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アメリカ支配の深層意識①~アングロサクソン的価値観

アメリカ支配を考える切り口はいくつか考えられるが、最大の疑問は、もはや豊かになった=脱私権の可能性が開かれたにも関わらず、あいもかわらず私権追求の可能性を追いつづけ、他国への侵略を止めず、国内にも貧困層を再生産させつづけ、旧観念に拘り続けるのか?という点だろう。

先進国全体が生存圧力を克服した中で、欧州はユーロ通貨圏を形成し、放漫な財政支出を抑え、過剰消費からの脱却を志向している。これは一種の秩序収束であり、少なくとも自由主義経済及びアメリカ主導経済の限界を自覚しているが故の脱拡大市場戦略だといっていい。それに対して、アメリカは一向に拡大戦略の手を緩めるつもりはなく、対テロを大義名分に原油利権の拡大を狙いつつ、また国内的にはブッシュ再選により減税政策は保持され過剰消費→双子の赤字拡大は必至である。

こうした「攻めるが勝ち」「遊ぶが勝ち」という価値意識の出所を探るとき、よく引き合いに出されるのが、ひとつにはアメリカ建国の基盤ともなったWASP(ホワイトアングロサクソンプロテスタント)的価値観である。

>>WASPとはイギリスから宗教的迫害を逃れてメイフラワー号に乗ってやってきたピューリタン(清教徒)の 子孫達であり、現在のアメリカ東部の上流階級(東部エスタブリシュメントと呼称される)を形成しているといわれる。
リンク 

自らもその出自をアングロサクソンであるとしながら、日本的経営の洗礼を受けてアングロサクソン的価値観に疑問を呈するビルトッテン氏はアングロサクソンの出自について以下のように述べている。

>米国の支配階級の祖先、アングロサクソン民族は気候も風土も暗く厳しいノルウェーをルーツとし、狩猟と征服と略奪を繰り返してフランスのノルマンディー地方を獲得した。 一〇六六年にイギリスにノルマン王朝を打ち立て、十六世紀にはアメリカ東海岸、一八五〇年には西海岸に進出し、世界の覇権を目指して今日も略奪を続けている。アングロサクソン民族が重要だと思う基準や能力とは、狩猟と征服と略奪に役に立つ能力であり、それは力と速さ、そして相手をだますことである。「国家防衛」とは本来、他国の攻撃や侵入から国の境界線を守ることだったが、米国の防衛は国益、それも主に巨大多国籍企業の経済的利益を守ることになり、そのために今、米国は世界中で境界を侵して攻撃を行っている。 歴史を振り返ると、日本人はこの温暖な列島に定住して農耕に励み、アングロサクソンの略奪や征服の歴史とはかけ離れた文化・文明をつくり、独自の価値基準や価値観を築いてきた。平成時代になり、儒教、仏教、神道や日本の古典といった戦前の教育を受けた人々が第一線を退き、かわって日本人を奴隷化し、日本を植民地化するために取り入れられた戦後教育を受けた人々が日本の指導的地位に就くようになって、その価値観は徐々にむしばまれていった。安価、高品質、納期という選定基準以外は重要ではなくなり、自分の利益を少しでも多く上げるため、またはその時のニーズを満たすことだけが重要視されるアングロサクソン流の価値観が時代のすう勢となったことが、今日の日本社会のほころびの原因だと思う。日本の人々がこの事実を認識し、伝統的な価値観を取り戻さなければ、日本の主権を米国から取り戻すことは難しいだろう。
リンク



山澤貴志
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素直に充足を求めること。

>「自分」にこだわればこだわるほど、更に行き場のない苦しみがそこには待っている。(81898笠原さん)

確かに。自分にこだわってていても、自己満足は出来ても、充足って味わえない。
我を貫いていても、孤独感にさいなまれるだけ。

本当は充足したいし、誰かを充たしたい。
そう思っている人ほど、「自分」に囚われがちな気がします。
そして、「自分がしっかりしなくっちゃ」って思っている。
先日のクリスマス劇場で、この本質を教えてもらいました。
「しっかりしなくっちゃ」って思うのは、何か課題や目標が目の前にあって、それに対して何らかの答えを出さなければならない時。
つまり、答えを出したい。役に立ちたい。当事者になりたいこと。

これって要するに、同化できる対象を求めている。
本当は周りの人や、周りの状況を掴んで答えを出していきたい。その先にある充足を感じたい。
なのに、何故か「自分」という言葉に置き換えると「みんなの実感」から遠ざかってしまい、社会を対象と出来なくなる。
「自分の実感」「自分らしさ」「自分発の充足(自己満足)」…。
行き着く先は「自分って何?」
あるいは、近い状態が“スランプ”だと思う。
対象を見失った時、みんなの期待が見えていない時、上手くいかないと思い込み、その原因を自分の中に見てしまう。

そういえば、子供の時、スランプって思った事なんてなかった。
近所の子供や街行く子供を見ていても「自分は」なんて言葉あんまり聞かない。
そんな子供達はとても充ち足りている。
目をキラキラさせている子供はいつも「なんで?」を繰り返している。
先日電車に乗ってると、近くに親子連れが座っていて、幼い子供が、
「なんで電車は走るの?」「なんでたくさん繋がってるの?」「なんで輪っか(吊り革)がいっぱいあるの?」「なんであんなに人がいっぱい待ってるの?」
などなど、半分くらいは意味不明なところもあったけど、ずっと「なんで??」って聞きつづけていた。

充足を何より欲している子供は、「なんで?」を繰り出す。
その先に答えがあって、「なんで?」と答えが繋がると充足できるから。
なんで?って思っている時、答えを探している時には自分なんてない・自分の中に答えなんてない・自分の外に意識が向いている。
だから繋がれる。

「自分」にこだわっている人も、本当は充足したい。
答えやみんなと繋がって充たしあいたい。

素直に充足を求めたら、「自分⇒みんな」は実はとても簡単。
「自分⇒みんな」に意識を転換できたら、その時は既にマスコミ・学者の支配は終わってる。そんな気がします。

劇場でも紹介された、「変わりたい」欠乏。
でも変わっていくんじゃなくて、繋がっていく・なんでを繰り出している中で、結果的に変わっているんだ。って教えてもらいました。
これってマスコミ支配にも言えると思う。
みんなの繋がり、なんで?を繰り出しているうちに、自分⇒みんな(社会)に変わっている。
みんながみんなを対象とした時、その共認パワーにマスコミはかなわない。

出発点は素直に“充足”を求めること。そんな気がしました。



鹿村幸代

あらためて「環境ホルモン」とは(1)

「環境ホルモン」とは何か?
言葉が先走りして、内容とその問題について正しく理解されていないことがいまだに多いと思います。概要は山崎さんの投稿(82434)どおりですが、もう少し補足するなら「ウィキペディア」がお勧めです。
(ウィキペディア:内分泌攪乱化学物質)
リンク

以下に注意すべきポイントについて、ウィキペディアを補足します。

>NHKによる造語で、「環境中に存在するホルモンのような物質」という意味合いの環境ホルモンという通称が広く使われている。(中略)環境ホルモンはあくまでも便宜的な呼び方である。

「環境ホルモン」という呼び方は、よく知られている1997年11月に放送されたNHKスペシャル「しのびよる環境ホルモン汚染」などの放送にあたって番組担当者が横浜市立大学の井口教授に相談して命名したものです。
また、同じ10月から毎日新聞の全16回の連載記事「しのびよる人体汚染」(担当記者・小島正美)が開始されたことも、環境ホルモンが広く知れ渡る大きなきっかけとなっています。
これらのマスコミの「生殖障害」や「生殖異変」といった報道が一般の人達の不安に火をつけたことにより、急速かつ大規模な社会問題となったように思います。

しかし、その後の調査により、当時の異常現象の多くが環境ホルモンによるものではないとわかってきています。以下に主な事象とその後の経緯をまとめておきます。

●「多摩川のコイ」井口教授の97年夏の調査によると18匹の雄から雌にしかない卵黄たんぱく質が見つかる。(97年10月毎日新聞「しのびよる人体汚染」で報道)
→東京農工大が原因物質を下水排水のし尿に含まれている女性ホルモンが原因であることを突き止める。(2000年6月読売新聞で報道)
●「カップめん論争」日本子孫基金の依頼による横国大環境科学研究センターの試験によりスチレンダイマー、スチレントリマー溶出の可能性ありと報道(毎日新聞1998/2 小島記者)
→その後の調査により環境ホルモンとしての作用が認められず、2000年7月に環境庁環境ホルモンリストから両物質が除外
●「イボニシのメスのオス化?」トリブチルスズ(TBT)が原因で雄にしかないはずのペニスが雌にも存在した(97年10月毎日新聞「しのびよる人体汚染」で報道)
→80年代に欧米とりあげられ90年に日本では法規制実施。その結果90年から97年の間に全国のバイ貝の調査ではTBT濃度は1/10に低下していた。これらの経緯は98年4月日本水産学会で報告済み
●「哺乳瓶問題」プラスチック製哺乳瓶からビスフェノールAが「溶け出すことがわかった」と横浜国大の実験結果報道(97/9 毎日新聞)
→高温の苛性ソーダを使った安全性を確かめるための強制劣化試験であった。結果は、溶け出した物質濃度は食品衛生法の許容基準の1/10以下であり、安全性が確認された。先の毎日新聞報道は誤報に近い。



