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統合階級=傍観者は、パラダイム転換の象徴

統合階級=傍観者と言う認識は、まさに社会のパラダイム転換の象徴の様に思えます。

これまでの私権社会では、その価値が武力(力)から資本(お金)に変遷しても、統合者である支配階級は当事者であり続けました。それはその時代の中心価値が所有可能な「私権」であるが故に、彼らの私権獲得という闘争課題は現実そのものだったからでしょう。

翻って現在の価値はまさに認識そのものとなりました。
認識とは、現実を生きるための価値(答え)です。
そして、それは誰も所有することのできない価値であり、もっと言えば皆が共有してこそ価値が出るものと言えます。

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演者こそ傍観者の親玉、観客は二乗の傍観者

>演劇は、演じる者と観る者がいる。当然だがあれは演じる(あるいは創り上げる)方が断然充足する。観るだけ、というのは明らかに解脱であり、代償充足だろう。
>いずれにせよ、観るにしろやるにしろ、今の商品化された演劇は代償充足。

観るのは当然、観客=傍観者だけど、演じるのは当事者?
学者でも役者でも、もっぱら表現することに頭を使っているけど、当事者として現実と対峙してる訳じゃない表現者って、これこそが傍観者の親玉なんだと思う。で、それを見ている観客は二乗の傍観者(それとも、傍観者の子分?)。
私権不全から社会不全に変わったっていうのは、それだけ大きな転機なのに、相変わらず社会不全から目をそらして、非現実の世界を演じるなんて、充足になり得ない、衰退していくしかないんだと思いました。

あと、私権時代の解脱が共認不全、共認非充足からなら、いかに認識形成サイトが、本物の解脱の側面「みんな充足」のあたりをカバーできるかも鍵となっていくのかもって思いました。ここで、頭を使うのは大変!でも解脱も必要?ってところが残る課題??

立石裕美 

傍観者である限り、体制と反体制は共犯関係である

>学者や文化人やマスコミは、教育や研究や発信を業とする特権階級であり、社会の単なる傍観者に過ぎない。決して現実社会を生きる当事者なのではない。
まして、傍観者に過ぎない特権(知識)階級が供給する情報をひたすら消費してきた読者・観客は、当然のことながらもっとひどい傍観者に成り下がってゆく。

社会問題(旧体制の崩壊現象)がこれほどまでに顕在化し、誰もが捨象できないレベルにまでになれば、体制を批判することほどたやすいことはない。社会について真剣に考えていなくともそれはできるし、賛同も得やすい。

実は、学識やマスコミは大衆を傍観者に押し込んでおいて、その大衆の思い(体制批判)を代弁することで、自らの存在意義を保っているのではないかと思える。そのような大衆の期待が存在したからこそ、これまで特権階級として居られたということもあるだろう。


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批判者(傍観者)は、意識生産者ではない

>要するに、認識形成サイトに投入される大衆の仕事エネルギーこそが、その場を、国家を超えた全く新しい社会統合機構(の中核部)にすると同時に、市場を超えた全く新たな生産関係(の中核部)にしてゆくのである。
これだけの大事業が、遊び半分で出来る訳がない。<

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超国家・超市場論 もう、傍観者=インテリ統合階級は、要らない

既に述べた様に、人類の命綱は共認にあり、従って認識形成こそ社会形成の生命部である。ところが、これまでは人類の命綱である共認形成の要(かなめ)の位置に、学校(教師)や大学(学者)やマスコミ(報道人や文化人)が陣取り、一握りの知識階級が人々を染脳し、共認を支配してきた。

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超国家・超市場論 認識形成の『場』を構築することこそ、真の社会活動である

社会は、人々の共認によって形成されている。実際、この社会を動かしているのも、この社会を統合しているのも、全ては人々の共認に依っている。従って、社会を統合し直すために最も重要なのは、人々の共認内容=認識を変革し、新たな共認内容を形成してゆくことである。
なぜなら、共認こそ人類の命綱であり、その共認内容は人類の命運を左右する(例えば、共認内容を誤れば人類は滅亡する)ものだからである。また、人々の認識さえ変えることが出来れば、それに応じて社会制度や体制を変えるのは簡単だからである。要するに、認識形成こそ、社会形成の生命部なのである。

