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CIAのマスコミ支配の実態

以下、「自由な出版」として知られている宣伝省リンク(マスコミに載らない海外記事)より転載。
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 私が何度も報じたように、売女マスコミは、自由な出版ではなく、政府と寡頭支配階級の政治権益のための宣伝省だ。ベン・ノートンは、ニューヨーク・タイムズが記事を印刷する前に、ワシントンの許可を得ていると説明している。

 ニューヨーク・タイムズが、刊行前に「国家安全保障当局者」から承認を得るため、アメリカ政府に一部の記事の送っていることを公的に認めたのだ。

 彼は、CIAによるメディアの支配と操作は長い伝統で、ジャーナリストたちによって暴露された伝統だと説明している。

 ウォーターゲート事件を暴露するのを助けた元ワシントン・ポスト記者で、有名ジャーナリストのカール・バーンスタインが、1977年にローリング・ストーン誌に「CIAとメディア:アメリカの最も強力なニュース・メディアが、どのように中央情報局と緊密に働いたのか、チャーチ委員会がなぜそれを隠蔽したのか。」という題名の重要な特集記事を書いた。

 バーンスタインは、過去25年で、400人以上のアメリカ人ジャーナリストが「密かに中央情報局の仕事をして」いたことを明らかにするCIA文書を入手したのだ。

 バーンスタインはこう書いている。

 諜報機関と「こうしたジャーナリストの一部との」関係は暗黙だった。一部はあけすけだった。協力と忖度と重複があった。ジャーナリストは単なる諜報情報の収集から、共産主義国家のスパイへの秘密仲人まで、ありとあらゆるサービスを提供した。記者はCIAとノートを共有した。編集者たちはスタッフを共有した。ジャーナリストの中には、ピューリッツァー賞受賞者や著名記者がおり、彼ら自身、国家のための無任所大臣だと思っていた。大部分の人々はそれほど高位ではなかった。諜報機関との彼らの関係が彼らの仕事に役立つのに気付いた海外特派員たちが、機関の仕事を支援した。大胆な行為に興味を持っている地方通信員やフリーランスは、記事を提出するように、スパイ活動をしており、最も小さいカテゴリーとして、国外ジャーナリストのふりをしているCIA正規職員がいる。多くの場合、ジャーナリストたちは、アメリカの主要報道機関経営者の同意を得て、CIAのための仕事に関与していたことを、CIA文書は示している。」

 ABCや、NBC、AP、UPI、ロイター、ニューズウィーク、ハースト新聞、マイアミ・ヘラルド、サタディ・イブニング・ポストやニューヨーク・ヘラルド・トリビューンを含め、事実上すべての主要アメリカ放送局がCIAに協力したとバーンスタインが明らかにした。

 だが「CIA当局者によれば、これらの関係で遥かに貴重なものは、ニューヨーク・タイムズ、CBSとタイム社だった。」と彼は付け加えた。

 こうした幾重もの、国による操作や、検閲や、直接ニュース・メディアへの工作は、彼らは独立していると主張するが、ニューヨーク・タイムズや他のマスコミが、政府や、少なくともアメリカ国家安全保障体制のための事実上の広報官として効果的に働いていることを示している。

リンク

 ドイツ新聞フランクフルト・アルゲマイネ・ツァイトゥング編集者ウド・ウルフコッテは著書、Gekaufte Journalisten(買収されたジャーナリスト)でヨーロッパの主要ジャーナリストは、CIAの影響から自由ではないことを説明した。英語版、Journalists For Hire: How The CIA Buys The Newsは発禁になった。少数のコピーが隠滅から逃れるのに成功した。現在、二冊がアマゾンで、910.99ドルで、一冊が1,994.99ドルで入手可能だ。

 私がしばしば報じているように、「欧米民主主義国家」では真実は抑制され、管理された言説に置き換えられている。欧米の大半の人々は、安全保障体制と支配層の狙いに気が付かない。あらゆる職業や地位の人々がそれと知らずに、こうしたものを流布している。彼らに真実を知らせようとする人々は、通常「陰謀論者」として切って捨てられる。選挙民が本当のことを知らされないままであれば、民主政治があり得ないのは明らかだ。