小西康雄

「セクハラ」の驚くべき事実。

>大した問題だと思ってなかった。(58656)

 私もセクハラというと一般には男から女への性的いじめ、性暴力
というイメージがあり、何でそこまでやるの?程度しか思っていま
せんでした。ところが、セクハラのことを調べてみると、実は誰で
もセクハラと訴えられてもおかしくない状況があることに、愕然とし
ました。
 
 セクハラ行為か否かのポイントは「された本人が嫌な気持ちにな
ったかどうか」ということだそうです。だから、同じ事でもAさん
にすると「セクハラ!」と訴えられ、Bさんにすると「コミュニケー
ション」になる場合もあります(これこそが差別では!)。
例えば、セクハラの事例として、学校で先生が、性差で役割分担を
決めてしまうことや(掃除の分担でごみ捨ては男、女は窓拭き)、
会社で男が女性のみ「ちゃん」づけで呼ぶ、「女の子」という扱い
をする等。湯茶サービス・コピーなどの雑用、補助的な仕事は女性
担当とする。これらもセクハラです。
 また裁判にしても行為の性質上、第三者の面前で行われる事は少
ないため、行為を直接見聞した証人がいることは少なく、限られた
人間の中で裁判が進められ、本人が嫌な気持ちになったがポイント
です。だからセクハラと訴えた場合が圧倒的に勝訴のケースが多い
そうです。
 訴えられれば被害者に対する和解金・損害賠償金などの直接的な
損失はもちろん、そればかりではなく、紛争化することによって、
自身の職場や社会あるいは家庭に於ける信用・評価を失わせる事に
もなります。共認動物である人間にとってこんな辛い事はありませ
ん。こんな強制権利のポイントが「された本人が嫌な気持ちになっ
たかどうか」にゆだねられる。誰がどう考えてもおかしい。

 ここで考えたいのは、セクハラが良い悪いという価値軸ではなく
、何であれ法律として適用する以上、万人の共認が必要だというこ
とです。この当たり前のことが蔑ろにされているということです。
大多数の人が何かおかしいと感じながらも、一部の団体の権利・人
権+マスコミ権力で、あたかも皆が共認したように法律まで出来て
しまう。みんな共認の場の必要と、それが、現在の権利・人権に替
わるものだと思います。

 


廣重圭一

マスコミの世論調査は誤魔化しの世論形成

>共認形成の場を支配するマスコミ(や政治家や一部学者)の発信内容が誤魔化し一色になり、国家破綻や社会矛盾が激化していくのに本質追求はおろか本質批判さえ出てこなくなった時、過半の庶民(と良心的な知識人)の間に、「何かおかしい」「これは危ない」という危機感と、発信者への不信感が広がってゆく。(73071岡田さん)

マスコミが共認形成の場を牛耳っている以上、庶民は知らず知らずのうちに観念支配されていく。共認原理の世の中で力をもつのは世論であるが、これ自体をマスコミがしたたかに操作できる実態もある>リンク

2002年の8月、朝日新聞が報道に関する世論調査をしている。その結果は
「今のマスコミに大いに不満」が9%
「ある程度不満」が51%に達したという。また、それが目立つマスコミの順位は1位テレビ、2位雑誌、3位が新聞だった。

具体的な中身については
「人権に配慮が足りない」32%
「興味本位に騒ぐ」28%
「見方が一方的だ」23%
「権力批判が足りない」11%(「数字で読む日本人」自由国民社より)

この具体的な中身も微妙で、もともとの選択肢自体、新聞社が設定しているのだということは意識しておく必要がある。一見、庶民側にたってるようだが、庶民の疑問や不信を微妙に摩り替えることは容易なのだ。そして、そのデータが世論として共認されていく。(世論調査しながら世論形成しようとしている)

中身を追求したり、その存在の是非を問う設問は用意されない。これを誤魔化しといわずして何と言おうか。

例えばアンケートの中身が
「マスコミが答えを出せると思うか」
「マスコミが必要だと思うか」
「マスコミが庶民を支配していると思うか」
「マスコミが社会を閉塞させていると思うか」
などであれば、どうなるか。

ある意味、一定のマスコミ不信が顕在化している以上、彼らは更に誤魔化し報道を続けることしかできない。

平川要

プロの壁

>しかし、なぜ学者やマスコミや官僚は、生命力を失い形骸となったそれらの観念にしがみついているのでしょうか?それは彼らが、それらの観念を売り物にして現代の神官としての特権的な身分を手に入れた特権階級だからに他なりません。あるいは、本来万人が担うべき社会の統合という課題に自分たちだけが高給をもらいながら関われる身分という意味で、特権的統合階級と呼んでも良いでしょう。(『現代の神官=社会統合階級の欺瞞』968)

貧困が消滅した’70年以降、序列原理から共認原理へ社会統合原理は大転換したにもかかわらず、社会を統合する特権階級=身分制度が残存していること自体に根本的な矛盾を感じる。力や資本を背景にした支配・被支配という関係が、職業的分業を背景にした発信階級・受信階級という新たな身分(=職業的プロ)支配に姿を変えただけで、真の共認原理とは程遠い。

しかも、人々の不全に答えを出してくれているならまだしも、益々閉塞状況が進行して行っているのだから、何の答えも出せない彼ら無駄飯食いたちの罪は極めて重い。特権的身分というのは、そこに安住し堕落する(身分を守ることが第一になり社会のことは二の次になる68994)のが常のようだ。特権に守られた私権序列上位の集団が、私権時代の旧観念を駆使して、共認原理に従う社会を統合しているという奇妙なねじれが、益々社会を閉塞させていっているように思う。

人々も受信するだけ、評価するだけではなく、特権的身分を許している職業的分業=プロの壁を突破する段階に来たのではないだろうか。もはや彼らに何の可能性も感じない、期待できないという諦めの一方で、専門家=プロには敵わないというプロ信仰意識もあり、共認運動にとって最大の壁になっているように思う。

社会が変わるとき、旧社会の統合階級が癌になるのはいつの時代でもそうであって、同時に新たな可能性に収束することによってしか次代が切り拓かれないのも普遍的な事実である。役に立ちたい⇒みんなの期待に応えて答えを供給したいという欠乏の高まりは、新たな活力源を形成し、プロの壁を突破する原動力になっていくと思う。


 


岡本誠

囚われている若者たち

●自分に囚われている若者
たとえば今、若者の多くが「自分」に囚われ苦しめられている。

今日、露店でしりあった20歳の若者となんでや劇場に参加した。扱ったお題は「自分って、何? 生きるって、何?」。劇場で若者達からでてくる実感発言は、必ずと言っていいほどこの問いと向き合った事がある、もしくは向き合っている、という内容でした。20歳の彼も同様に、その発信される実感に尽く共感していた。なぜ、そのような思考になるのか?

●刷り込まれた「自分」
議論が進む中で明らかにされたのは、現実の壁や可能性に出会った時「どうすればいい?」の答えとして、学者・マスコミ・学校教育、そして親たちが、彼らにこれまで植え付けてきたもの。それが『自分が原点』という唯一価値=答えであったから。だから、みんな「自分って何?」という思考に流されながら、「自分って」と考えること自体が流されてるんだってことに気づかない「おそまつさ」であった。

●根拠のない価値観念。
その為に若者は追い込まれている。苦しいことから逃げる事も、可能性を見出すこともできない。なぜならば、可能性を見出す事も、苦しい事から逃げだすその先にも、迷いの先にある与えられた唯一の答えが『自分』だから。そして、その「自分」にこだわればこだわるほど、更に行き場のない苦しみがそこには待っている。

本当の答えはここにある。

『自我ではなく、共認こそ原点である』(2772)四方氏。

マスコミをはじめとして、中身のない答え=価値観念を垂れ流しつづけ人々を染脳教育している学者や文化人等のプロの社会統合階級。だからこそ、その社会統合・意識統合という仕事を、一刻も早く私たち素人の手に取り戻さなければならない。



笠原光

タバコは現代のスケープゴート

>タバコを悪玉にしている根拠は何なんだろう?