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「答え」としての『実現論』が意味するところ

今まで、統合理論(=答え)としての『実現論』も何度か読みました。最初はその「答え」の意味するところはよく掴めなかったのですが、最近の下部意識にスポットを当てた現実直視に関する投稿の流れで、現実は人々の意識によって規定され、人々はその意識に基づいて行動していることがようやく解ってきました。

そういう観点で読み返すと、『実現論』がサル時代から遡って人間の下部意識を解明するべく事実認識を積上げ構造化した理論であることが見えてきてきました。
そして下部意識の構造がある程度解ると、不全を頭の中で自己正当化する自我意識が、事実や真の下部意識を捻じ曲げるという「現実」が徐々に解るようになってきました。
そして現代は、私権システムという自我意識を駆動させる麻薬が切れてきて、本来の下部意識と上部意識が徐々に真直ぐに繋がりつつあることも、様々な現象からなるほどと思えてきました。

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新しい経済学の可能性

>やはり、人間の意識を把握しないと、経済学も含め時代は語れないと言うことでしょう。

今の経済学が終わっており、古臭いものになっていることは、みんな分かってますし、批判するだけなら(学者自身が自己否定しなくても)子供でもできます。古典派経済学以降、サプライサイド、マネタリズムなど、いろんな学派が登場して学会の論争は賑やかなようですが、どの理論も現実の財政赤字の問題、不良債権の問題などの出口の見えない構造不況の問題やグローバル化による国際不均衡の問題などに答えを見出せていないという点から考えて、現実にそぐわなくなっていることは誰の目から見ても明らかでしょう。

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ニュース不感症

私も、ニュース番組を見て感じることはいろいろあるのですが、あまりにいろいろなことがありすぎるせいか、たいていのことには驚かなくなってしまったというのが率直な感想です。さすがに、アメリカのテロ事件クラスの大事件になると、TVに釘付けになってしまったのですが、正直言って、日頃マスコミから垂れ流されるニュースには、またかという程度で、たいして注意を払わなくなってしまっています。この点は、皆さんの意見も聞いてみたいところですが、職場や仕事先での会話でも、みんな結構TVや新聞を見たりしている割にはニュースで報道されていることが、あまり話題には上がらないところから推察して、みんな似たり寄ったりの感じを持っているのではないかという気配を感じます。つまり、マスコミのニュースに対しては、殆どの人が傍観者であり、たいがいのニュースには(自分に関わる以外のことには)不感症になっているのではないかという気がします。

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観念パラダイムの逆転 残る観念は、頭で塗り替えたら終い

既に、最も重要な下部意識は、私権収束から本源収束へと転換した。従って、今後(30年間)は、上部意識=観念に焦点が移る。社会の最先端では、旧来の私権闘争に代わって、観念闘争が、最もホットな場となるだろう。

既に述べた様に、旧パラダイムと既成観念は、本源収束の出口を塞ぎ、社会を八方塞がりの状態に陥らせている。もしこのまま、旧パラダイムから脱却できなければ、人類は滅亡する。
しかし我々は、遂に、生存圧力に基づく現実否定→倒錯思考の観念パラダイムを全的に逆転させる新パラダイムを見出した。それは、同類圧力に基づく現実肯定→実現思考の観念パラダイムである。
それは、とことん現実に立脚し、現実を直視し続ける思考パラダイムであり、旧パラダイムの生み出した倒錯観念(古代宗教)や欺瞞観念(近代思想)を全否定して、本源収束を導く全く新たな状況認識(誰もが認めることのできる事実認識の体系)を構築してゆくだろう。

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「自分らしさ」を理解できない人々

随分前に先住民族の文献で読んだのですが、彼らは「自分らしさ(MYSELF)」と言う観念が理解できないそうです。
(むしろ理解できないと言うよりも、存在しない)

彼らは、自分が大地の一部であり、(大地と)同一であると考えているため、その大地の上に立つものは全て「同じもの」だと理解しており、
ネイティブであるかどうかや、宗教に関係なくその認識を持っているようです。「大地に立つもの全て」であるので、獣や鳥、花や木々にまでその認識は及びます

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観念パラダイムの逆転 現実、その下部意識と上部意識

我々は、あくまでも現実に立脚し、現実を対象化して生きてゆく。それは、決して現実を否定しない(むしろ、とことん現実の可能性を追求してゆく)ということである。それに対しては、当然、次の様な疑問or反論が出てくるだろう。
1.現実に残存する自我・私権も否定はしないのか?
2.支配観念も現実の重要な構成要素であり、それを否定するのは矛盾では?