(後略)

記事原文のurl:リンク



村上祥典
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”阿吽の呼吸”が消える国技

若い東大卒女性の過労死が大きく取り上げらえると「働き方改革」、こどもの虐待死報道が続けば「親の体罰禁止」。社会的事件が発生するとより深い原因を探ることなく対処療法的な法律がつくられます。そして多くは「つくりっぱなし」、ゆえに同じことを繰り返す。

機械ではない人間社会、先っぽだけを変えても、根本解決にはならない、どころか小手先の「改革」の煽りを受けて、元々あった本質価値が見失われてしまう。

こんな世界にも・・、という事例を紹介します。

村松友視「北の富士流」より
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大相撲人気の回復の中で、「立合いに両手をつく」は、行司や審判委員のきびしい監視もあって、力士全体にほぼ行きわたっているように見える。今日の土俵において、「両手をつく立ち合い」もまた“正義”の象徴のごとく実践されている、と私の目には映っている。

だが、この作品を書くにあたって、相撲全盛期といわれた“栃若時代”あるいは“柏鵬時代”のフィルムやビデオをいくらか見直してみると、当時の力士はむしろ、立合いに両手をつかぬケースが多いように思われた。当時、その「両手をつかぬ立合い」が問題となったあざやかな記憶が、私などにはあまり残っていないのだ。その立合いの雰囲気からは、おそらく「両手をつく」より上位の価値であろう「阿吽の呼吸」が伝ってくるのである。
(略)
相撲は立合いがすべて・・・これは、おそらく“阿吽の呼吸”の奥に秘められた、私などには理解できぬ事柄であると認識しつつ、そこが相撲の真理であろうとは理解できるような気がするのだ。“立合い”にはたしかに、力士が“命”をかけるほどの価値があるにちがいない。ただ、「立合いがすべて」と「立合いに両手をつく」は、果たして直につながる事柄なのだろうか、ということなのだ。

また、“栃若時代”や“柏鵬時代”の相撲は、立合いに両手をつかなくても、見る者を納得させる攻防の迫力と奥深さにあふれていた。そこはたぶん、というより当然、相撲関係者が百も承知の事柄なのであろう。では理想の立合いとは何かについて、相撲の素人であるファンを説得する言葉を編み出すのは至難のワザである。

そこで、“無気力”や“八百長”あるいは“大麻”や“野球賭博”などがリークされ、改革を迫られた協会が選んだ「正しい立合い」を世間に対して証明する言葉の象徴が、きわめて教科書的で単純明快な「立合いに両手をつく」だったのだろう。そして、「立合いに両手をつく」を金科玉条とすることにからむ何とも言えぬくすぐったさは、相撲体験者たる協会の人々や土俵で取組む力士がもっとも強く感じているはずであると、私とてもうすうす感じているのだ。

だが、世間的な“正義”からの大批判を浴びて、それに対して姿勢を正して見せようとすれば、そのような杓子定規な言葉の選択とならざるを得ず、それでしばらくは批判をやりすごせたりもするのがこのご時世の中での“正義”にちがいなく、そしてまたいつ何どきその価値観が風化するかもしれぬ運命にある。第一、そんな幼稚で教科書的なところに、相撲の真髄があるはずがない。「立合いに両手をつく」のはるか彼方に阿吽の呼吸という神秘があるということにちがいないのである。

力士と力士が“情”を込めて“真剣勝負”をする相撲という摩訶不思議で奥深い世界の価値は、とうてい法律の条文並みの言葉では言い表せぬ、汲めども尽きぬ伸縮自在の味わいにみちてくる。そして、“決まり事”というのは、つねに分かりやすすぎる表現にならざるを得ない。



春野うらら 

居場所とは役割のある場所

時間さえあれば、人は充足できるのか?

自分に役割があるとき、人の役に立てたときに
私達は満たされるのではないだろうか?