 そもそもタバコは紀元後間もないマヤ文明から吸われている史実もあります。日本人も、古くからタバコを吸っており、昭和だけ取り上げても、喫煙率に大きな変化がないにもかかわらず、ガン死亡率が9倍にも跳ね上がっています。その原因が工業化(つまりは人口物質)にあることは、明らかではないでしょうか。<

 昨日テレビのニュースで、EUがタバコのパッケージにショッキングな写真の掲載を義務付けるという事を放送していた。
気になったので、ネットで調べてみると

>British Medical Journal誌10月30日号によると、欧州連合加盟国で販売されるタバコのパッケージに、背筋が寒なるような写真が大きく掲載される日が近づいた。死体、ガン性の腫瘍、ぼろぼろの歯、病気の臓器などの写真は、一般市民、特に若者たちに喫煙の恐ろしさを教えるために選出された。< リンク

 タバコを吸わない私としては、嫌煙キャンペーンは、煙に悩まされる事が減りそうなので、個人的には反対する理由は無いのだが、ここまでヒステリックにエスカレートしてくると何かおかしいのではと思わずにはいられない。

 スケープゴートという言葉を思い出したので、調べてみると、

>スケープゴートのもともとのヘブライ語での意味は、古代ユダヤ人の罪を象徴的に負うヤギのことであるが、転じて、他人の過失の責任をとる身代わりの個人または集団という意味で使われるようになった。
 スケープゴートが犠牲となるのは、コミュニティが、自然災害や経済的混乱などのエントロピーの増大に直面した時である。社会不安がコミュニティに広がり、コミュニティが無秩序や内乱の危機に瀕する時、誰かがエイリアンにエントロピー増大の責任を負わせ、血祭りにする。その人物に本当に責任があるかどうかはどうでもよい。コミュニティのすべてのメンバーが、一体となって生贄を屠れば、その一体性がコミュニティの統一性を回復する。< リンク

 なるほど、社会不安が広がっている中で、答えを出せない統合階級が、収束不全という本当の問題から、皆の目を逸らすためにタバコに責任を押し付けているという構造がありそうだ。
 だとしたら、皆が、タバコを吸わなくなったら、次は昔のアメリカのように禁酒法なのだろうか。
 それとももっと適当なスケープゴートを見つけているのだろうか?


玉川泰行

マスコミの掲げるお題目

マスコミは、民主主義、福祉を錦の御旗に掲げていますが、かつて福田恆存は以下の様に喝破しています。

「民主主義政治の原理は、自分が独裁者になりたくないという心理に基づいているのではなく、他人を独裁者にしたくないという心理に基づいているのである。一口に言えば、その根本には他人に対する軽蔑と不信と警戒心とがある」(「民主主義を疑う」)

「忍耐、奉仕、天命、愛国などという昔の徳目が愚民政策のために利用されたと言うなら、自由、平等、民主主義、平和などの今日の徳目も同じことではないか。それらによって、国民は戦前より少しも幸福になどなってはいないのである。福祉国家の夢は富国強兵の夢ほどにも、人々に幸福を約束しない」」(「消費ブームを論ず」)

マスコミが拠る基盤は、人々を煽ることで初めて成立すると思う。煽る以上は批判を許さないばかりか、責任を他者になすりつけるのも当然になる。国内政治の不安定から目を逸らさせるために、他国に戦争をしかける国家に酷似している。

>問題を作り出した「本人」が、堂々と他者に責任をなすりつけ、それでいて誰からも批判されない、誰もこの事態のその異常さに気づかない。
 この現実こそ、第一権力化の最大の証明ではないだろうか。(80912)

今更ながら、マスコミのおかしさを感じました。

ごんべえ

ガン死亡率が増えているのはタバコが原因?

>喫煙と癌の因果関係は常に云われていますね。それが真実の様に、公共施設や交通機関、又各企業の室内や家庭に至る迄ヒステリックに思える程、禁煙の圧力が掛かっています。しかし、何故タバコにその原因を求めるのか?疑問でならないところが有ります。>(56943)

最近では、小さな子供さえタバコがガンの原因であると信じきっています。でも本当にそうなんだろうか?
細胞の突然変異であるガンなどの肉体破壊を引き起こしている原因は本当に何なのか?

まず、ガンとタバコの基礎事実から見ていきたいと思います。

単純な現象事実として、ガンが昭和56年から病気死因の第一位になっています。(2002年時点で総死亡の31%)リンク
そして、ガン発生の部位別率を見ると、平成13年で、
男:肺がん22.0%、胃がん17.8%、肝臓ガン13.0%。
女:胃がん14.8%、肺がん12.7%、直腸がん10.1%。リンク

では、そのガン死亡の年代推移を見ていきますと、
1910年 32,998人
1940年 51,879人(1910年比約1.6倍)
1950年 64,428人(1910年比約1.9倍)
1960年 93,773人(1910年比約2.8倍)
1970年119,977人(1910年比約3.6倍)
1980年161,764人(1910年比約4.9倍)
1990年217,413人(1910年比約6.6倍)
2001年300,658人(1910年比約9.1倍)リンク
⇒このデータ―から、特に1980年頃からガン発生率が上昇していると読み取れます。

次にガンによる死亡率の国際比較をすると、
日本を基準にした比率でみると、
中国郡部  (男 46.7%、女 45.5%)
中国都市部 (男 57.6%、女 59.4%)
香港    (男 66.6%、女 67.4%)
韓国    (男 52.9%、女 47.5%)
アメリカ  (男 72.8%、女102.2%)
アルゼンチン(男 54.9%、女 69.0%)
イギリス  (男 91.3%、女131.6%)
フランス  (男103.6%、女101.9%)
イタリア  (男107.4%、女115.0%)
ドイツ   (男 91.8%、女131.7%)
ロシア   (男 81.6%、女 93.0%)リンク
⇒このデータ―から、少なくとも先進国でガンによる死亡率が高く後進国の比率は低く、田舎より都市部のほうがガン死亡率も高いと読みとれます。

では、タバコの状況どうでしょう?
下記は日本における年齢別に見た喫煙率です。
------------------------------------------------------------
[ 昭和63年 ]
・男性
20歳代:63.2% 30歳代:63.6% 40歳代:58.1% 50歳代:55.4%
・女性
20歳代:10.6% 30歳代:11.5% 40歳代:9.3%  50歳代:7.4%
[ 平成12年 ]
・男性
20歳代:60.8% 30歳代:56.6% 40歳代:55.1% 50歳代:54.1%
・女性
20歳代:20.9% 30歳代:18.8% 40歳代:13.6% 50歳代:10.4%
(厚生労働省:国民栄養調査結果)
⇒喫煙率は、男性は年々下がり、女性は増えている。しかし、喫煙総数としてみれば減少している。

上記の基礎データ―からみても、喫煙推移とガン死亡推移との連関はどうも見つけられません。

タバコを悪玉にしている根拠は何なんだろう?

そもそもタバコは紀元後間もないマヤ文明から吸われている史実もあります。日本人も、古くからタバコを吸っており、昭和だけ取り上げても、喫煙率に大きな変化がないにもかかわらず、ガン死亡率が9倍にも跳ね上がっています。その原因が工業化(つまりは人口物質)にあることは、明らかではないでしょうか。


麻丘東出

「実感がない」のはなんで?

>露店でも、劇場でも、「マスコミが第一権力である」という実感がない、という人が多いようだ。が、問題の深刻さは、この実感のなさ=完全に洗脳されてしまっている、という点にある。

「力(影響力)は在ると思うけど、「権力」と言われるとピンとこない」
露店で出会う殆どの人がこんな感覚のようだ。阪本さんが言うように、「この実感のなさ=完全に洗脳されてしまっている」のだと気付くとともに、恐ろしささえ覚える。

しかし、殆どの人がマスコミの影響力を認めているのにも関わらず、なぜピン(実感がない)とこないのか?

1970年貧困が消滅したことにより、序列原理から共認原理に転換した。・・・にもかかわらず序列(身分制度)の頂たる「権力」という言葉が残りつづけるのは何故?そもそも共認社会において「権力」という言葉自体存在するのか??共認社会に移行した今、マスコミが第1「権力」にのし上がった???→・・・ピンとこないということなのかもしれない。

「権力」とは序列原理により生み出されたモノだという感覚自体が、ピンとこない一つの要因ではないかと思う。

そもそも「権力」とはなんなのか?