確かに現実は、本能回路・共認回路が形成する下部意識(=潜在思念)と、観念回路によって形成された上部意識(=既成観念)によって構成されている。

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観念パラダイムの逆転 現実否定の倒錯思考

原始人も現代人も、現実に立脚して生きており、その意味では、現実を受け容れ、肯定して生きている。それは、当然すぎるくらい当然の事であって、現実を否定するなどというのは天に唾するようなもので、現実には有り得ない不可能なことなのである。実際、我々はメシを喰うことを現実に否定することは出来ないし、その為に市場の中で何がしかの金を得ることを現実に否定することも出来ない。
現実の否定は、頭の中でのみ(=観念としてのみ)可能なのであって、決して現実には有り得ない。実際、現実にメシを喰いながら現実を否定するというのは自己欺瞞であり、それでは下半身(存在)と上半身(観念)が断絶し分裂して終う。
それほどに、現実を否定する意識というものは異常な意識なのであり、この異常な現実否定こそ、現実の中に可能性を求めるのではなく、頭の中だけに閉ざされた可能性を求める(当然それは決して実現されることがない)倒錯思考の原点である。
現代社会の至る所で噴出する異常現象は、全てこの現実否定→倒錯思考の観念パラダイムが生み出したものであると云っても過言ではない。

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現代意識潮流と戦略ターゲット

現代意識潮流と実践的突破口〔図解〕
http://www.rui.jp/docs/link/shikata011225.jpg

全てのネックは、「答えを出せない」という一点にある。しかし、我々は既成観念を全的に否定した事によって(かつ思考を可能ならしめる現実基盤=共同体を形成し得た事によって)、奇跡的にその答え=実現構造論をほぼ構築する事が出来た。後は、その共認形成の為の運動論が残っているだけである。

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マスコミ共認支配の脱却=個人主義からの脱却

>社会は急激にそのシステムを変革しなくてはいけない状況に成ってきました。 (つまり新しい価値観が必要なのです)

  ■急激なデフレ,
  ■結婚をしなくなる
  ■離婚も増える
  ■子供が激減
  ■高齢者が急増する。

これだけの,急激な社会変化に,今までの社会システムはなすすべを持っていません。

新しい,社会システムが必要であることは,皆が薄々感じている。<

たしかにそうです。

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思想の死とマスメディア

70年安保闘争を最後に、世の中から社会変革を目的とした運動が消滅した。そして思想はもはや輝きを失ったままである。思想も運動も再生する気配はない。それどころか、現代、何か物を考えれば宗教であるかのような異端視をされ、何か運動を考えれば危険な集団とレッテルを貼られる様相を呈するに至っている。

考えれば、この市場社会が環境破壊や精神破壊を進行させ、市場自身も崩壊寸前なのにである。閉塞感だけが蓄積され、危機感が上昇しているにも関わらず、どこからも新しい思想も運動も立ち上がってこない。奇妙な現象であると同時に、だからこそまっしぐらに破局へと進んでいるように思える状況である。

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近代は「現実を否定すること」が「知的」であるとされた特殊な時代

◆◆「否定的」存在として始まった知識人

 知識人という言葉が使用されるようになったのは19世紀末からで、それはドレフュス事件に端を発しています。

 ユダヤ系のドレフュス大尉は、1894年、対独スパイ容疑で逮捕され、終身流刑を宣告されましたが、ドレフュスは無罪を主張します。
 1898年作家ゾラが「私は弾劾する」という見出しで大統領宛の公開状を発表し、軍の不正をついたことから、軍法裁判という正規の手続きに対して自分の社会的立場や能力を越えて発言するものが現れ、それが知識人だったのです。