リンク

ストレスがないというストレス
仕事を辞め自由な時間を満喫し、さらに長い時間が流れると、人は次第に寂しさや虚しさで心が埋め尽くされるようになってくるのだそうです。
初めの頃は時間が出来た事がうれしくて、あれもこれもとやってみたいことを思い巡らし、テンションも上がるものですが、ストレスがない状態というのは生活の満足度を大きく押し下げると言います。
そうなると自分はこの先どうなりたくて何がしたいのか、それどころか自分がこの世の何者なのかさえ分からなくなってしまう人もいるようです。
30代で会社を人に譲り、アーリーリタイアをされた方のブログを、だいぶ昔に読んだ事があります。その人が言うには、リタイア後に同じ趣味の仲間を自分から見つけて楽しめる人はいいけれど、そうでない人は人間関係のストレスは圧倒的に減る分、孤独感や疎外感を強く感じるようになるのだそうです。
退職後はうつ病を発症するリスクが40%も高まるというデータもあります。

とにかく時間が欲しかった
私が仕事で忙しかった頃、喉から手が出るほど強く欲していたのは、潤沢な「時間」でした。
時間があれば、本も好きなだけ読めるし映画も見放題、日数を気にしないで旅行も出来る、夢のような日々が待っていると信じていました。
面倒くさい人間関係からだって解放されて、一人の時間を有意義に過ごせるに違いないとも思っていました。
孤独感や疎外感を感じるなんて想像した事もなかったけれど、よくよく考えてみれば、先ほどのアーリーリタイアをされた方の言う通りです。
しかし忙しい時には、孤独感や疎外感なんてものが、そんなものが人の心を大きく占めるなんて思ったことすらありませんでした。
ストレスの多い人の方が人生の満足度が高い
話は少し変わりますが、スタンフォード大学の心理学者のケリー・マクゴニガル博士が自身の著書の中で「ストレスの欠如は人を不幸にする」と述べています。
ストレスと生きがいは強く結びついているのだそうです。
「18歳未満の子供を養育している人達は、毎日多くのストレスを感じていると同時に、ほほえんだり、笑ったりする事が多い事が分かりました。また、起業家の場合、前日に大きなストレスを感じたと答えた人達は、同じ日に興味深いことを学んだと答えている事がわかりました。」
また、
「多くの人は、こんなに忙しくなかったら、もっと幸せになれるのにと思っていますが、実際は正反対なのです。やるべきことが多過ぎるくらいでも、忙しい人のほうが幸せを感じています。だからこそ、急にやることがなくなって暇になってしまうと、危険なのです。」
とも述べています。
ストレスの多い人の方が、愛情や健康に恵まれ、人生に対する満足度が高いと彼女は言うのです。

居場所とは「役割」のある場所
人が孤独感に苛まれた時に何を求めるかと言えば、それは単純に「人の温もり」だろうと思います。
誰かのそばにいる、誰かと心が繋がっている。それは、遠くにいても近くにいても同じことです。
心を通わせるということは、自分の居場所を見つけることでもあります。
自分の居場所、それは「自分の役割のある場所」と言えるかも知れません。
それと同じように、社会の中で疎外感を感じるのは、自分が身を置いているはずの場所に自分の居場所がないように感じた時なのではないでしょうか。
だとすれば、逆に社会の中に「役割」を見いだすことが出来れば、自分の居場所が見つかり、途方に暮れる程の孤独感からも少しは解放されるような気がします。

自ら人と関わることで役割を見いだす
では仕事以外で社会の中に役割を見いだすには、どうすれば良いのでしょう。
自分の心が温かさに包まれるのはどんな時かと言えば、やはり人との繋がりを感じた時です。
そして人は人の役に立てた時が、何よりも強く満足感を得られるように思います。
だとすれば役割を見いだすには、自分から進んで人に関わっていくことが一番の近道となるとは言えないでしょうか。


同じくケリー・マクゴニガル博士が述べています。
「ストレスを感じるのは、人生がうまく行っていないしるしではなくて、自分にとって大事な活動や人間関係に、どれだけ熱心に取り組んでいるかを示すバロメーターと言えるでしょう。」