その答えは
「共認力だけが制覇力と統合力を兼ね備えている」田中さん(68752)
にある。
>各時代の制覇力は結局は最も統合力を発揮する人間、あるいは組織の下に組み込まれ、「権力」はその者たちが掌握することになる。(中略)
そして、共認力だけが、武力や資本力と違って始めから制覇力と統合力を兼ね備えた「力」である、ということです。これは、共認が人類社会の最終的な統合様式であり、時代が共認力を制覇力=統合力とする時代に変わったということは、既にその最終段階に入った事を示しているのだと思います。改めて、ここをマスコミが寡占していることの問題の大きさが浮かび上がってきます。

殆どの人がマスコミの影響力を認めている。
殆どの人がマスコミに匹敵する影響力を持つモノを知らない。
殆どの人がマスコミによる情報が事実だとは感じてはいない。

・・・にも関わらず殆どの人が「実感がない」・・・やばい。

「答えが欲しい=統合されて欲しい」という私達の潜在的な期待に答えていくのに必要な『共認力』を知らぬ間に牛耳られてしまっているのだということを認識する必要がある。


倉橋利弘

「問題の元凶」が批判されないことこそ第一権力化の最たる証明

> マスコミは、『人の役に立ちたい、供給者になりたい』という、人々の社会に対する、素直な期待に応える資格を完全に失ってしまっており、社会閉塞の真犯人であること=庶民の敵であること=共認運動の敵であること(80875)

 2004年10月30日、イラク・バクダッドで、アジア系男性の遺体が発見され、10月31日、遺体は、イラクで拉致された香田証生さんだと確認された。
リンク
 10月26日、アルカイダと関連があるとされているザルカウィ氏の武装グループが、ウェブサイトで映像を流し、48時間以内に自衛隊を撤退させることを日本政府に要求し、拉致した香田さんを殺害すると脅迫していた。

 マスコミ各社は、政府の対応、ブッシュ政権によるイラク戦争の是非、テロ組織の蛮行などについて、批判的な論説を発表している。が、何か違和感が残る。
 いったい、問題の本質は何なのだろうか?

 殺された彼は、専門学校を卒業後、勤めを辞めて、「自分探し」の旅をしていたという。
 「何が起きているのか、この目で見てみたい」と知人らの制止を振り切ってイラクに行き、その前には、ニュージーランドに行っていたようだ。
リンク
リンク

 さて、社会に対して、若者に対して、
 「自分らしさは大事なんだ」
 「本当の自分を見つけるべきなんだ」
 「自分のやりたいことをやるのがいいことなのだ」
 と教え込んできたのはいったい、誰なのか?

 他でもない、マスコミ、学者、学校ではないか。
 だとすれば、彼を殺したのは、マスコミ、学者たちではないだろうか? 

 現在も大勢の、おそらく数万人もの若者が、自分探し、やりたいこと探しを続けているだろう。そして、決して短くはない人生の時間を無駄にしている。

 マスコミは、北朝鮮拉致被害者の人生については同情をよせ、政府の責任を追及する。
 が、自分探し、やりたいこと探しによって人生を無為に費やす無数の若者の存在こそ、はるかに深刻、重要な問題ではないだろうか。彼らの人生に対して、発信階級はどう責任を取るつもりだろうか?

 問題の核心、本質は、小泉政権でも、ブッシュ政権でも、イラクのテロ組織にあるのでもない。
 社会に異常な観念がばら撒きつづけられている、という共認支配が問題なのである。
 
 露店でも、劇場でも、「マスコミが第一権力である」という実感がない、という人が多いようだ。が、問題の深刻さは、この実感のなさ=完全に洗脳されてしまっている、という点にある。

 問題を作り出した「本人」が、堂々と他者に責任をなすりつけ、それでいて誰からも批判されない、誰もこの事態のその異常さに気づかない。
 この現実こそ、第一権力化の最大の証明ではないだろうか。



阪本剛

マスコミとの同類闘争

第27回なんでや劇場『マスコミが第一権力化したのはなんで?』に参加して、改めて、社会の共認形成の場を寡占して答えの出せないマスコミは、『人の役に立ちたい、供給者になりたい』という、人々の社会に対する、素直な期待に応える資格を完全に失ってしまっており、社会閉塞の真犯人であること=庶民の敵であること=共認運動の敵であること、が、はっきりイメージでき、『彼らに代わって、自分達で答えを発信していかなければ!』という闘争心=実現の意思がふつふつと沸いてきました。

今回の劇場で新しく気づいたのは『70年以降、第一権力化したマスコミがその権力の基盤としていたのは、それまでの私権時代の権力者が基盤としていた氏族集団や家族集団ではなく、社会の共認形成の場そのもの(テレビの全国媒体網など)であり、彼らは貧困圧力の消滅→序列原理が無効となったらこそ、共認社会における『新身分』を手中にできた』というところ。
(●マスコミが一方通行(統合階級の染脳機関)という形であれ、バラバラに分解された解脱個体を収束させた全く新しい社会的な共認形成の場(正しくは共認支配の場)を作り上げた事は、注目すべきである。
(6324 素人の社会活動11 マスコミの共認支配 ))

新しい可能性が開かれた共認社会そのものを、その権力基盤にしながら、すでに可能性がなくなってしまった『一対婚家庭』に向けて、庶民に見捨てられた『旧観念』を発信し続け、既に活力の沸かなくなった『私権追求』に人々を導いたマスコミが、ガタガタになるのは当然。

テレビとは比較にならないくらい、充足伝播力・浸透力の強い『人そのものの共認機能=原媒体機能』をフルに使って、みんな期待発⇒新概念発の答え・新理論を、共認運動を通じて発信し『人類本来の自由な共認形成の場』『答えの供給者育成の場』を全国に再生⇒構築さえできれば、マスコミとの同類闘争に勝てる!と、可能性を感じました。

安西伸大

マスコミや政治家や専門家にはもう皆うんざり

今回の震災で、マスコミの無能ぶりと無価値がさらにはっきりとしたようだ。80155 にもあるが、>マスコミはたよりになりません。マスコミへは、支援活動の妨げとなり、 被災者の心労を倍増させる今の取材のやり方についての、抗議の声をあげてください。あまりにひどい状況です・・・などのブログの1節は転載に転載され多くの人の目に留まった。実際マスコミ主導の支援活動より、ブログ中心の活動のほうが活発なのも理にかなっている。

 いまや事件報道も、現場にいる素人の携帯電話からの掲示板への投稿がそのタイムリーさから価値あるとされ、1素人が大企業相手にネットで戦える時代になった。

 以前私も書いたが 60875 知識権威の象徴たる百科事典もウィキペディアなどに見られるように専門家の手を離れようとしている。というか、何の専門家がありがたいのかわからない時代になってきている。

>本当の創造は、素人が担ってきた 6590

 そして今各地の路上で「なんで屋」の悩み相談が人気である。権威あるカウンセラーより普通の技術者や会社員のなんで屋さんの言葉が心に響くのも当然のことだろう。

 残る統合階級最後の砦は政治の世界だけのようだ。お題目でも民主主義が万人の手で為すというのなら、ここのところを一刻もはやく、素人のてに委ねられる世にしなければならない。

新大阪駅

アメリカの企業へ投資されたカネは、多国籍企業の侵略資金に使われている

社債発行の6割は一般企業が発行しています。(4割は金融機関)

突出して多い業種はありませんが、発行額(2002年)、残高(カッコ内、2003年6月末)の多い業種を並べると次のようになります。
Utilities(公益).......... 7.4%(10.6%)
Energy................... 6.8%( 6.5%)
Telecommunication........ 6.6%( 7.4%)
Food,Beverage & Tabacco.. 3.9%( 3.9%)
Broadcasting & Media..... 3.3%( 3.4%)
Insurance(保険).......... 2.7%( 3.6%)
(リンク)

社債には企業のデフォルトリスクが付きまといます。社債を発行している企業の格付けをみてみると、非投資適格扱い(BB以下)が30%も占めています。2002年の発行額では非投資適格は約18%、ワンランク上のBBBを含めると4割強になります。

非投資適格企業のような投機的な対象は除外しても、社債を発行した企業は、国債利回り+1~2%程度≒5~6%の金利を返済して、さらに利益を上げているはずです。一流企業は別として、輸出力を衰弱させた米国企業がどのようにして高い利益を上げているのでしょうか?