 知識人であること、それは初めから社会にとって否定的な意味合いを帯びており、自分とは無関係な事象に対して口出しするものでした。
 それゆえ、知識人という言葉は、知識人の敵から名指されることによって流布するようになります。
 知識人という言葉は他称であり、社会の規則に対して異議申し立てをする者であるがゆえに、知識人は否定的な存在でした。

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観客化、市場化と「いつでも充足」

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=15730「 犯罪報道に対する違和感と観客化」でも触れましたが、観客化することで、人は単にそれを見る(楽しむ)だけの無責任な存在となってしまいます。つまり匿名存在の基礎となる顔無し、名無しの無責任存在へと人々が堕してしまう原因の一つが観客化にあるといえそうです。

 >テレビなどのメディアの発達は、この解脱充足をいつでも実現可能にしてくれた…。個室化を推し進めることを可能にさせたのは、この【常時充足】を実現したメディアの発達を抜きにしては考えられないのではないでしょうか。(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=16258)
 仰る様に観客化を、極限まで推し進めたのがメディアと言うのは、良く理解できます。 
 
 しかし逆にこの人々の常時解脱の欲求=いつでも手軽に充足したいという欠乏こそが、限りない観客化と匿名社会化を推し進めた有力原因とも言えるのではないか、と私は思います。
 

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社会統合組織の史的総括 市場と演場

B.市場
安定した社会で解脱収束(=統合力の弱体化)を強めた人々は、自由な性闘争と性市場を増大させ、それを母胎として私益競争=市場が繁殖(拡大)する。

しかし実は、市場は統合組織足り得ない。
侵略も不況も精神破壊も環境破壊も、自力では何一つ処理できず、それら全ての課題を国家に押し付けることでしか存在できない存在であり、つまりは国家というモチに生えたカビに過ぎない。

にも拘らず、国家の私婚共認や観念共認への依存収束により、武力<資力<性権力となった以上、性権力発の市場の意向に国家は従わざるを得ず、国家は市場の下僕となる。

市場は、国家と私権に立脚しつつ、性闘争や自我を美化・正当化する近代思想によって、より邪心を拡張する方向に脱却したとも言える。

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共認革命 運動信仰を捨てて、共認革命を

社会に関心を持つ人の多くが、未だに社会変革と云えば身体を張って行動することだという行動信仰(古いパラダイム)に囚われ続けている。しかし、(云うまでもないことだが)社会を変える為に必要なのは人々の意識を変えてゆくことであり、従って旧思想に代る新理論を構築することが何よりも急がれるのであって、旧思想に依拠したままチンケな運動をいくら続けても社会は全く変わらない。
とりわけ心すべきは、今も何らかの社会活動をしている人々である。彼らの多くは、自分たちの行動が社会の役に立っていると信じている。だが、旧思想に依拠した体制の補完運動は、いつまでも体制を維持させ、社会をますます閉塞させているだけなのである。むしろ、社会変革の志を抱く貴重な人材をことごとく体制補完運動に収束させ、一切の変革の芽を摘み取ってゆく既成運動こそ、社会変革の最大のガンになっていると云うべきだろう。

疾うに武力支配の時代は去り、今や(貧困の消滅によって)私権そのものが衰弱してゆく時代である。そこでは、武力でも資本力でもなく、文字通り人々の共認力が全てである。従って、人々の意識を変えることさえ出来れば、社会は変わる。逆に、旧思想(恋愛・自由・個人・人権という支配観念)に支配された人々の意識が変わらない限り、社会は(基本的には)変わらない。人々の意識を支配観念から解放する共認革命だけが、閉塞状態に陥ったこの社会を根本から変えてゆける。今、必要なのは共認革命である。


