこの世の中は良くなっていかない。

 

リバーバンク

世論操作~現代の魔女狩=嫌煙運動

私は、非喫煙者ですが、喫煙者に対しては、一定の配慮(例えば、咳込んでいる人の前では、煙草を吸わない、会食中は吸わず、食後列席のメンバーに断ってから喫煙するなど)が、最低限なされていれば、良いと思っています。

恐いのは、やはり簡単に一方の立場の人々を悪と決め付け、公的には反論出来ない弱い相手=喫煙者を毎日「嬲り者」の様に紙面や画面で採り上げる大マスコミの安易な「姿勢」です。

「喫煙率の低下と肺癌の発症率の上昇の関係」も勿論説明出来ないのですが、大気に大量に有害物質を拡散させる自動車の増加を放置したまま、肺癌の問題を論じても根本的な議論はなされないと思います。

大スポンサーの「自動車業界」を敵に措定出来ないのは、与党も大マスコミも同じで、議論の俎上に乗せた瞬間に自らの「死」を迎えるからです。

自分達(=現代の支配階級)の特権を守りそして一日でも永く延命するため、根本的な問題点・存在群には目をわざと向けず、向けさせず、お手軽に生贄を見つけ、そして糾弾する「姿勢」にこそ、常に胡散臭さを感じ、監視していかねばならぬと思っています。


 


田中令三