ひとつのカギは、直接投資にあります。

直接投資には以下のような形態があります。
①新たに投資先国に法人を設立する形態のもの
(工場の設立などを伴うものなど。一般的に、グリーンフィールド投資と言われています。)
②既存の投資先国企業と株式取得・交換を通じ、提携などパートナーシップを結ぶもの
③既存の投資先国企業を買収するものなどがあります。

②、③の提携及び買収については、一般的にM&A(合併・買収)と呼ばれており、近年は、新たに一から企業を立ち上げるよりも既存の投資先国企業とのパートナーシップを活用した方が早く市場に浸透できるなどの理由から、M&Aによるものが増加しています。
(リンク「対外経済政策総合サイト」)

米国企業の対外直接投資(左)と社債純増額(右)の推移を見てみます。
2000年...1284億ドル...1626億ドル
2001年....970億ドル...3485億ドル
2002年...1170億ドル...1323億ドル
2003年...1348億ドル...1624億ドル
2004年...1994億ドル(第一四半期の季節調整済み年率換算)

2002年・2003年では社債の(純増額の)8割以上が海外への直接投資分になります。実際には銀行からの借入や新株発行による資金調達がありますが、2001年~2003年は、いずれもマイナスで推移していることから、社債で調達した資金のかなりの部分が海外への直接投資に費やされてと見ることができます。(同時に、直接投資以上に銀行ローンの償還や自社株買いに費やされたことも分かります。)

アメリカ企業は対外直接投資でどれだけ儲けているのでしょうか?

米国の対外直接投資の収益と投資額から収益率を計算してみます。
左から、直接投資収益 直接投資額、収益率
1990年...34.5億ドル....372.0億ドル....9.3%
1995年..303.3億ドル....987.8億ドル...30.7%
2000年..569.1億ドル...1592.1億ドル...35.7%
2002年..464.6億ドル...1348.4億ドル...34.5%
2003年..686.6億ドル...1738.0億ドル...39.5%

直接投資が活発になる90年代後半から収益率は30%から40%近くに及びます。

そこから見えてくるのは、アメリカの企業へ投資されたカネは、海外への直接投資(近年は特にM&A)を通じて、世界へ進出するアメリカ発多国籍企業の侵略資金になっている、ということです。

熊谷順治

震災・もうひとつの風景

新潟の実家が今回の震災で被災し、家の手直しなどに帰省した。
実家のある集落は、1~2割の家が倒壊か傾いて使用できず(赤紙)、半数程度が危険なため出入り要注意(黄紙)、使用可でも、内外壁がひび割れたり損傷している家が多かった。

今回の地震は、相次いだ台風と共に、自然の力の凄さ、気まぐれさを見せ付けてくれた。そして実家のある村に帰って感じたのは、意外にも村のみんなの元気さだった。

少し大きな余震があるたびに村の小単位(10軒くらい)で召集がかかって、避難所(といっても、誰かの家の車庫の前で、道が少し広くなった場所)に集まる。皆ドラム缶を加工して作った焚き火の周りに集まって話だす。

この雰囲気がとてもよかった。TVや新聞で伝えられるような大変さは、あるにせよ、その中身が全然ちがったのだ。

地震後数日たった夜、この焚き火の周りに集まると、“これから家の補修費にすごい金がかかるの考えると、やんなるよなあ。お寺の墓もみんな倒れてるし。お寺の裏山が崩れてお寺が壊れたら、村の檀家で持たんばならんし。”・・・・というボヤキから始まるが、

“・・でもお墓の復旧やら、家の補修やら、個々に別々の業者に発注するより、みんなで同じところに頼んで順番にやった方が安くいくよな?”と誰かがいいだし、“そうだそうしよう。も少し落ち着いたら見積もりとってみよう・・・”という風にみんな前向きで、比較的若い人がまとめ役になっていた。

その後は、酒を飲みながら地震関連の話で、路上で大いに盛り上がる。(ex:村の仲間が保険員やってる保険で、ごまかして保険でないかなぁ?、誰々の作った炊き出しのトン汁はうまい。)すごい大変さを抱えながらも、この楽しい雰囲気は何なんだろう。これが避難してる雰囲気?みんなで火を囲んでの雰囲気を楽しんでいる感じ。一緒だった小5の長男も“いい会議”と・・・。

彼らは、地震の発生後から、共同で炊き出しをし、村の家々の壊れた屋根を協力してビニールをかぶして応急処置をしている。年取った両親のいる自分の家も、彼ら村の衆が屋根にビニルをかぶしてくれたおかげで、雨露をしのげたのだ。感謝しても仕切れない思いだった。

彼らはまた、大変さや物・食料の足りなさを強調する震災の報道にも多少違和感を感じているようで、“街の人も、文句ばっかいって自分の車にこもってないで、もうちょっと協力しあえばいいのに。”とこぼしていた。

個々人で避難して、大変さばかりが強調され報道される。それは、避難してる人も報道する人も、個人というパラダイムを前提としているからだろう。支援するボランティアにしてもしかり。

逆に大地震でさえ、共同の課題として前向きに捉えていけば、みんなで、分かちあいながら時には笑いつつ、対応できる。この差は、精神的にはメチャクチャ大きいと思った。
(都市部なら、村に代わって本来は、企業が同じ役割をはたす必要があるのだろう。)

ともあれ、村の人にかなり元気をもらった数日だった。

 


井上宏

被災地援助も、活力再生⇒供給発へ

新潟県中越地震、台風23号など、相次ぐ災害による被災地の様子がニュースで映し出されるが、マスコミの報道や、国や自治体の対応には、何か違和感を覚えてしまう。

例えば、住民はこんなにも大変であるとか、現地では~が不足しているとか、人手が足りないとか、とにかくみんな困っている、だからみんなで助けてあげましょうという類の報道ばかりだ。

そして全国から食糧や援助物資が届き、ボランティアの人たちがやって来る。次はボランティアたちの活躍ぶりが流れる。しかしその一方で、避難所では、一日何もせず援助を受けながら生活する被災地の住民たちの姿があった。

明らかに住民たちは活力を失い、自分たちに出来ることさえも人任せになってしまっているように感じた。とにかく着の身着のまま、命からがら飛び出し、これからどうすればいいのかも判らず、不安で途方に暮れる住民の心中は察するに余りある。しかし、それだからこそ、住民たちの活力を再生してあげること、そのための支援が何よりも必要なのだと思う。

それは、単に食糧や物資を援助したり、住民に代わって何かをしてあげるようなことなどではなく、住民たちに役割を与えてあげることではないだろうか。しかもやるべきことは山ほどある。その一つ一つの課題を明らかにし、役割を作っていくことで、住民が自分たちで何とかしていこうという活力が、初めて湧いてくるのだと思う。そしてそれは、新しい社会の基盤にもなっていくはずだ。

更にその役割や活動に対し、ちゃんと給料を支払うことも必要になると思う。それは何よりも、みんなの役に立つ生産活動に対する評価の証だし、評価そのものが活力につながるからだ。お金の使い道としても、その方がはるかに有用であることは言うまでもない。

被災地援助に対しても、需要発から供給発への認識転換が必要なのではないだろうか。

小松由布樹

「お上」や「偉い人」の中にもバカがいる、という事実

村上龍氏の発行するメルマガ、JMM [Japan Mail Media] リンク が、一ヶ月ほど前の No.283Mで「UFJ銀行をめぐる問題がなぜこんなに迷走するのか」について、取り上げていました。
 そこでは、いわゆる金融経済の専門家たちが色々な角度から分析しているのですが、それを受けての、編集長(村上龍氏)の結びが次の文章です。

>NHKなどの上品なニュース番組では、UFJの合併劇について、「何故に」これほど迷走するのか、という角度からの報道はあまりありません。UFJという日本を代表する都市銀行の経営陣が、見通しの甘い人びとなのだと伝えることはおそらく一種のタブーなのでしょう。「お上」や「偉い人」の中にもバカがいる、という事実は、国民一人一人に個人として考えることを、また危機感を持つことを、要求します。NHKなどにとって、それが困るというわけではなく、そういう文脈でものごとを伝える習慣がないのでしょう。< JMM283M 「編集長から(村上龍)」より

 銀行だけでなく、最近のプロ野球の再編問題などを見ても、今や日本を代表する企業のトップたち、そして彼らを指導しているはずの(?)官僚や政治家たちも、先の見通しを全くもてないでいるという事実が誰の目にも明らかになりつつことを感じます。


玉川泰行

必要なものをみんなで創る

>逆に、現実社会から隔離された空間に居座って、悲観ばかりしている彼ら統合階級こそ、もっとも合理化や淘汰に無縁な存在と化しており、彼らの作り出してきたものこそ、過剰=ムダそのものなのではないでしょうか?(77403)