岡田淳三郎

社会統合組織の史的総括 国家と教団

新しい社会統合組織を考える為にも、まず過去の社会統合組織について簡単に押さえておこうと思う。

A.国家
社会統合は、剥き出しの武力(強制共認)から、私権の追共認(受容共認)へ、更に法制共認(自主共認)へと移行していった。

○武力統合の時代
戦争の外圧⇒暴力装置(軍隊、収奪=徴税、監獄)による絶対支配

○私権統合の時代
私権獲得の強制圧力⇒力の序列共認=力の追共認

○法制統合の時代
力の序列共認⇒身分序列(資格を含む)の共認を主柱とする法制共認

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人権思想についての疑問 その2

人権思想の根拠となるものに自然権があります。簡潔にいうと、「人は自然状態において、他人にゆずり渡すことのできない固有の権利をもっている。それは、人間がただ人間であることにもとづいて当然に身に付けているものである。」という思想です。

かつては人の自然権は、他の絶対的な価値のあるものにもとづいて、価値を与えられていました。例えば、イギリスのマグナ・カルタでは「歴史・慣習」、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言では「神」により与えられるものとされていました。いづれにしても人間を超えた超越存在が想定され、それらの絶対的な価値にもとづいて保障されたものだったのです。人の超越存在が「神」になった思想史的な過程の考察とその問題性については、『実現論』の中で、またこのるいネットに参加されている方の投稿でも指摘がされています。この点についての議論もかなり重要かと思われますが、一旦保留しておきます。

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人権思想についての疑問 その1

人権思想についてはいくつかの疑問点があります。

小学生や中学生の頃から、学校では「人権とは、人類に普遍で不可侵なものである」と教えられ、何の疑いもなく信じこまされてきました。

しかし、例えば、手元にある岩波文庫の『人権宣言集』を開いて、フランス人権宣言(人および市民の権利宣言)の章の解説を読んでみると、山本桂一氏はフランス人権宣言においての3つの傾向を挙げています。要約すると以下のようになります。

①形而上学的傾向・・・時間的空間的に限定された諸原理を明言するものではなく、人間社会に共通の普遍的原理を承認するものである。人の本性から派生する自然権として、人は人であるかぎりその帰属を受けるとし、この権利の確認のために前文で「至高の存在」を招請している。

②個人主義的傾向・・・すべて政府および社会は、個人およびその幸福を究極の目的とし、自然権の保全を政治団体の目的としてかかげている。

③市民階級中心の傾向・・・憲法制定議会は、第三身分の代議士が支配するものであったからその採択した宣言が必然的に市民階級の排他的尊重の上に立つことにはふしぎはなく、その具体的発現は、市民の平等の尊重と市民の所有権の保障の2点に見出される。市民階級の生計を確保するとともに、市民の資本家活動を促進して、資本主義経済発展および市民階級興隆の途を開いた。

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教育者は要らない

>教える事を職業とする人にはそれなりの熟練した技がありそれは、それ専門にやっていない人には難しい
>冷静に社会を客観視し学問の本質の立場から意見が言える人間(教授)というのはやはり世にとってなくてはならない存在なのである。

問題は、教授に限らず現代の教育者の大半が、教えるに足る何かを持ち得ているのかと言うことでしょう。

>‘数’の中に潜むある‘美’を求めているんだ。それは図形の美しさや数列の美しさ、それらは自然界の美ともいえる。
>理屈はいい。それよりも本当に良い美しいものを創りなさい。

この様なことは本当に正しいと言えるのでしょうか。私は上記のような発言は、「美」という抽象且つ専門的・特権的価値観でもって論理的闘争に蓋をするものだと思います。

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近代思想=理念的思考の危険性

理念、理想とは頭の中だけで「こうあるべき」という観念を結晶化させたものです。
 そしてこのようなものが登場したもう一つの理由は、社会を統合する上で何がしかの観念(人々にとって都合よく見える=プラスに見える観念)を必要としたことにあります。

 さて、では我々はどうすれば良いのでしょう。
 私はおそらく必要なものは状況判断、経験則、さらには社会や人間にたいする構造的認識、これらがあれば本来十分であろう。と思います。
 

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社会と学校教育(問題と限界)

>それは、先生が社会人で無いからである。
>そのような先生に教わったところで社会の実際の仕組みなどわかることもできない
(現代秀作掲示板http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=3282『社会人でない先生』より)