「役割」というものは、仕事の有る無し、家族がいるいないに関係なく、社会の中で生きていくことの大きな意味となります。
人によってはそれを「生きがい」という言葉に置き換えて暮らしているかも知れません。
なぜなら「役割」とは、お金や時間には代えられない「生きる喜び」でもあるからなのだと私は思っています。



匿名希望

LGBT(Q)を促進している策略

LGBT(Q)を促進しているイルミの策略リンクからの転載です。
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朝鮮、部落、やくざ、カルト教が支配する日本の芸能界も、数十年前から何人ものオカマさんをバラエティに出演させ笑いを取らせ、彼等の番組の露出度を増やしていきました。今では(あまりテレビを観ない私でも気が付きます)、大勢のLGBTQさんたちが超人気芸能人としての不動の地位を獲得し番組を盛り上げているようです。このように、彼等をマスコミに露出させることで一般の日本人からLGBTQ族に対する違和感を取り去ってきました。そして人々をLGBTQへと導いています。

リベラル左翼の思想の一つにマイノリティに対する差別をなくすというものがありますが、現在の状況では、リベラル左翼は彼等に対する差別をなくすどころか、彼等を優遇し、LGBTQでないごく普通の人々を偏見の目で見て差別しているのですから呆れます。リベラル左翼思想=共産主義ファシズム=NWO人口削減=人類奴隷化=イルミ=悪魔=破壊者となりますから、彼等のやっていることは必ず人口削減と奴隷化に到達します。

LGBTQの人たちがいかに破壊者によって都合よく操られているかを知るべきではないでしょうか。

なぜ大企業はみな異性愛を嫌悪するのでしょうか。なぜ、大企業は男性らしさ、女性らしさを非難し正常な感覚を混乱させるのでしょうか。なぜなら、大企業は中央銀行の悪魔崇拝バンカーら(金融エリート)に支配されているからです。これこそが共産主義体制(ファシズム)なのです。

LGBTQは、どちらの性にも属さないと感じている人
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匿名希望

転んでもただでは起きない安倍首相のパフォーマンス外交

集団はリーダーの能力に規定される場合がある。
リーダーは現状を突破するために、課題の中心に標準を合せて、具体的にもの事を動かしていく。

外交は錯綜する情報、立場の中でのリーダーシップが求められるのだろうが、我が国の「やってる感」外交は、どうなん?

天木直人さんのブログ(リンク)からの引用ですが、なんとも、切ない。

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安倍首相の外交を見ていると、およそ外交というものは、そのほとんどがパフォーマンスでいいのだ、と開き直っているように見える。

 そして、それが正しいと思えてくるから不思議だ。

 実際のところ、最近の世界の首脳外交を見ても、首脳会談が行われたからといって、それが直ちに劇的な成果につながる首脳外交など、めったにお目にかからない。

 そう考えれば、安倍首相の「やってる感」外交も、立派な外交ではないのか。

 そう思えるのだ。

 きょう6月13日の日経新聞に、テヘラン発島田学記者の書いたこういう記事がある。

 「安倍首相は訪問中のイランでロウハニ大統領やハメネイ師との会談を踏まえ、28、29日に大阪で開く20か国首脳会談(G20サミット)でイラン情勢の緊張緩和に向けた協力を呼びかける」と。

 なるほど。

 これで合点がいった。

 この記事は、ロウハニ大統領との会談が始まる前に書かれた記事だ。

 つまり同行した首相側近が、首脳会談がどうなろうと関係なく、その前に今度の安倍首相のイラン訪問のもう一つの意義を記者に漏らしたのだ。

 今度の安倍首相のイラン訪問は、その内容がどういう結果に終わろうとも、安倍首相にとって意義のある訪問になる。

 つまり、G20直前にイランを訪れ、ロウハニ大統領やハメネイ師と会う事自体が、もう一つの大きな目的だったのだ。

 G20でイラン情勢について主導権を握り、イラン情勢の緊張緩和に議長として貢献した、そう成果を強調するためのアリバイ作りだったというわけだ。

 パフォーマンス外交、やってる感外交、ここに極まれり、である。

 転んでもただでは起きない安倍外交である(了)



井上誠