市場で提供されているものは不十分とは言え、多少なりとも人々が求めているものに基づいているわけですが、一方、統合階級が創り出したもの、法律や制度によって根拠付けられた(保護された)ものは、現実の必要からズレた、無駄と言えるものばかりになっていると思います。
たとえば介護保険制度によって強制的に徴収される保険料は税金と同じで、目先の答えばかりの福祉業界に注ぎ込まれているし、税金から注入される教育費も現実の求めに答えきれていない公立学校や教育業界に注がれています。医療や金融もしかり、制度によって守られた業界ほど現実からのズレが大きい。中でも、もっともズレが大きいのが行政機構そのもので、その人件費には膨大な無駄、ズレが含まれている。

西欧にキャッチアップするための産業政策や社会資本整備の必要性がほぼなくなった以降、政策の中心は国民の生活に直結する領域へとシフトし、一人ひとりの生活に直結した分野が現実の必要から大きく乖離した存在になってしまっているとも言えると思います。
逆に言えば、国民一人ひとりがそのズレを鮮明に認識するようになれば、状況を変えていくきっかけになるのではないかと思います。
要求主体としてではなく社会の当事者として、みんなに必要なものは何なのか、どうして創ればよいのかを考えて、実現に向かうことこそがみんなが求めていることだし、ヤル気がでることなんだと思います。だから、まずはそのための媒体(場や人など)を創り出していくことへの支援こそが必要とされていると思います。

規制緩和して市場に委ねれば何とかなるという安直な論調が今のハヤリなわけですが、それは何の答えにもなっていない、巧妙なすり替え、ごまかしでしかないと思います。

山田渉

「活力」探索で生まれる活力

「久々にお茶でもしない?」
小学校の教師をしている友人は、何か話があるときにこのメールを送ってくる。教師になって2年目の彼女。現在は、大阪の公立小学校の一年生の担任をしている。
開口一番、「ミドリはいつも元気そうやね。羨ましいわ~。」
彼女のトレードマークだった明るい笑顔は、そこにはなかった。目の周りにはクマ…表情も硬い。顔に疲れが滲み出ており、活力が全く感じられなかった。

 「学校楽しくないの?…って聞かなくても分かるかも~。」と私が言うと、「う~ん、1人でもがいてるって感じかなぁ・・・」と彼女。「今の学校って、どうなん?」この私の一言をキッカケに、堰を切ったように彼女は話し始めた。

 彼女の勤務している小学校で、若手は彼女一人。後は30歳以上の教師。彼女は今年、担任以外に学校の図書責任者も担っているが、前任者からの引継ぎは書類を預かっただけ。引継ぎというより、ただの引渡し・・・自分から分からないところを尋ねに行っても、「分からない。」という返答。“仕事してたとは到底思えない。書類管理してただけじゃない…”
 
 また、月に一回、教師間のミーティングがあるらしいが、その内容は、スケジュール調整・行事の内容決め、名目上は生徒のこと・教育のこと。年配の教師から意見が出ることは殆どなく、彼女が中心となってアイデアを提案し実行に移す。ベテラン教師たちは、面倒くさいことを嫌がり、「無難」に済まそうとする。そして、提案したらそのぶん彼女の仕事が増え、彼女だけが多忙になる。他の教師は、必要最低限の目の前の業務だけをこなし、活力は全く感じられないと言う。全ての仕事は「自分課題」であり、「みんな課題」になっていない。
 
 現状を再考してみても、現役教師の大半が「公務員」という身分に落ち着いていると言えるのではないだろうか。教師というものは、一度教員免許を取得すると、余程のことがない限りその資格を剥奪されることはない。年功序列の世界であり、一般企業のようなリストラはない。仕事をやってもやらなくても、大差はない。であるならば、どうして自らしんどい思いをするの?という感じ。世の中は既に共認原理に変わってきているにも関わらず、未だ閉鎖的な序列社会であるように思う。
 平成16年8月に文部科学省が出した「義務教育の改革案」の中で、「教員免許に一定の有効期限を設け、更新時に教員としての適格性や専門性の向上を評価する。」というものがあるが、現場の教師の殆どがこの案に反対している、と彼女は言っていた。

>現在の学校は、機能不全に陥っただけでなく、義務教育や公務員保護といった旧制度によって新たな教育制度の創出を阻害するだけの存在になっています。にもかかわらず、現状を放置し旧観念にしがみつく教師達の身分保障に膨大な金を投入することに、どんな意味があるのでしょうか。(70293小西さん)

 まさに、この通り。彼女自身も、いや、教育現場にいる彼女自身が一番、これを実感しているように思う。自覚しながらも、変革不可能視を抱きながら日々を過ごしている。そして、活力はダウンする一方・・・
 このように、教育問題一つとっても、活力のない人間がお金を貰い続け、活力のある人間は、その現場や制度に従わざる終えなくなり、活力ダウンしてその場から離れる・・・明らかにおかしい!こんな無駄なお金の使い方、どう考えてもおかしい!!

>現実社会から隔離された空間に居座って、悲観ばかりしている彼ら統合階級こそ、もっとも合理化や淘汰に無縁な存在と化しており、彼らの作り出してきたものこそ、過剰=ムダそのものなのではないでしょうか?(77403安西さん)

 このままでは、あらゆる領域において活力はダウンする一方・・・77434、77403などで幾つか提案されているが、その他にも活力を生み出す活動はたくさんあるはずだ。それらを発掘し、その活動を支援する。既に共認原理の社会に転換した以上、自ずとムダなもの(旧体制etc)は淘汰されてゆくだろう。現状に屈し、ただ不可能視するのではなく活力再生に目を向ける。活力を得られそうな方向に進む。それだけでも充分活力が沸く活動と言えるのではないだろうか。

「周りに活力のない教師がたくさんいて、そんな狭い世界で生きるのは息苦しかった。でも、もっと広い目で社会を見たら、可能性はいっぱいいっぱいあるし、活力源だって、たくさんある気がする。ありがとう!」
・・・帰り際、そう言って彼女は笑った。


アメリカ人は身分格差を顕示するため過剰なまでの消費をやめられない

>アメリカの所得格差は激しくなっている。1976年トップ10%の所得が全体の49%だったものが、データは古いが1999年には73%になっている。(76909)

小林さんが指摘しているのは資産格差の拡大であると思いますが、下位40%の人の資産を合わせても全米の資産の0.5%にしかならないそうです。

所得格差について補足しますと、アメリカでは、所得上位20%の世帯が1980年代以降そのシェアを拡大し、2000年には国全体の所得の約50%を占めるに至っています。逆に、それ以下の所得階層のすべてでシェアを縮小しています。さらに所得階層上位5%が国全体の所得の2割以上を占めています(米国商務省人口統計)。

つまり、資産(ストック)においても所得(フロー)においても富める者がますます富み、格差が拡大していっています。

これに消費性向のデータ(高額所得層ほど消費性向が高い)を勘案すると、次のようなことが見えてくると思います。それは、未だアメリカは、身分社会ではないかということです。その身分とは、白人のアメリカ市民であり、身分が上位である白人アメリカ人はそれ相応の暮らしぶりをしなければならないという意識があるのではないかということです。

>結果、大衆消費者(移民)たちは、まず「アメリカ市民」になろうとした。アメリカ市民であるとは、それらしくみえることである。郊外住宅に住み、守るべき財産と家族をもつことであり、物事を民主的かつ合理的に考えることであった。商品と結びついたデザインや広告は、この「アメリカ市民」らしく見せるにはどうしたらいいかを指示したのである。『アメリカの消費体質(2)』(15936)

その結果として象徴的なのが、アメリカでは所得階層と人種が連動していることです。家計の中位所得(家計水準で中央に位置する家計の所得)でみると、1970年以前から一貫して白人が上位で、黒人やヒスパニックは約7割の所得水準で推移しています。貧困層(4人家族で世帯年収18000ドル以下)は、全米で約3500万人(全人口の12.1%、2002年)おり、人種別人口に対する比率は黒人の24.1%、ヒスパニックの21.8%に対して、白人は8.0%に留まります。

また、アメリカでは企業のトップが高額な給与を得ていますが、CEOの給与が工場労働者の何倍かを示したデータでは、1980年に42倍だったものが、1990年には85倍、1997年には326倍になっています。ちなみに、売上高上位1500社で社長・副社長の地位についているマイノリティは男性で0.8%、女性で4.3%に留まります。

さらに、身分意識はキリスト教によって正当化され、強化されているのではないでしょうか。

>人間と動物を断絶する論理は、同様にキリスト教徒とそうでないもの、ヨーロッパ人とそうでないものなどを断絶し、ヨーロッパ社会の内部においてはユダヤ人に対する迫害であるとか、非常に根強い階層意識などを形成してきました。また、ヨーロッパ社会の外部に向けては度重なる略奪・殺戮行為であるとか、人種差別などとして発現してきました。『西欧と日本の階層意識の違い』(21959)