私も、“教師”という「教える事専門」の職業には疑問があります。
そして、「教わる事専門」の場である“学校”にも、やはり同様に疑問を持っています。
例えば、学校という特殊空間に、社会人教師が入ったとしても、社会(生産現場)に接していない子供達に、その教師に対する尊敬と一体感(仲間意識)は、芽生えるでしょうか?
尊敬も一体感も感じられないその社会人の言葉や行動は、果たしてその場で有効に機能し子供達に吸収されるのでしょうか?
マスコミや評論家は「大人(教師や親etc)自身がしっかりすること」「大人(教師や親etc)は威厳を持つこと」「子供には目上を敬う気持ちを持たせること」など一見もっともらしいことを云いますが、本当にそれは可能なのでしょうか?

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個人主義の成立基盤

確かにこのような状態、つまり集団から疎外され万人が敵である状態であれば、個人主義は一定リアリティを持ち得ただろうし、個人を原点に置かざるを得ない事情も理解できる。

しかし問題は,その個人主義が意味を有する現実条件が、現在果していかほど存在するかである。

もちろん現在も出世競争や、個人の利益競争は存在する。しかし現実にはそこに懸けられる個々人のエネルギーは貧困が消滅するともに衰弱するばかりである。それどころか自然志向やフリーター志向など見られるように大衆的にそのフレームから脱出しようというベクトルの方が最早勝っているかに見える。

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資本主義と権利

「権利」について、若干の私の考えを述べます。

日本において、「権利」が喧しく言われ出したのは、おそらく大正から戦前にかけてではないかと思われます。実際この時代に、労働争議や小作争議、部落解放運動、婦人解放運動(政治参加要求)など人権や権利に関わるほとんどあらゆる運動が勃興し、大きな波紋となりました。

その原因は、苛烈な資本主義による生産様式の変化により、銀行家、相場師、資本家といった新たな時代の強者(=エリート)が誕生するとともに、それ以外の一般貧困層との階級分化が急激に進んだためであると考えられます。

こうしてできた強者―弱者の構図があまりにも極端であると、社会統合上問題が多く、深刻な社会不安を招きかねないことから考え出されたのが、「権利」を大義名分とした社会福祉ではなかったのかと考えています。そこで私権弱者を再分配により救済することに一定の意義があったことはもちろん認めるものの、より本質的には「権利」という概念と社会福祉を与えることは、結果的に資本主義の拡大、浸透、存続に寄与していったのではないかと考えています。

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規範回路と観念回路の断層

>「権利」と「義務」を二本柱とする実定法のみを法にするのはおかしいじゃないかと私は思うんです。現代にも貫いている「法実証主義」は間違いなくどこか「病」んでいます。一般大衆としての私たちが共通して感じ、認識しているもっと根源的な「規範」「掟」に回帰すべき時が来ているんじゃないかと思うんです。


本来、規範意識→制度だと思うのですが、現実的にはそうはなってないですね。
むしろ、規範意識と法・制度は、反比例の関係にあるのが事実です。
これは何を表わすのでしょう。

自らの日常を省みても、法や制度に頼るのは、相手を信頼していない時(=自分が心を開いていない時)に限られているように思います。

友人との約束事は契約書を交わす事などない、だけど、信頼できない相手ほど何枚にもわたる契約書を確認して逃げ道や救いを法的に確保しておく。

お互いの信頼関係さえ、力による強制圧力を借りなければ成立しないような社会は、やはり「病」んでいるのでしょう。
だから、「法が整備されていて素晴らしい」という欧米賞賛論には、根本的な違和感を持っています。

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自我ではなく、共認こそ原点である

私たちは実現論において、不全感を揚棄する為の期待・応合の充足回路を基礎として形成された課題共認や役割共認や規範共認あるいは評価共認etcの共認こそが、各個体の意識を統合すると同時に集団を統合していることを明らかにしました。

また、自我が規範や評価etcの共認に対する否定を源泉として始めて成立する共認機能の副産物であり、しかも否定に基づいているが故に共認(充足)を破壊し本源集団を破壊してゆく敵対物(共認の敵対物)であることも明らかにしました。

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