キリスト教信者はアメリカ人の9割近くを占め、毎週教会に礼拝に行く人はアメリカ人の4割、聖書の言葉を文義通り信じている人もアメリカ人の4割に達するという調査もあります。

白人が"選ばれた民族"であり、身分相応の消費と資産の保有→格差の拡大は当然のことと考える精神文化があるのではないかと思います。この身分意識は、国外に対しても向けられているかもしれません。

 


熊谷順治

着実に進行している米国支配

>知らないうちに、米国政府による日本改造(構造改革)が進んでいる。気が付いたら日本で建物を設計するのにも、アメリカの建築士資格を取得しなければならない時代がくるかもしれない。

建築に限らず、流通や電気通信、医療など、さまざまな圧力を強めつづけているが、アメリカの狙いの中心は阪本氏73812の指摘の通り、ビッグバン以降、急速に進む金融支配であろう。
外為法、日銀法、商法など立て続けにグローバル化の名の下に改悪され、外資の参入を加速させる手はずを整えている。

小泉が掲げた「構造改革」の目玉、郵政の民営化も郵貯を切り崩し、米系ファンドなどへ資金流出のチャンスを広げ、簡保が大きなシェアを握っていた生保への参入を画策していることは周知の事実である。

ハゲタカファンドなどと呼ばれる彼らの手口は、既に侵略に成功した新生銀行の事例を知ることがヒントになると思われるので紹介したい。

新生銀行は'00年、旧長銀を米投資グループのリップルウッドが設立したファンド(投資組合)によって買収された。長銀に対して既に7兆の税金が投入されていたが、彼らは資本増強のために1210億円を投資したに過ぎない。

さらに、貸し出し先の企業が倒産して焦げ付いた分は政府が保証するといった、瑕疵担保条項を契約条件として日本政府に認めさせたのである。おそらく金融当局は邦銀との馴れ合いの慣習から当局の指導は絶対であると甘く見ていたのであろう。
しかし、その後、第一ホテルや信販会社大手のライフ、ファーストクレジットなど次々に貸出先の企業を倒産に追い込んだのだ。
買収後、3年間に政府が支払った債権保証額は9000億円と言われている。

また短期貸出先の1割に対し、貸出の継続を拒否するといった極めてドライな経営手法を貫いた。その結果、業績は回復し、今年の2月に再上場を果たした。
投資ファンドは保有株式の35%を売却し約1000億の売却益を手にし、5000億近い含み益を確保している。しかも、租税回避策を講じていたため株式売却益に対し、国税局は課税できず、含み益を加えると2000億円以上の税収を取り損ねる有様だ。これは買収時に金融庁と国税局の間での調整がついておらず、縦割り行政の結果が招いた失態である。

このような事態は今後も、当然起こりうるだろう。小泉・竹中や新生銀行八城社長らに限らず、自分さえ良ければ国家や資産を米国に売ってもなんとも思わない、無責任な男たちがまだまだこの国の統合階級として存在しているのである。

参照:SAPIO(8月18日号)、読売新聞他

 


辻一洋

自分って何?の答え

「自分って何」というお題は、露店をやっていて、あまり得意で無かったのですが、先日のなんでや劇場で非常にすっきりしました。

>若い人たちが探しているのは、自分などではなく、やりたいことや社会的役割。それを、マスコミや大人たちが自分たちの価値観を押し付けて「自分探し」と呼んでいるだけ。

確かにその通りです。世間で若者の自分探しといわれている行動も、冷静に考えてみれば、アジア世界の旅行であったり、さまざまな職業を体験してみることです。若い人の意識は自分などという内面世界ではなく、色々な人との出会いや海外も含めた様々な社会を体験することといった、自分の外の対象世界にしっかりと向かっています。

>本来、仲間や社会に向かおうとしている若者の意識を、古い価値観で、自分という内面世界に向かわせ、若者の意識を閉塞させているのは、「自分のやりたいことを探しなさい」という大人たちの無責任な発言。

まさしく、若者たちが潜在意識で仲間や社会に可能性を感じて、対象世界の獲得に向かっていこうとしているときに、全く逆の自分の内面を指差して、「君のやりたいことはここにあるはずだから、自分の中に探しなさい」と教えているのが今の学者や学校、マスコミ、そして親たちがやっている事です。

しかし、もともと若者たちは、自分の中にやりたいことが無いから、仲間や社会に可能性収束しているのです。つまり、今の学者やマスコミ、親たちがやっていることは、若者が社会に向かう可能性に蓋をして、何も無い自分という観念世界に閉じ込めることです。このような行為は、犯罪的な行為であり、今すぐやめなければなりません。

自分とは、そこにやりたいことが存在する場所や実現する目的ではなく、自分の外にある、やりがいのある仕事や社会的な目的を実現する役割を担う存在であると思います。

野田雄二

親の囲いが、対象を遮断し、活力を衰弱させる

>'90年頃以降完全に対象同一性(規範同一性)を失った若者はやりたいこと=役割探しを始め74917、
私権企業に魅力を感じられず、すぐ辞める若者が増えてきました。
一方で、親元に居たいから会社を辞めたり離婚する若者もいるようです。

本来、対象と同化する過程は、まず、赤ん坊が母親に同化し、次に家族や仲間へと同一化の対象を広げ、彼ら=目の前の対象を通じて少しずつ根本規範や社会そのものを獲得していきます。

しかし、仲間やみんな(社会)に収束せず(orできず)に、親(の期待)に収束し続ける若者も増えています。対象同一性を失った多くの若者は適応欠乏⇒潜在思念にしたがって仲間⇒みんなへと同化し、対象の獲得を試みるのですが、乳幼児期に親和不全が生じた場合はひたすら母親に同化収束します。

>乳幼児期の母親との親和充足(笑顔の交信やスキンシップによる安心感)が人格形成上決定的に重要であるにもかかわらず、スキンシップが充分できていない場合、子供は親和不全(怯えに近い不安)に陥る。しかし、赤ん坊にとって母親は絶対存在であるため、親和が得られないのは「自分が悪い」からだと自己攻撃し、己の欲望や期待を封鎖して、母親から与えられる規範観念(「ああしなさい、こうしなさい」「それしちゃダメ」etc)にひたすら収束する。68500

母親への同化収束力が強すぎるために母親以外は同一化の対象にはなり得ず、仲間圧力=同化圧力も表層的だけでやり過ごしているようです。

しかし、'90年以降、対象を失った彼らの親たち(74917)
に同化しても当然答えはなく、中身(=対象)のない親の囲いに幽閉されたまま、全く活力の出ない存在となるのは必然です。親以外は表層でやり過ごしてきたが故に、仕事や人間関係といった現実の圧力に耐え切れず(同一化できず)、活力が出ない=(対象のない)親の期待に応えられない自分を攻撃し、鬱やひきこもり、体調不良などの肉体不全で文字通り身動きできなくなる若者も増えています。

「やりたいことが見つからない」若者や、「会社をすぐ辞めてしまう」若者が増えたのも、親へ同化し続けた結果と言える層が少なからずいるようです。

辻一洋 

「みんな」の中に同一性を見つけること

>'70年の貧困の消滅を契機に、それ以降は序列規範が解体される過程にあります。根本規範(本源規範)の大部分を引き継いでいた序列規範が解体されることは、対象同一性(規範同一性)の対象が無くなること、つまり、人々がどんどん対象性を失い自分だけになってゆくことを意味しています。(74917村田さん)

「自分」というものを考える意識の背景には、
対象同一性(規範同一性)が絡んでいるように思う。
つまり、「自分」=収束対象。
収束対象というのは、規範・役割。

>根本規範(本源規範)の大部分を取り入れてきた序列規範が存在していた時代(封建時代)、そして、それに私権の価値観(近代思想)が混在してきた近代には、行動すべき方向が示されていた。つまり、規範を守れば良いとされていたし、守らなければ悪いという基準が明確であったと言えます。(同上)

規範がガッチリしていれば、その規範の中で生まれ育つので、
「自分」などと考えるまでもなく、
自分の中身=規範ということになる。

戦前の「ヤクザ」や‘80年頃の「不良」などを考えてみると、
規範つまり善悪がはっきりしているので、
彼らは「悪」にきまっている。
周りから「悪」という烙印を押されているので、
「自分って何?」と考える必要は全くない。
そこで、努力してみんなの期待に応えられる方向に向かうか、
トコトン悪の道を突き進むか、という選択があるだけ。

現在はまさに、収束不全の状態。
収束対象(=規範・役割)が見えない状態。
「自分で考えなさい」「自分らしく」などといった、
大人たちの無責任な言葉を受けて、
みんな「自分」を必死に自分の中に見出そうとする。
しかし、当然のことながら「自分」の中はカラッポ。

「自分」=収束対象であるならば、
新たな収束対象(規範・役割)を見つければよい。
つまり新たな規範を作ればよい。

「自分探し」や「個性」などといった、
上の世代からの押し付けの言葉に誤魔化されず、
意識を「みんな」に向けること。
「みんな」の中に同一性を見つけること。
それが新たな規範作りの第一歩なのではないだろうか。



「負け犬女」論争

>女性が社会進出を目指したのは、決して男と同じ役割を欲したり、権利を主張する為ではない。ましてや社会閉塞をもたらすためなどではあるはずもない。
>男と社会的課題を共有して女の担う役割を果たし、共認充足を得る為であったはずだ。

これまでの女性の社会進出は(男女同権論者の欺瞞的解釈及び主張はあるにしろ)、社会が序列原理→共認原理へと転換する中で、新しい社会的役割を模索してきた過程とも言える。

しかし、最近の「負け犬の遠吠え(酒井順子著/講談社)」(「負け犬」=「30を過ぎても未婚で子供を産んでいない女性」のこと)と言うエッセイを発端とする各メディアでの「負け犬女」論争は、「結婚をしていない女性は社会的劣者である」とする風潮を生み出している。

とうの私権時代の残存課題となった結婚制度は、未婚率・離婚率の増加に見られるように人々の意識からどんどん乖離して形骸化しつつある。また、家庭は幼児虐待、凶悪犯罪の低年齢化といった多くの社会問題を抱え、もはや子供を育てる機能を失っているのが現実である。

一連の報道が、マスコミの保守化(要求するだけの男女同権論者に対する批判報道)に立脚するものであるのは明らかである。

しかし、人々の意識が収束不全→目先の秩序収束している現状、男女関係・育児と言ったたくさんの社会問題に対して、一切「答え」を出そうともしないままに、女性の社会進出に対して価値判断を下そうとする今回の風潮は、女性の社会的役割を共認・確立していく中で、極めて危険なものと言える。


 


にっすぃ~

秩序収束と答え探索の綱引き

みんなフィーバーや制度収束や国家収束etc秩序収束ばかりが目に付くが、もう一方の答え探索は、ニュース収束や人間ウォッチングや仲間内でのマジ話くらいしか顕在化していない。
これは、共に最深部の適応⇒探索の収束先でありながら、秩序収束はとりあえずの適応収束である(従って、既存の制度etc、具体的な収束先が存在する)のに対して、答え探索は最深部での適応収束であり、従って(ニュースも、ウォッチングも、マジ話も)社会収束であるという所までは云えるが、その具体的な収束先がはっきりしない(=答えが見えない)からである。

強いて云えば、現在、最深部の(答え)探索は、みんな探索⇒社会収束⇒事実収束へと向かっている。
そこに今後は、とりあえず制度や国家に収束しても、(共認原理に対する私権原理の)矛盾が目に付くばかりで、答えにならない(上手くいかない、活力が生じない)という現実が、深部への探索圧力として加わる。
更に、批判するだけで答えを出せないマスコミ(⇒旧観念勢)に対する反感と不信が広がってゆくが、これは旧観念支配に対する庶民の反感の顕在化に他ならず、旧観念支配の終焉の始まりである。

マスコミ(⇒旧観念勢)に対する反感が広がれば、庶民は遂に旧観念支配の網を破って本音を発信し始める。まず、人権・福祉が、次いで同権・個人が槍玉に挙がり、それ(旧観念批判)を支える根拠が求められる。
その根拠こそ、事実の認識であり、私権時代を突き抜けて原始⇒サル⇒生物史にまで遡った社会構造論である。そして、それに基づく答えこそ、序列原理から共認原理への転換であり、実践的にはなんでやネットワークの構築である。
 

岡田淳三郎

'90年代の危機感と変革期待の行方

'90年代の危機感とは、私権意識にとっての私権体制に対する危機感に過ぎない。従って、自我・否定意識の強い者ほど終末論やオカルトに収束してゆくことにも成ったが、もちろん、否定や終末論ではどうにもならない。こうして、私権体制の危機感に基づく抜本改革期待が高まってゆく。もちろんこの変革期待も、主要には私権意識発の私権体制の変革期待であるに過ぎない。

他方、'97年以降、意識の深部で脱私権判断に基づく実現探索(=当事者意識)が生起し、強まってゆく。この当事者意識が、終末論(=否定)を止揚して変革期待に昇華させたターニングポイントであったことは間違いない。しかし、この実現探索は、脱私権の充足可能性の探索に向かうので、危機感や変革期待はとりあえず封印され、課題捨象の充足基調に流れてゆく。

'02年、私権の衰弱の果てに、私権収束の可能性を根底から断念せざるを得なくなり、収束不全が生起するや否や安定収束⇒秩序収束が強くなる。そしてこの新潮流は、あくまでも脱私権発の目先の秩序収束であるが故に、私権発の「抜本改革」に対しては、(何も期待はしていないが)むしろ傍観or暗黙裏に肯定のスタンスを取る。

この秩序収束を追い風に、いったんは、私権発の国家収束や指導者期待(小泉信仰)が強まり、批判するだけのマスコミや要求するだけの旧観念勢力に対する反感が広まってゆく。かくして、'04年、第一権力はマスコミから国家(自民党)に再転換し、マスコミの右旋回=保守化が進行中である。おそらく、今後、一部の者が要求してきただけの(みんな不全に基いていない)人権や福祉の特権は、剥ぎ取られてゆくだろう。

しかし、国家破綻・市場破綻は着実に進行し激化してゆく。(例えば、今や市場は、マスコミ、特にCMによる幻想共認の形成力に大きく依存しており、庶民のマスコミ離れは、一段と市場縮小を加速させることになる。)

それに対して、現在の秩序収束もマスコミ不信も、元々その源は収束不全⇒当事者意識の生起にあり、深層の当事者意識は、国家破綻・市場破綻が進行するにつれて、答え探索⇒事実収束を強めてゆく。この事実収束が最終的に(秩序収束を利用した)私権勢力の誤魔化しを打倒してゆくことになる。



  岡田淳三郎 

2004年、そしてマスコミもガタガタになった

> たしかに最近、路上でいろんな人と話をして、庶民のマスコミに対する違和感が急速に増大してきているのを感じる。いや感じていた。老若男女を問わずである。

 2004年は、歴史的な転換点になるかもしれない。意識潮流の大きな転換を示すと思われる象徴的な事件が重なったからである。
 
 4月7日および14日、イラクで拉致された日本人の活動家、ジャーナリストらに対して、人質に取られた直後から(15日、17日には解放)、本人らと自衛隊撤退を求めた家族に対して、
「新聞やテレビの報道を通じて、家族は思い上がっているのではないかと思った。ボランティアはイラクへ行かなくても国内ですることはある。極限すれば『自業自得』だ」「家族や本人は調子に乗り過ぎている。自己責任であり、かかった費用は本人たちが負担すべきだ」
 といった非難の電話や匿名掲示板での批判が相次いだ。
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 4月23日、3閣僚に年金未加入期間があることが判明したのを皮切りに、与野党の多数の議員に保険料の未納期間があることが判明した。が、5月13日以降、報道番組のキャスターらも未納期間があることが判明。
 6月5日には、参議院本会議で給付額抑制・保険料の段階的増額を盛り込んだ年金制度改革関連法案が可決、成立した。
リンク 5月22日、北朝鮮に拉致された日本人の子供たちが帰国した際、小泉

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誤魔化しのパフォーマンス

>小泉の自己正当化の為の攻撃的詭弁とパフォーマンスに、支配層の3/4→庶民の1/2が飛び付いている。その世論を背景に、官邸による報道規制の圧力が強まっていることも容易に見て取れる。
これは、かなり危ない。いったい、何故小泉の支持率は高いのか?

「自民党をぶっ潰す覚悟で抵抗勢力を抑えて構造改革を断行する」。01年4月、まさに、「攻撃的詭弁」を引っさげて発足した小泉政権。当時、89%という驚異的な支持率であった。かつて、高度成長終焉期、「貧困の消滅」とともに「みんな期待」が消滅した30年前、懸案の日中国交正常化を果たした田中内閣支持率78%を凌ぐ数字である。

「構造改革なくして、景気回復はない」と主張、誕生した小泉内閣。「改革」の2文字に寄せた人々の社会不全(⇒みんな期待)をこの驚異的な支持率が示している。02年2月、田中真紀子外相の更迭で内閣支持率が50%に急落するまで、01~02年度にかけて60%以上の高支持率を確保していた。潜在した人々の収束不全⇒みんな収束に響いたのであろう。

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